穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

 訳者あとがきの作法

2015-10-27 20:34:41 | モディアノ

本屋でノーベル賞作家モディアノの翻訳で「パリの迷子」(と記憶、正確ではないが)というのを手に取った。私は巻末に解説とか訳者後書きなんかがあると、まずそこを立ち読みする。 

このパリの迷子には訳者あとがきがあるが、これがひどい。うっとりしたような感嘆詞の褒め言葉の羅列だ。これでは解説ではないだろう。しかも、おれの(わたしの、だったかな)訳した本はこんなにすごいんだぞ、と言っているようなもので、興ざめである。

訳者とは違う評論家とやらの感嘆詞だけの解説があるが、これも解説になっていない。しかし、訳者ではない解説者のものは、単発でいくら(の原稿料)だからまだ罪はかるい。訳者の自己陶酔はそれで売り上げが増えると思っているのだろう、翻訳だと部数で収入印税が決まるとしたら、後書きはセールス・コピーにすぎない。

勿論、その本は買わなかった。

めくるめく文章なんて言われても行商人のそらぞらしい言葉を聞いているようなものだ。時制の使い方がすごい、なんて翻訳でどう工夫したかを書いたほうがよっぽど気が利いている。

前にも書いたことがあるが、村上春樹訳のチャンドラーの解説は良い方の見本である。解説を読むのが楽しみでもある。そういえば、村上春樹訳の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」には現著者の意向で解説は入れられないと書いてあった。どういういきさつがあったのか、現著者が生きているとこういうケースもあるのだろう。

たしか、村上春樹の文庫本には解説のついているのは無かったような。これも例外的なものだろう。サリンジャーにも文句を言えないな。

 

 

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オードリー・ヘップバーンの印象とは大分違う

2015-01-01 23:07:46 | モディアノ

「ティファニーで朝食を」は映画で有名でした。主演がオードリーで、この映画は見ていないが、「ローマの休日」の彼女の印象と小説の印象は全く違う。村上春樹もあとがきで書いていますが、カポーティもこのキャスティングには不快感を表明したといいます。

ホリー・ゴライトリーという20歳(未満?)の女性が主役ですが、将来有望な映画俳優の卵ということになっている。しかし、芸能界やニューヨークの社交界では結構知られた顔になっている。ボロアパートに住んでいるが、ひっきりなしに金持ちや映画界の大物を招いては乱痴気パーティを開いている。一種のセレブと言うか成功者だ。虚栄の市に住んでいる根無し草という設定はギャツビーと同じ。カポーティは彼女は「ゲイシャ」だといっている。読み方によっては「高級コールガール」あるいは高級遊女という感じがある。

「僕」がナレイターでグレート・ギャツビーのニックにあたる。同じアパートに住んでいる。

彼女の素性が分からないというのもギャツビーと同じ。最後にテキサスのチューリップというとんでもない田舎から出て来たということが分かる。ほんとにチューリップなんでいう場所はあるのかな。カポーティのギャグだったりして。

ギャツビーは暗黒街のボスという隠れた顔があったが、彼女には刑務所に入っているマフィアとの連絡役という側面があり、逮捕されるが保釈されてブラジルに逃亡して杳として行方が知れなくなるというもの。殺されたギャツビーほど悲劇的ではないがキング(クイーン)の座から転落しておわるところは同じ。

これだけなら芸の無い話だが、この19歳くらいの「高級娼婦風」が「僕」を相手に気のきいたセリフを連発する。ときに高踏的警句、ときに深遠な哲学的言辞を吐く。もちろん単に支離滅裂なこともしゃべる。およそ、こんな破天荒な若い女性が現実にいるとは思えないが、いる様に思わせるところがカポーティの芸である。一読の価値があります。

あるとき、彼女が「アカな気分になる」という。最初は読飛ばしていたが後で又出てくる。なんじゃい、と思った。共産主義者的とか過激派的とかなんかと思って読み進むがどうもつながらない。しょうがないから、最初から読んでみるとどうも「ブルーな気分」(憂鬱なという意味ですかな)と対比していうホリーの造語らしい。「僕」はアングスト(不安感)と解釈している。実存の危機感とでいいますか、気取って言うと。 

ギャツビーでは「オールドスポート」について長々と考証をした村上氏は全然あとがきでも言及がないからわからない。カタカナで「アカな」と書いてある。此れじゃ分からない。原文はどう書いてあったのかな。Red,scarlet or crimson ?

ブルーと対比しているから色には違いないだろうが、うっかり読むと垢と勘違いする、それでも意味が通りそうな気がする、なにしろ型破りの発言をするホリーのことだから。 

タイトルの「ティファニーで朝食を」だが、このアカと関係してくるから重要なところでここは村上春樹氏に是非翻訳を工夫して欲しいところだ。

ホリーが「僕」に説明したところによると、アカな気分に取り憑かれたときはアスピリンを飲んだりヤクをやったりしてもだめで「ティファニーに言って朝食を食べる」と治るとすっとぼけたホリー用語で言っている。

高級宝飾店として、おつに取り澄ました雰囲気の店に行くとアカな気分がおさまるという人を食った言葉なのである。ところでニューヨークのティファニーはレストランを併設しているの。これもギャグくさいがね。

最後に「グレート・ギャツビー」は1924年発行、「ティファニーで朝食を」は1958年発行です。

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ティファニーでおせちを

2015-01-01 18:07:43 | モディアノ

あけましておめでとうございます。皆様はアカな気分になっていませんね。ましてブルーな気分にはなっていないと思います。おとそで邪気をはらえばそんな気分にはなりません。

わたしはどうも読書傾向を探るという癖がありまして、このところノーベル賞作家のモディアノ氏の作品をあらかた読みました(翻訳で)。彼の場合でも、どんな本を読んでいるのか気になりまして、解説等でもそういうところに目がいきます。

最近ラディゲの作品を読んで書評したのも彼の「8月の日曜日」に頻出する「プロムナード・デ・ザングレ」がラディゲの影響だというので読んだ訳です。パリ市内セーヌ河岸にあるニースが本家の「プロムナード」のまがい物に触発されただけのことらしいと分かりましたが。 

また、あるところで彼の読書履歴でカポーティの「ティファニー」を上げているので未読だったのを幸いに読んだわけです。結論から言うと、これらの作品とモディアノの作品との関係、影響は感じられません。

もっとも感銘を受けた作品が直に自作に影響する方が珍しいのかも知れない。影響を受けているとすればもっと深いところで感銘を受けているということでしょう。あるいは営業上の理由で本当に影響を受けた作品は隠すというのが作家かも知れない。

ところで「ティファニー」は新潮文庫で村上春樹訳でした。読後の印象は構造的にフィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」に酷似しているということでした。後者は村上氏の訳の評判が高い。これも村上訳というのでちょっとびっくりしました。

ところが、村上氏の訳者あとがきではグレート・ギャツビーとの比較には全く触れていない。それなら、ここで書く意味があるかなと。 

続く、、

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セックス描写三態

2014-12-26 08:19:55 | モディアノ

 モディアノの作品をその後一、二読んだ。モディアノ中毒になったかな。読んでもちっともいい気持ちにはならないのだが。

あと数十ページを読み残しているのが「イヴォンヌの香り」。これはかれにしてはちょっと変わっている。日本で昔言った中間小説みたいな、なんというかわりと通俗的なもので、こういう風にもおれは書けるんだよ、と示したような作品である。

映画化されたそうだが、通俗文化向きの傾向が強い。理解出来る。彼の作品は時間軸が複数ある。これは彼の専売特許ではない。百人中九十九人の作家が取る手法では有るが、彼の場合は時間軸同士が融合している。これはあまり他にはない。

普通はここからフラッシュバックですよ、とイントロがあって、はい、ここから時間の主軸に戻りますよ、と書いてある。書かないと読者が文句を言うか、批評家が文句をつける。

モディアノは完全に一体化している。ヘーゲル流にいえば此れまでのすべての内容が持ち越され、含まれている。これはたしかに趣向ではある。

さて、イヴォンヌのかおり、ではt1軸とj2軸はあるのだが、t1軸の方が圧倒的に分量が多い。したがってt2軸はいわゆるフレームになっている。実質t1主力の叙述といってよい。これは私が今まで読んだ彼の作品には無い特徴のように思われる。わかりやすく、映画化しやすい描写といえる。

さてモディアノの性場面の描写であるが、全く書かないか、なんとなくここは性交で場面暗転中断とほのめかすだけだ。イヴォンヌでは比較的世間並みに接近しているが、いわゆるポルノ的な描写は一切無い。書くのに抵抗があるのか、たしなみなのか、結構なことではある。

作家によるセックス描写には三つの種類があるようだ。ひとつはモディアノ流で、現代では超マイノリティである。

二番目はポルノ風というのか、この場面がなかったらどうするの、と性交愛欲描写に命をかけてあくまでもくどくいくもの。マジョリティである。

三番目は村上春樹流である。「性交した」、「挿入した」てなお医者さんごっこのようなあまりといえば、あんまりな即物的なタイプ。ユニークとはいえよう。

之によって此れを観るにノーベル賞選考委員は上品な作品が好きらしい。だいたい、セックスは「する」ものでしょう。読んだり見たりするものではない。鼠蹊部を損傷しているのでなければね。

もっとも、バイアグラを服用して唸りながらするものでもない。

 

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時間をシャッフルする

2014-11-19 21:48:19 | モディアノ

パトリック・モディアノの翻訳がにわかに増えて来た。人気が出だしたのだろうか。彼は息の続かない作家らしい。いずれも目に優しい活字組みで200ページくらいの中編だ。そして値段が、単価が高い。200ページの単行本と言うと普通はせいぜい千四百円くらいだろうが、モディアノの翻訳は大体二千円から二千五百円くらいのようである。それだけ出版社も大量には売れないとふんでいるのだろう。本の生産コストも廉そうだ。紐の栞の無いものが多い。私の様に一気読みをしない読者には不便だ。ま、こんなところが即物的な印象だ。内容を読んだ感想ではない(読んだのは書評を書いた二冊とこれから書こうとする三冊だけだ)。

さて、彼の作品で「八月の日曜日」というのがある。大分前に買ってちょっと読んで「これはどうも、」としばらく放っておいたのだが、時間が出来たので続きを読んだのだが、途中からテンポがよくなった。彼の小説について、よく推理小説風といわれるが、そんな感じになる。高価なダイヤモンドの首飾りを持った女性が連れ去られて行方不明になるというあたりからだ。

 しかし、ノーベル賞受賞作家の作品である。行方不明事件の解決なんてオチはない。純文学なのである。

さて訳者の堀江敏幸氏の後書きによると「語りの時間軸の複雑にして精妙なゆがみ」とあるが、私の表現でいえば、時間をシャッフルしているテクニックが独特の趣を出している。玄人ごのみの職人技というところだろう。したがって途中まではチンプンカンプンで投げ出したくなる。最後まで読まない腑に落ちない作品である。失踪事件あるは拉致事件(事件の性質も特定出来ない)の解決は無いが、作品は奇麗に円環を描いて結晶化する。

また、場所についても二つの軸がある。南仏ニースとセーヌ川に合流するマルヌ河畔である。知っている人は知っているのだろうが、小説に出てくるあたりのマルヌ河畔のことはあまり知られていないのではないか。うさんくさいというか曰くのある金持ちの別荘があるところと小説ではほのめかせている。女主人公の住んでいた場所で、「わたし」と彼女が出会った場所でもある。

一方ニースはシルヴィア(女主人公)とわたしが世間を逃れて隠れ住んでいる場所である。わたし(この場合の「わたし」は書評の筆者であるが)はニースに二、三回滞在したことがあるだけで表のニースしか知らなかった。当然ながら観光地の裏側に別のニースがある。その辺りが二人の生活しているエリアである。ニースの観光客向けの代表的なところにプロムナード・デ・ザングレ(イギリス人の遊歩道)と言われる海岸沿いの道がある。これが頻繁に小説に出てくる。その頻出度は異常とも言えるのだが、マルヌ河岸にもプロムナード・デ・ザングレという道路があるというのだな、堀江氏の解説によると)。

そうすると、小学生の作文の様にやたらとプロムナード・デ・ザングレが出てくるのは作者の意図的手法であったわけである。 

いままで読んだ三作のなかでは一番よくまとまっている作品だ。一般受けするかどうかは疑問だが。

 

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モディアノの「暗いブティック通り」

2014-11-02 19:12:49 | モディアノ

100ページほど読んだ。

面白いか、と聞かれれば退屈だと応える。文学としてはと聞かれれば

門外漢だがと断った上で「質の高くない作品だ」と答える。

—しかしゴングール賞作品ですよ、と反論されれば、「ヘー」と驚く。

—推理小説仕立てだそうですね、と言われれば、明白にそのフレームを使っているね、と答える。

そうね、最初の1、2ページはハードボイルド風タッチを装っているが後が続かない。

この翻訳者の後書きにもあるが、引用「わずかのスペースのうちににも場面の雰囲気や人物の風貌を如実に浮かび上がらせる、一種独特の官能性をおびた文体である」引用終わり

他の関係者にも同様の説を述べるものがいるが、首をひねらざるを得ない。ほとんど同じ文言を使っているところをみるとゴングール賞を受賞したときの授賞者の評言をコピーしているのかも知れない。

前回紹介した「家族手帳」には興味を持った。それは作品として完成しているというわけではなく、将来の才能開花を予感させたということだが、この作品の延長線上にある「暗いブティック通り」では才能の開花は認められない。

 

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