古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

日本がグローバル化の発信源(1)

2014-12-13 | 経済と世相
『「働くこと」を問い直す』(山崎健著、岩波新書、2014年11月刊)
40年以上前になるが、労働組合の仕事にかかわっていた。だから、労使関係については関心があり、大学図書館で、新刊書の棚に標記の本を見出だし、手に取ってみると、どうやら労組について書かれた書らしいと、読んでみることにしました。
 筆者は、1967年独立行政法人労働政策研究・研修紀行副主任調査員とあった。
第3章「癲癇」が面白い。以下その紹介です。
1985年のプラザ合意から始まる。アメリカ、西ドイツ、フランス、イギリス、そして日本の財務担当大臣が集まった。
 目的はアメリカ経済立て直しに協力すること。アメリカは、貿易赤字が拡大し、二けたのインフレ率と9%を超える失業率にあえいでいた。アメリカだけでなくドルを基軸通貨とする先進資本主義国の危機だった。アメメリ経済が沈めば影響ははかりしれない。
 ターゲットになったのは日本である。自動車、電機、鉄鋼などの産業でアメリカ市場を席巻していた。日本の存在がアメリカの危機の一因とみられたこ。の時の合意によって各国は保有するドルを売るという市場介入を行った。円は大幅に上昇し、一人当たりGDPランキングで、日本は1985年14位が、翌年6位に順位を上げた。日本の経済成長率は、6.33%から2.83%に急降下した。それでもプラザ合意の思惑通りにはいかなかった。日本の経済成長率は1987年4.11%、1988年7.15%と再び上昇に転じた。背景に円高に負けなかった日本企業の競争力があった。それがアメリカにとって大きな脅威となった。ハーバート、MITなどのアメリカ有数の大学から大統領直属の経済諮問委員会に至るまで、日本企業の強みを探ることが急務になり、日本人の研究者も協力した。そこで明らかになったことは、日本企業も労働問題の研究者もそれまで意識してこなかったことだった。
 一方、1990年代から、日本はバブル経済の崩壊、「失われた10年」で、日本人は強かった日本経済に対する自信を失っていった。しかし、海の向こうは違っていた。日本企業の強さは依然として脅威であり、研究の中でつかんだ日本企業の強さを、自国の企業に役立たせると努力を続けていた。
 それは世界中に予想しなかった結果をもたらした。企業経営だけでなく社会システムそのものを変えてしまった。そしてその変化が、経済のグローバル化のなかで、形を変えて再び日本に戻り、日本の社会システムを変えつつある。日本では意識されていないけれども、世界に起こる様々な問題の原因の大きな部分に日本が関わっている。日本は経済グローバル化の有力な発信源なのだ。現在、世界中で格差の拡大と貧困が加速しているが、そのきっかけは日本にもあった。そのことに私たちが気付いたとして何ができるのだろうか。転機となった1980年代を詳しく見てみる。
 自動車、電機などの日本企業が、最大の市場アメリカに販売会社を置いたのは、1950年代末から60年代にかけてのことだった。その後、電機は1970年代から現地生産の段階へと移ったが、自動車が現地生産を始めたのはそれから10年ほど後のことだった。
 製造拠点を現地に動かそうとすると、越えなければならない壁がある。企業のあらゆる部門に日本式品質管理のしくみを埋め込んでいくことです。そのため、日本企業は一人一人の職務を限定しないようにしてきた。自動車の組み立ては、電気製品とくらべて部品点数が多い。生産工程も複雑だ。数多くの関連企業もある。すべての部品と一人ひとりに埋め込まれた品質管理のしくみを移転することが海外でも強みを発揮するために必要だった。
 日本企業はそのための環境を長期間にわたって作ってきた。新規学卒採用、終身雇用、年功賃金、企業別組合などである。
 海外では、こうした制度は日本と異なり、製造拠点を簡単に日本から移すことはできなかった。全く異なる文化や社会に、本国の組織文化や企業理念を移転、浸透させることは難しい。絶対に譲れないものは何か、現地の方法を採用してもよいのはどの部分か、慎重に見極めることが必要で、それには時間がかかる。
 でも日本の自動車メーカーはそれに成功した。
 自動車メーカーのうち、もっとも早くアメリカに工場を作ったのはホンダだった。
 オートバイの生産工場を1978年に立ち上げ、1982年には自動車の生産を立ち上げた。
 ホンダがアメリカに製造拠点を築いた手順は以下である。
 まず、日本国内と同等の品質を利益の見込めるコストで達成する、という目標を設定。
そのためには、従業員一人ひとりが品質に責任を持つこと。外部の部品メーカーの協力を得ること。
 ところが、アメリカ企業は求める姿とまったく違う働かせ方をしている。アメリカ式をそのまま受け入れてしまっては、日本国内で培ってきた強みを再現することはできない。
その影響から抜け出すことは、ホンダにとって難しいことに思えた。長い年月をかけてアメリカの労働組合と企業が作り上げてきたまさに社会文化の一部だったからだ。
 しかし、何が何でもそれと違う仕組みをアメリカに造らなければならない。それがホンダの命題だった。そのため、コンサルテイング会社や研究機関に、この課題の実現可能性の調査を依頼した。そこから出てきた結論は、アメリカに日本のしくみを移植することは充分にできる。そのための条件は立地の選定と新規従業員の採用を慎重に行うことだった。
 選んだのはオハイオ州コロンバス市郊外。従業員の採用も3000人から50人を選ぶという慎重なものだった。
 そうして次のようなしくにを組み込んだ。
 駐車場や食堂などの利用はすべての従業員を平等に扱う、人事部は従業員の面倒を細かく見る。仕事で身に着けた知識や技能のレベルに応じて手当を支給する。役員と従業員の賃金格差を大きくしない。業績がわるくなっても簡単に解雇しない。等々
 同じような方式は後続の日本企業に受け継がれた。
 それは日本企業を成功に導いたけれども、アメリカに暮す人々にとっても社会システムや生活を根底から覆すものだった。同じことは世界各地で起こった。
MITが調査結果を発表したのは1990年だった。
それは、日本とアメリカの自動車メーカーの競争力の差は(単に価格だけではなく)企業組織全体の機能の有機的な連携のサイクルに潜んでいることを明らかにするものだった。このしくみを「リーンシステム」と名付けた。
日本では、この強みを生産現場に限定してとらえていたが、MITでは企業組織全体にわたるとしてとらえていた。(続く)