穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

勤め人もの

2012-08-06 18:57:49 | 書評
勤め人というのは死語だっぺ。そこで注釈、勤め人と言ってもうさんくさい闇の人間ではない。必殺勤め人とかね。あれは仕事人だっけ。

ま、その大宗はサラリーマンと官僚である。サラリーマンというのも死語だべか。週刊誌の中刷りなんかを見ると「ビジネスマン必見」なんてある。あれは「サラリーマン必見」と同じらしい。

忘れてしまった勤め人の感触をちょっとよみがえらせる必要があって、城山三郎の「毎日が日曜日」と山口瞳の「江分利満氏の優雅な生活」を買った。

サラリーマンと言っても団地だとか高度成長とかの時代だ。その時代の雰囲気が必要だったのでね。いまでも今風の勤め人小説は有るのだろうが。それはそれさ。

山口の方はまだ読んでいない。「毎日が日曜日」の最初の方はサラリーマン社会のことがよく書けている。だがちょっと解せない箇所がある。京都支店長のカレが息子の交通事故で何回も手術に立ち会うというところだ。ガス壊疽というんだが、傷病兵の収容もままならない戦場とか、医薬品や医者の補給もままならない前線ならいざしらず平和時にガス壊疽を持ってくるとは考えたね。抗生物質の有るところでガス壊疽なんておこるのかな。よほどのヤブ医者だろう。まそれはいい。

おかしいな、と思ったのは京都にいるもと社長が息子の事故ぐらいで何回も東京にいくのはどういうことだ、と怒るところ。直接ではなくて、次長のなにがしが取り次ぐのだが、これがおかしい。

支店長が息子はガス壊疽だということを次長に伝えていないことが妙だ。サラリーマン社会では職場を長期にはなれるときはそれなりに事情を報告しておくのが常識と思ったが。また、部下の次長が相談役(前社長)から言われたときに、事情をそれなりに調べて補足するのがサラリーマン社会の仁義だろう。

もっとも、この次長は悪役(的)に描かれているからわざと不自然に書いたのかもしれないが感興を削がれる。

城山の小説はうまいから全体としては指摘するほど目立つわけでもないが、ほかの作家の小説には明らかにおかしなことを書いてあるのに出くわすと先を読む気がなくなる。もう死んだらしいが、佐野洋という推理小説連中の会長までつとめた男の小説に妙なのがあったのをついでに思い出した。

サラリーマンを経験していなければかけない雰囲気はあるだろう。そういうときにはぼろが出ないような書き方があるものだがね、佐野洋のはひどすぎた。