ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

沈黙

2017-01-09 13:11:04 | 日記・エッセイ・コラム
これは映画の題名である。
まだ公開されてはいない。
時々暇に任せて映画に行くのだが、
その時、予告編で見たのだ。
舞台は日本なのだが、監督は欧米人のようだ。
ともかく本編を見るつもりはない。
私には合わない。
・・・・・
欧米人の発想にはいまいち馴染めない。
言葉過多で理屈っぽいところが、どうも…。
この映画の筋書きはよく知らないのだが、
沈黙とはどうも神の沈黙らしい。
命を懸けての信仰であるのに、
神は何も答えて下さらないと。
それだけの単純な筋ではないだろうが、
発想そのものが馴染めない。
聖書にもあるが神は時々人を試す。
極めつけは怒りで人を滅ぼす。
その聖書にヨブ記という編がある。
そこに出てくるヨブは信仰の人である。
ありとあらゆる災いに合いながらも神への信仰を捨てない。
恨んでもおかしくない程のことなのに。
それが本当の信仰だと、聖書は言ってるのだろう。
ならばである。
神の沈黙を嘆くとは…。
こんなに信仰してるのに何も答えて下さらない、と。
まことに畏れ多いことだ。
これはつまり人が神を試すことになる、はたまた疑うことになる。
信仰とは真逆のことだ。
本当の信仰は神を試さない、疑わない。
たとえ棄教することになってもだ。
その時もし神が現れれば、何も言わずただ立てばいい。
素の魂で。
それでいいと思うのだが。
・・・・・
この映画の原作は日本人である。
日本では数少ないクリスチャンである遠藤周作氏である。
だからか発想が欧米的なのは。
もうすでに故人ではある。
あの世で思いの胆を聞いてみたいものだ。
それにしても矛盾だ。
イエスは人類のすべての罪を背負って生贄となられた。
その時、人類は救われている。
なのに一々個々に救いを求めるのは、
ダブルブッキングではないのか。
私はクリスチャンではないのでよく分からない。
勿論祈るのは自由だ。
祈りは神との繋がりを確認する手段であり、
それはそれを通して自らを救うことである。
祈りは神への要求ではない。
だから思う。
人のことは人で決着を付けよう。
そういうことだ。