穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

安部公房とは何か

2022-10-27 08:32:24 | 書評

 ウィットゲンシュタインではないが、問いに答えがあるかどうかは措定する命題で決まる。「安部公房とはだれか」ではない。その問いには有効な、あるいは正しい答えがあるだろう。そうではないのだ。「安部公房とは何か」なのだ。意味のある答えがあるのだろうか。鄙見をのぶればない。
 私の書棚には十一冊の安部公房がある。一応最後まで読んだのは一冊、途中まで読んだのが三冊、あとは未読未開頁である。勿論再読したものはない。ある年に安部公房を読もうと思ってまとめて買ったのだが、それから十年以上のような状態なのである。どうも読めないのである。理由は分からない、つまらないである。「つまらない」は趣味の問題だから脇におくとして、「分からない」は下拙の読解能力が関係しているのかもしれないと、もともと謙虚な私は考えた。
 普通ならそれで放っておくのだが、なにしろ彼は世評の高い作者である。そんなわけで読まない本を処分することは躊躇して、未読のまま書棚にささっているのだ。
 そこでアンチョコを探した。もとえ、解説書を探した。これがない。大書店には大体「作家論」の一隅がある。しかし数店、日課の書店散歩で探したがどこにもない。書棚の各冊の最後の解説を読んでも役に立つ情報があるわけでもない、と僭越ながら独断してしまった。
 ところが先日ある書店の作家論コーナーで安部公房の書評が五冊も並んでいた。そのうち、二冊は朝鮮人の女性研究者のものである。これには奇異感をおぼえた。なぜ韓国女性なのか、パス。また彼の娘さんの書いた本があった。これは作家論と言うよりも個人的な「思い出」らしかったのでパス。ほかに未知の女性研究者らしい人の本がささっていたので、とりだして立ち読みをしたが、大学の紀要のような印象で価値のある情報とは無縁のようであった。あと一冊は男性の書いたもので、名前の知らない人だったので、これもパスした。結局何も買わなかったのである。五冊中四冊が未知の女性の著者と言うのにも驚いた、モトエ、感じ入った。
 それでもまだ未練がましく「安部公房とは何か」と問うた。ある人はアヴァンギャルトだという。ある人は前衛だという。そうすると、と私は考えた。前衛芸術と言うのは文学に限って言えば昔から理解できない。絵画の世界で前衛と言うのは理解できるのだが。小説ではだめだったのである。

コメント
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