心配学 「本当の確率」となぜずれる?
島崎敢
光文社
光文社
本書は、「リスク」というものの本である。
われわれは自分の健康や生命を脅かすリスクというものをどう感受するか、そしてそれは実際の確率とどう違うかというのを平易な文章で書いている。
たとえば、「交通事故で死ぬ」のと「インフルエンザで死ぬ」のと「殺人事件で死ぬ」のうち、我々はどれをもっとも怖がっているだろうか。怖がるというのは、心配しているということであり、リスクを感じ取っているということである。
僕の気持ちで言うと、怖がっているのは「殺人事件」→「交通事故」→「インフルエンザ」である。
ところが本書の計算によれば、この3つが起こる確率は、
・インフルエンザで死ぬ 10万人中8.3人
・交通事故で死ぬ 10万人中3.3人
・殺人事件で死ぬ 10万人中0.52人
・交通事故で死ぬ 10万人中3.3人
・殺人事件で死ぬ 10万人中0.52人
なのである。
ちなみに「タミフルの副作用で死ぬ」のは、10万人中0.001人なんだそうだ。
もちろんこれは全年齢をあわせているから、年代を区切ったりするとまた違う結果にはなるとは思うけれど、インフルエンザによる死亡というのは交通事故よりも多いのである。
また、タミフルの副作用を心配するよりは、そのままインフルエンザで死亡するほうが確率的には大きいということになる。
また、タミフルの副作用を心配するよりは、そのままインフルエンザで死亡するほうが確率的には大きいということになる。
「リスク」とは、「頻度」×「起きたときの事の重大度」 で計算する。
ところが、「頻度」も「起きたときの事の重大度」も、とかく主観的になりがちだ。
「頻度」なんて統計そのままのように思うが、これまでそうだったらこれからもそうとは限らないし、「体感治安」みたいに、実際と皮膚感に相違がある「頻度」もある。
起きたときの重大度も、人によってとらえ方が違うだろう。
なので、「リスク」の程度というのは、なかなか他人と共有できない。リスクの程度を共有することを、本書では「リスク・コミュニケーション」と称しているが、お互いの言語感覚、前知識、価値観その他で、リスク・コミュニケ―ションがいかに困難であるかを説明している。顕著な例が、福島原発事故における放射線リスクにおける政治家、科学者、マスコミ、市民のやりとりだろう。延々の平行線といってもよい。
本書は、リスクというものをどう受け止めるか、どう判断するか、という話が中心になっているのだが、ところで「リスク」という言葉。たんに災害発生だけでなく、生活一般においてしばしば使われる。
ここらあたり、水無他気流の「無頼化した女たち」でも指摘されているのだが、たとえば「専業主婦になることのリスク」とか「大学院に進学することのリスク」とか、「公務員になることと民間企業に就職するのとどちらがリスクが少ないか」。
水無他気流は、この「リスク」のニュアンスを絶妙に言い表した日本語がないことを指摘している。
ここでいう「リスク」とは、自分がこの先平和に、金銭的余裕をもって生きていけないかもしれない、というリスクだ。厳密にいえば「頻度」×「起きたときの事の重大度」で思考実験してみることができるかもしれないが。むしろ「先が見えないことの不安」そのものをずばりリスクと称しているように思う。
本書のタイトルが「心配学」というのはまことに秀逸で、なるほど「リスク」というのは確かに「頻度」×「起きたときの事の重大度」かもしれないが、けっきょく「頻度」も「重大度」も主観的な判断になってしまう以上、その掛け算は、「心配」という感情にしかならない。一般の生活者はそうである。
本書では、少しでもリスクを減らすには、ということで天災や事故や病気に対しては正しい知識と「備えあれば憂いなし」ということを言っているわけだが、「専業主婦になることのリスク」に対しての備え、「大学院に進学することのリスク」に対しての備え、「公務員になったときのリスク」に対しての備え、あるいは「民間企業に就職すること」に対してのその備え、ということになると果たしてどういうことになるんだろうか、などと思ってしまう。