読書の記録

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船に乗れ! Ⅲ

2010年02月10日 | クラシック音楽

 船に乗れ! Ⅲ

 藤谷治

 というわけで、ⅠⅡ巻に続き、Ⅲ巻読了。全部読んだ(スピンオフの短編がひとつあるらしいけど)。当初の想像以上に読み甲斐があった。読後の反芻も充分にあった。

 今回はややネタばれ。
 音楽青春小説ではあるが、メタレベルでみると、本書の骨格を成しているのは、要所要所で現れる金窪先生の哲学の授業である。言わばこれが物語進行の通奏低音になっていて、その講義の実践編として津島サトル君にあらゆる試練がふりかかり、歓喜、高揚、苦悩、絶望、悔悛があり、へんな例えだが、スタジオの解説とVTRの中の寸劇-音楽学校を舞台にした寸劇、みたいな関係とも言える。実際、どんだけ無茶やってんだと言いたくなる登場人物たちの言動は、すべて金窪先生の講義や科白に回収されている。
 主要登場人物の中で唯一音楽に関係のない立場が彼だけ、というのも示唆的である。

 だから、タイトル「船に乗れ!」も、これは音楽関係の言葉ではなくて、哲学史上の偉人ニーチェの言葉なのである。
 
 そして津島が到達した境地が、特にコトバとしては現れていないが、「赦し」だろう。
 「赦し」であって「許し」ではない(「許し」は金窪先生によって否定されている)。
 「許し」と「赦し」の違いは、人によって講釈が異なるのだが、前者が「本来は許容できないものを、許容できるものとみなす」ことに対し、後者は「許容できないものを許容できないものとした上で、しかし受け入れる」という態度である。だから、「許さないが、赦す」という言い方もあり得る。この3部作の最終章はこの「赦し」をめぐる津島と金窪先生の対話だ。

 で、津島が彷徨の末に得た「赦し」の対象とは、他人のだれかではなくて、自分に降りかかる人生、運命に対して、である。泣き、嘆き、悲しみ、慄く試練が降りかかるこの人生に対し、あるがままをよしと受け入れる態度である。
 この境地に至らない限り絶対に「幸福」にはなれない。

 この人生をあるがまま赦せという態度、一見すると「幸福」というよりは「諦観」、またはある種のニヒリズムも感じる。だが、「赦し」による受容で終わりではない。

 実は、その先には「感謝」がある。

 自分の人生をこんなにした、すべての原因に対し、「感謝」さえ芽生えるようになる。

 南の最後の手紙を受け取った津島は号泣し、翌朝「甲羅を剝がれた亀のような、すっぱだかの素直さ」の心境に至り、すべての人に感謝を感じる。


 このことは、エリザベス・キューブラー=ロスの「死の受容」のプロセス、死が宣告された人がたどる精神の過程、「否認」→「怒り」→「取引」→「抑うつ」→「受容」に近い。「子育てハッピーアドバイス」の著者である明橋大二は、この「死のプロセス」の概念を援用し、絶望的な状況に乗っ取られた人間が最後に行き着くのはまさに「感謝」だ、と言っている。素直な感謝心が芽生えた時、それは「幸福感」と限りなく紙一重と言えるだろう。


 ヒロインであるところの南枝里子は、津島よりはるかに深刻な状況下に追い込まれ、しかし津山より先にこの「感謝」の境地に到達した、とも言える。それが南が津島にあてた最後の手紙「あなたは私の全部を壊した。あなたが私にしてくれた全部、ありがとう」というところに収束される。その「全部」が今日の人生をつくり、しかも未来へとまだ続く。
 逆に津島の親友である伊藤は、天才的なフルートの腕を持ち、圧倒的な人気を得ながら、彼の学校時代、「幸福」になれなかった。彼の悲しい嗜好に彼自身が受容できなかったのだろうか。

 実際のところ、この「自分の人生に対する赦し」こそが幸福感への唯一の道という境地に至るのは極めて困難だろう。

 往年の大ピアニスト、アルトゥール・ルービンシュタインの名言のひとつで、僕が大好きなものにこんなものがある。

私は人生をあるがままに受け入れる。人生とは多くの、より多くの幸福を内蔵しているものだ。たいがいの人は幸福の条件をまず考えるが、幸福とは人間が何の条件も設置しない時、はじめて感じることができるものだ。(吉田秀和 世界のピアニスト 所収)

 吉田秀和は、ルービンシュタインを、ピアノの名人のみならず、「人生の達人」と評している。


 いや、ほんとにこの小説は面白かった。彼らの最後の演奏会、モーツァルトの交響曲「ジュピター」の第4楽章が頭の中で鳴ったとき、身震いまでしてしまった。(ちなみに、僕のプロフィールに貼ってある楽譜の写真は、まさしくジュピターの冒頭、鏑木先生がいい加減に弾くな! と怒鳴っていた三連符の部分である)


 ここまでハイブローで書いてきたが、本書はもちろん単純に、登場人物に感情移入しながら読み浸ることができる。南の親友であるところの鮎川千佳なんてとくに気になるところである。一人称小説の常として、「自分」であるところの津島以外の登場人物が、津島の見えないところで、何を考え、何を行動したかは結局のところはわからない。彼女が本当は誰に何をどう思っていたのか、なんてのは想像するに楽しい。

 それから僕が案外にリアリティを感じるのは、津島の副科ピアノの担任である北島礼子先生(大学からの出向だから、そう津島と年齢差があるわけでもない)である。
 学校では徹底的にクールな評判をとっておきながら、津島の肩に頭を乗せたり、夜中に二人きりで練習室で向かい合い、傷心の津島の前にラフマニノフを奏でる。津島がチェロを辞めることを最初に告白した相手であり、津島の浪人時代の孤独なノイローゼでの唯一の逃げ場であり、明らかに津島にとって特別なポジションにあった北島先生は、実は「凄まじい時化をゆく船」の人生でありながら、いっちゃあなんだが、最後まで「津島に手を出さなかった」。いくらでも押し倒せるはずだがそれをしなかったのである。
 僕が思うに、北島と南はまさしく対照の関係にあって(そういやこうして書いて気付いたが、名字だって北と南じゃないか)、南が勇み足して崩壊した領域に、北島は最後まで足を入れなかった。そこにわずかな年齢差の、自分を律する力の差があった。


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