甍の上で

株式会社創瓦 社長 笹原真二のブログです。

蘇る 学生時代 青春の 歩んだ道は 今ここに有り

2024-03-02 22:02:22 | Weblog
    おじさんたちの修学旅行、岡山・広島編
 
前回の大東文化大学陸上競技部有志によるおじさんたちの修学旅行の時(一昨年の9月)、「宮島に行きたい!平和資料館に行きたい!広島のお好み焼きが食べたい!」ということで決まった今回の旅。

 1年後輩の観光会社に勤めている江田からは、秋は、観光シーズンなので1月2月の観光業にとってオフシーズンにしてくださいというリクエストをもらっていた。
自分の中で決めた宿泊先の一つは、愛媛県今治市の来島海峡の北側に位置する大島の千年松という料理旅館、ここなら冬の美味し瀬戸内の幸をみんなにいっぱい食べてもらうことができる。その上、岡山県の児島と香川県の坂出を結ぶ瀬戸中央道と、愛媛県の今治と広島県の尾道を結ぶしまなみ海道の二つの瀬戸大橋も渡ってもらうことができるドライブコースだ。広島、宮島については、同期の清水に任せておけば良い。

 そんな清水が、一昨年12月17日、突然、心筋梗塞で亡くなった。吉元、平盛さんと悔みに行ったとき、「笹原さんから電話をいただいて、皆さんに広島に来ていただいたら、宮島とか、呉の潜水艦とか・・・下見に二人で行ってみようと話をしていたんですけど、それも叶わなくなってしまいました・・・」という奥さんの言葉がさみしさを余計につのらせた。
 
 7年先輩の呉の中松さんに、旅行の話をすると、「そりゃあ、呉に泊まりゃあええ。二次会は、うちのスポーツバーチャンピオンで歌い放題、飲み放題じゃあ!」ということで、中松さんが、呉での宿泊、食事の段取りをしてくださり、旅の大枠は決まった。

 日程はGW,2年先輩の森田さんの大分、天ヶ瀬の別荘に遊びに行った時、1月26日金曜日から28日日曜日の二泊三日で決まる。8月の末にアバウトな日程表を作り、同世代のOBと、中松さんの世代のOBに案内を出した。

 9月の末で二泊三日の参加予定者が、我々の時代の監督、青葉先生を含め28名、二日目の呉参加が3名という状況だった。
年末の24日、今回の代表幹事の中松さんが自分の誕生会で、酔っぱらって階段から転倒。救急車で運ばれ労災病院に入院している写真が送付されてきた。顔には青痣、身体はコルセット、腕、足は包帯、満身創痍。旅行日までに退院できるのか?。

 年が明け正月3日に再確認を取った。年末に入院し、放射線治療をしていた青葉先生は、体調が良くないということで欠席、2年先輩の熊本の佐藤さんは、お父さんの具合が良くない。1年先輩の鹿児島の米盛さんも、昨年骨折した足の状況が良くないということでそれぞれ不参加ということになった。

 旅行2週間前の14日、日曜日、幹事の平盛さんと、清水のお墓参りのこと、宮島での昼食、厳島神社、弥山ロープウェイの下見に行って、帰りに中松さんの見舞いも兼ねて旅行の最終打ち合わせに行くことにしていた。

 前日の13日、中松さんから電話が入る。すでに退院しているという。「明日、清水のお墓参りの件、宮島での昼食の件で広島に行く。」と言うと、「わしも一緒に行く。昼食はどこか決めとるん?もし決めてなかったら、広陵高校の野球部出身で大東の野球部の同級生が宮島で旅館や食堂をやっとるから、そこへ予約すれば良いが!」宮島のお店はネットで調べても予約不可ところが多く。中松さんの提案はありがたかった。

 当日、10時前に中松さんのお家に着く。まだ帰宅していないと、「えっ」てな感じ。着く前に何度か電話を入れたが応答がなかった。奥さんが「お茶でも飲んでおいてください。」いうお言葉に甘えてお茶を飲んでいると、中松さんは帰ってきた。

 清水の家に行って仏壇に手を合わせた後、清水が眠る霊園に、家と同様、清水が好きそうなロケーション。「2週間後、みんなで来るから。」と言って霊園を後にした。中松さんは佐伯区にいる中松さんの1年先輩の坂本さんに電話、「宮島にご飯を食べに行こう。」ということで、坂本さんをピックアップ。4人で宮島に渡った。

 宮島に着くと、目の前が中松さんの友達の旅館、山一別館へ着いたのが午後1時過ぎ。そこのレストランで穴子定食を三つ。中松さんは要らないという。来るときは平盛さんの運転だったが、帰りは私が運転ということで、中松さん、坂本さん、平盛さんはビールを飲みなが昔の話。2時間くらい居ただろうか?やっと席を立ったと思いきや、「わしは、腹が減った。」ということで二件目のお店に。別館の姉妹店、山一本館へ。ここでも飲む勢いは止まらない。おかげで弥山のロープウェイの下見は出来ず帰ってからのネットで調べることになった。

 フェリーで宮島口に戻ると、中松さんは、船の中で意気投合した、広島工業大学で棒高跳びをしていたという大学院の院生カップルと、スタンドでお酒を飲みだした。駐車場から車を出して、帰りを再三促すものの、「わしは、ここのホテルへ泊まる。」と言って聞かない。あきらめて中松さんを置いて帰ることにした。

 3人で、「どひょうしな人じゃ。(とんでもない人)」と言いながら、坂本さんを送り届けた。後ろの席を見ると、中松さんのバッグが。呉の自宅に届けるため高速の広島呉道路を走る。飲みすぎた平盛さんは、「止めてくれ!」止めると同時に車外で嘔吐。

 奥さんに、「宮島で、飲みすぎてしまって、帰りましょうと言っても、ここのホテルに泊まると言って聞かないものですから、ごめんなさい。置いて帰りました。」と平謝り。翌日、中松さんから謝りのメールが入った。

 22日、「参加できないと言っていた青葉先生が、体調が良くなったから行きたいと言ってきた。」と石川さんから電話が入る。「本当ですか?良かった!青葉先生が来ることになればみんな喜びますよ。千年松の瀬戸内の幸を食べてもらって元気になってほしい。」楽しみが一つ増えた。

 25日、鹿児島から岩元さん、宮地さん。新潟からは、佐野さん、高橋、長崎、福島から作山、長崎から立石の前泊組がやってきた。幹事の平盛さん、地元の小学校から大学まで全て同窓の藤井、レスリング部OBの山本と、前夜祭。みんな大東文化大学!昔話を魚に、すき焼きの鍋を囲む。

 26日金曜日、レンタカーのマイクロバス(運転手は立石)と、平盛ワゴンで事務所を出る。集合場所の新倉敷駅には、広島から坂本さん、中松さんが来ていた。一昨日からの雪の影響で少し遅れると言う関東組からの連絡が入るものの、12時過ぎには全員が集合、倉敷の美観地区に移動した。

 参加者は、福島から作山、栃木から神山、新潟から佐野さん、高橋、長崎、埼玉から、監督の青葉先生、中さん、石川さん、望月、江田、高畑、東京から、森下静夫さん、法村さん夫妻、静岡から 増井さん、鹿児島から宮地さん、岩元さん、吉元、長崎から、寺坂さん、立石、佐賀から、山崎、福岡から森田さん、広島から坂本さん、中松さん、平盛さん、岡山から私の26名。青葉先生は体調が良くなったというが、笑顔とはうらはらに少しやつれた感じが見て取れたが、ここまで、来てくださった事が嬉しかった。

 倉敷美観地区で1時間ほど散策。午後二時出発で、瀬戸中央道を通って来島海峡の北の島、大島の千年松を目指した。今治の「さいさい来て屋」で「今、一番美味しいみかんは?」と尋ね、甘平というミカンを箱買い2箱で12000円。一つ約300円のミカンは最高に美味しかったが、青葉先生に聞いてみると「美味しくない。」放射線治療は、それだけきついのか?味覚を壊しているようだった。

 5時半、千年松に到着、お風呂に入って6時半から宴会。歓迎の挨拶は代表幹事の中松さん、「箱根駅伝のシード権を取れて、万々歳だった・・・」と、続く青葉先生の挨拶では「中松、おかしなこと言っちゃダメだよ。この前の都道府県対抗駅伝でも、うちの久保田が、青山の黒田に勝って区間2位。ちゃんと力のある選手が育っている、2~3年後には箱根で上位に行ける。シード取ったくらいで万歳じゃないよ・・・」と、いつもの靑葉節の炸裂が場を盛り上げた。

 みんなに食べてもらいたかった瀬戸内の幸の舌鼓を打ちながら、締めは鯛飯。「美味しい」と言っておかわりする人がいっぱい。40年振りに会った人もいる。40年という時間を感じさせない雰囲気になるのは、やはり同じ釜の飯を喰った仲間だからだろう。

 27日土曜日、7時半朝食。8時50分に千年松を出発(運転手は江田。観光バスを運転しているプロドライバーの江田が今日は、僕が運転しますと。)、しまなみ街道のロケーションを楽しんでもらうコースなのに、みんな話ばかりしている。
 11時過ぎ、一昨年の12月17日に亡くなった清水が眠る霊園に。すでに、清水の奥さんがお孫さんと来ていた。みんなでお墓参り。清水が喜んでくれているだろうなと思いながら、こうしてお墓参りが出来たことに幸せを感じた。

 12時20分に宮島に到着。山一本店で、穴子定食、牡蠣フライの昼食を取り、厳島神社を拝観。大鳥居は満ち潮で海の中にあった。海の回廊を歩いた後、宝物館も見学。中松さんは、皆をリードして観光案内をしていたのだが、「仕事が入って、呉に帰らんといかん。青葉先生、増田さん、坂本さんの3人はもう歩けんと言って山一で待ってるけど、一緒に呉に帰るから・・・」と/

 残された若者組は、宮島ロープウェイに乗るため歩く。二週間前、下見が出来なかったが、ロープウェイを上がった先の展望台から見る瀬戸内の大パノラマ素晴らしいとネットの口コミ情報。だから、みんなに見てもらいたくて、時間との闘いだったが、展望台10分で、「帰りましょう!」
海辺まで降りると、引き潮で大鳥居まで歩いて行ける状況になっていたが、時間がおしていたので再度、「帰りますよ!」

 森田さんは、翌日、用事があるため、平盛ワゴンで広島駅に。マイクロバスは、呉ステーションホテルに。予定していた時間は少しオーバーしたが、無事チェックインすることが出来た。ホテルで、呉のカレーを頂いて、中松さんのお店、スポーツバーチャンピオンで、二次会。明日も半日あるのだけれど、幹事の役目は半分終わったような解放された気分になっていた。

 お開きにすると言ったにも関わらず、60歳を過ぎても、子供の頃、テレビで見ていた戦隊ものガッチャマンの歌を歌っていた作山は、途中で止められて不完全燃焼。

 中松さんに支払いを終えた後、増井さん、坂本さんが、「楽しかった!ありがとう!また、次も是非、誘ってくれ!」と言ってくださった。お二人とも、私からは8年先輩。ジェネレーションギャップもあったから、少しだけ心配していた。しかし、こんな言葉を頂いて本当に嬉しかった。2週間前の出来事は、初めてお会いさせてもらった坂本さんとの距離をぐっと縮めさせてくれた。いわば貴重なハプニングだったようだ。

 28日日曜日、運転手は山崎。閉館中だと聞いていた大和ミュージアムが開いていたので入館。駆け足で、30分くらいで展示館を回る。その後は、平和公園へ。
平和資料館は、じっくり見たいと思っていたが、やはり時計が気になる。近いからまたゆっくり来るしか無いと思いながら、二階の渡り廊下を歩いていると、ベンチで寝ている人がいた。なんと中松さん。聞けば昨夜のお開きの後は、店にお客さんが来て、結果一睡もしていないという。平和資料館で昼寝をする人はあまりいない。

 12時、皆を広島駅に送り届けて解散。みんなには、広島のお好み焼きを食べてもらって帰路についてもらう。予定通り全行程を終えることが出来た。
本当にほっとした。事故無く、楽しく3日間の旅が出来たことに感謝だった。ほっとした開放感と、みんなと別れる寂しい気持ちが入り交じった。
解放されたと思ったところに、吉元が「呉のホテルに、新幹線のチケットを忘れたから、呉まで連れてって!」マイクロバスで呉のホテルへ二人旅。最寄りの東広島駅へ向かう。

 途中、お腹が空いたのでラーメン屋さんへ。その駐車場でマイクロバスの後部バンパーを山裾にぶつけて損傷。「あーあ、やってしまった!」怪我したわけじゃないと・・・解放感に浸るのが早すぎた。旅は自分の家に帰り着くまで気を抜くな。と言うが改めて反省。

 旅行費用の残金は、能登地震の大被害に遭った石川県に寄付をすることを了解してもらっていた。バンパーの修理費用は幹事権限で拠出させてもらった。最終的な残金約10万円を石川県に義援金として寄付することが出来た。

 私が2年生の時まで、能登半島一周駅伝が開催されていた。またいつか、再開されたら良いなと思いながら・・・     

       令和6年2月29日       笹原 真二 
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