穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

安部公房「他人の顔」一応読了

2022-10-30 07:49:43 | 書評

 この本(新潮文庫)には大江健三郎の解説がある。大江は安部より一まわり若く、いつもつるんで歩いていたと誰がが評していたのを思い出したが、その解説のなかで安部の作品は再読を求めると書いている。たしかに、、、そうかな。
 しかし、あの文章を再読するのは勘弁してほしい。何しろアヴァンギャルドルドだから意地悪に分かりにくい悪文を書いている。安部公房の小説で一応最後まで読んだのは、前に書いた「燃え尽きた地図」に続き、二冊目だ。   

 アヴァンギャルド風味はこちらのほうが強い。再読は勘弁してほしいが、その代用として一気に読まないで(実際は読めないのだが)今日は二十ページ、十日後に三十ページというふうに読むと、やや再読的な効果があることが分かった。そんなわけでこの小説を読み終わるまでに一月かかった。
 これも大江が書いていることだが、安部の作品は演劇的だ。ケロイドのやけどを顔面にうけた*私と精巧な仮面を作って被る*俺と*妻のペルソナの三角関係だ。私は仮面をかぶって妻を別人として犯そうとする。妻はそれに乗ってきたが、最初から仮面は私と同じだということが分かっていたのよ、という話である。最初はとても演劇と言うか映像化できない話だと思ったが、このように整理すると芝居や映画になるかもしれない。
 腑分けすると、私がひそかに仮面を制作する場面、これが小説の半分以上を占める、とそれを被って予行演習をする場面、妻を他人として誘惑して犯すパート、そしてそれをノートに書いて妻に読ます場面。それに対して妻がそんなことは初めから分かっていたのよと興ざめな返事をする場面になる。これをノートに書いた告白文と言うスタイルで書く。
 大江は最初のパートは後半を理解するためには、読むのを疎かにしてはいけないという。評者はそうは思わない。後半だけで充分だ。前半の退屈な部分を読まないと、「鮮やかな後半の形而上学的どんでん返しのアクロバット」が分からないという大江の考え方には賛成できない。
 勿論前半は必要だが、それを別様に書くのは能力だろう。ま、ハロウィーン物語の一種かな。

コメント
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