古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

水泳の練習

2016-08-31 | 水泳
3年前まではマスターズ水泳大会でバタフライに出場していました。
大会でバタフライに出場するには、8月で200mをバタで泳ぐ練習をしておく必要があったので、夏は11回雨降りを狙って(プールが貸切状態)名城公園プールで泳ぎました。それが2年半前の事故以来全くバタフライが泳げなくなりました。
 2年半前に転倒で、いわゆるむち打ち症になった。その怪我の影響と思われるが、それだけでない。おそらく怪我と同時に身体の高齢化の影響が出たのかもしれない。
通常、身体を使って覚えたことは、忘れないのですが、怪我をしたら今まで覚えていたバタフライの泳ぎ方を忘れてしまった!これが不思議なのですが、もう一度泳ぐためには、最初から覚え直すしかない。
 そこで練習したのは、ドル平です・脚をドルフィンキック、手を平泳ぎで泳ぐのです。
つまり、バタフライの手の動きと足の動きを同時にマスターするのは難しいので、まず、脚の動きを先にマスターしよう。-その後手の動きを覚えるよう手もバタフライにして練習するという考えです。
そのドル平です。コーチは、水の中でお辞儀を繰り返せばいい。つまり、両手で水を引っ張るのはかなり腕力を要するので疲れてしまう。手で引っ張るのでなく、体幹で水を押せば疲れない。その体幹で水を押すにはお辞儀の姿勢だというのです。しかし、水中でお辞儀するのは水の抵抗があって」簡単ではありません。
なんとか、25mはバタフライで泳げるようになりました。
しかし、ドル平も25m水中でお辞儀すると、へとへとのなってしまいます。コーチは疲れるのは、運動に必要な酸素を十分取り入れていないから。酸素の吸入が不足している。「酸素を十分吸入するには十分空気を肺から吐き出さないといけない」。そこで、バタフライの息継ぎから覚えなおさないといけない。練習を繰り返し、なんとか、25mは楽に呼吸ができるようになりました。80代の手習いですね。

今夏の目標は100m楽に呼吸できることです。
過日報告したように、子供でにぎわい、コースロープも張ってありませんから、すぐぶつかるので25m泳ぎとおすことが出来ない。半分ほど泳いで一旦立ち止まって停止し、空いでいるコース・方角で残りの半分を泳ぐという方法で、それでも連日1000m、20往復練習できました。
31日午後3時、今夏最後の屋外プール。なんとか50mは楽にドル平ができるよう練習に出掛けました。ところが最後の日とあって超満員。すぐぶつかってしまって25m連続でドル平は出来ません。ぶつかったら、停まってまた泳ぐという方式で16往復、800mを泳ぎました。最後に25mバタフライを4回泳いで終わりにしました。
帰宅して鏡を見ると、顔が見事に真っ黒になっている。屋外プールで泳いだ日焼けです。プールは31日まで営業ですが、25日になって回数券が6枚残っているのに気づきました。毎日泳がないと、と26日から連日屋外プールに通ったためです。

昨年までは毎年9月に大会があったので、大会でバタフライに出場するには、8月で200mをバタで泳ぐ練習をしておく必要があったのです。ひと夏に大体11回ぐらいは雨が降るのです。
で、今年も雨が降ったら行こうかな、と思っていたら、一向に雨が降らない。一度雨が来た時があったのですが、猛烈な雷鳴に恐れをなしていきませんでした。
今夏の名古屋は雨が少ないですね。


コンビニ人間

2016-08-24 | 読書


今季の芥川賞受賞作『コンビニ人間』(村田沙耶香著)は面白かった。
大体、芥川賞の作品は面白くない、というのが私の認識です。
ところが今回の『コンビニ人間』は面白い。 主人公の性格造りが傑作です。
幼稚園の頃、公園で小鳥が死んでいるのを見つける。
「かわいそうだね。お墓作ってあげようか」という母に「お父さん、焼き鳥好きだから、今日これを焼いて食べよう」
「小鳥さんはお墓を作って埋めてあげよう」という母に「なんで?折角死んでるのに」
私の疑問に母は絶句した。
 小学校に入ったばかりの時、体育の時間、男子が取っ組み合いのけんかをして騒ぎになった。
「誰か先生呼んできて!」「誰かとめて」悲鳴が上がり、
「そうか、止めるのか」、と思った私は、そばにあった用具入れをあけ、」中にあったスコップを取り出して
暴れる男子のところに走って行き、その頭を殴った。
男子はは頭を押さえたまま動きが停まったのを見てもうひとりの男子にもスコップを振り上げる。「やめて!と女の子たちが泣き叫んだ。
走ってきた先生は惨状を見て仰天し、私に説明を求めた。
「止めろと言われたから、一番早そうな方法で止めました」。
母が呼び出されて怒られたのを見て、自分のしたことがどうやらいけないことだったらしいと思ったがその理由は理解できなかった
教室で女の先生がヒステリーをおこし教卓を出席簿で激しくたたき喚き散らし、
皆が泣き始めた時、「先生ごめんなさい!」「やめて先生!」みなが止めてと言ってもおさまらない。
黙ってもらおうと先生に走り寄りスカートとパンツを勢いよく下ろした。
隣のクラスから先生が走ってきて、事情を聞かれ、大人の女の人が服を脱がされて静かになったのをテレビ映画で見たことがあると説明したら、
やはり職員会議になった。
 こういう性格の主人公、要するに普通の行動はどうあるべきかがわからない性格である。
この性格のまま学校を出て就職しようとするも就職するところがない。
それが絶好の就職場所を見出す。コンビニである。
コンビニは「こういう場合はどうせよ」が微に入り細にわたって決められている。
こうしてコンビニの超ベテランになった主人公は、これまた社会不適応の男性が入社してくると、
これを自宅に飼うという行動を起こすという奇想天外のストーリー。
つい吹き出してしまうけれど、今の世の中を考えさせられるものかたりです。
お勧めです。
単行本も出ていますが、文芸春秋の9月号に全文掲載されていますので、図書館でご覧になることおすすめです。



憲法と戦争の関係

2016-08-20 | 読書
『それでも日本人は「戦争」を選んだ』‘加藤陽子著、新潮文庫)は、目から鱗の本でした。
日本の近現代史を専門とする著者が中高校生を対象に語った講演を本にしたものですが、子供相手の語りでも内容は本格的です。
 「歴史は数だ」と断言した政治家がいます。レーニンです。意味は戦争の犠牲者の数が圧倒的になった際、その数のインパクトが戦後社会を決定的に変えてしまう。帝政ロシヤが倒れたのも第1次世界大戦東部戦線をになったロシヤの戦死傷者の多さを考えなくては理解不能だといいます。
 日本国憲法を考える場合も、太平洋戦争における日本側の犠牲者の数の多さ、日本社会が負った傷の深さを考慮に入れることが絶対に必要です。
 日本国憲法といえば、GHQが作ったものだ、押し付け憲法だとの議論がすぐに出てくるが、そういうことは本筋ではない。巨大な数の人が死んだあとには、国家には新たな社会契約、すなわち広い意味での憲法が必要になるという心理があるのです。
憲法とは国家を成り立たせる基本的な秩序や考え方を明らかにしたものです。
20世紀になって戦争は総力戦のかたちをとるようになりました。こうした戦争の本質について、フランスの思想家ルソーは「戦争および戦争状態論」という論文の中でこう述べています。
戦争は国家と国家の関係において、主権や社会契約に対する攻撃、つまり、敵対する国家の憲法に対する攻撃という形をとる
 太平洋戦争後、アメリカは日本を占領し戦前の「天皇制」という「国体」を「主権在民」に構造改革をした。ルソー先生は、こうしたアメリカの戦後のふるまいを、18世紀に早くもお見通しであった。
 ルソーは相手国が最も大切だと思っている社会の基本秩序に変容を迫るものこそが戦争だ、といったのです。
 日本国憲法というものは、別にアメリカが理想主義に燃えて作ったというレベルのものではない。結局、どの国が勝利者としてやってきても、第二次世界大戦後には勝利した国が敗れた国の憲法を書き換えるという事態が起こったでしょう。
以上の筆者の論述の紹介で、子供相手の語りでも本格的な内容の本だとご理解頂けると思います。「この本、是非安倍首相に読ませたい」と思いました。
因みに本書は、2010年第9回小林秀雄賞受賞作です。

前立せんがんの再診

2016-08-19 | Weblog・人生・その他
17日は、前立せんがんの再診察のため西部医療センターに出掛けました。9時に家をでて、自転車で10分ぐらい、病院に着き、再診受付。保険証が更新されたのでその確認。いつもと同じように、機械からプリントされた指示を持って採血・採尿を済ませた。
その後、泌尿器科の窓口に行くと、2番の診察室前で待ってくださいという。
いつものことながら、それからの待ち時間が長い。毎回馴れているから、今回も文庫本を持参して読み始めた。
『それでも日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子著、新潮文庫)で、先月刊行されたばかりの本である。
これは意外に面白かった。3分の1ほど読んだが、読了後、後日みなさんに紹介しようと思う。
あまり待たされるので、11時頃食堂に行きランチを採って戻ってきたが、それからも長く待たされて結局、診察してもらえたのは12時半、9時半から3時間の待ち時間だった。
診察室に入り、いつものように氏名を告げる。先生が今朝の検査の結果をプリントしてくれた。問題のPSA値は0.015で、前回(0.021)よりさらに下がっている。
「検査数値は良好ですから、このままの治療を進めましょう。来月はCTを採ります」と、薬の処方箋と9月14日の予約書をくれた。
結果が良くても延々と同じ治療が続くのだから厄介な病気。
痛くもかゆくもないから治療しなくてもいいのだが、「治療をしないと転移する」と脅されている。会計を済ませて帰宅すると1時。広島新庄の高校野球は終わっていた。

名城公園プール

2016-08-17 | 水泳
15日、名城公園屋外プールに出掛けました。このプールは、毎年7月20日から8月31日まで営業しています(水曜定休)。
毎年11日はこのプールで泳ぐことにしています。
11日というのは、11枚つづりの回数券が1000円ですので、回数券1冊分だけ雨降りの日に泳ぐことにしています。
雨降りの日というのは、プールが空いているからです。
お天気の良い日は子供たちでプールは満員で、プールの真ん中で子供たちが逆立ちをしたりして遊んでいますから、ぶつかってしまってまともに泳げない。雨の日は誰も来ないので、プール借り切り状態で泳げるから雨の日に行くのです。
毎年9月に大会があったので、大会でバタフライに出場するには、、8月に200mをバタで泳ぐ練習をしておく必要があったのです。
ひと夏に大体11回ぐらいは雨が降るのです。
で、今年も雨が降ったら行こうかな、と思っていたら、一向に雨が降らない。一度雨が来た時があったのですが、猛烈な雷鳴に恐れをなして行きませんでした。
今夏は雨が少ないですね。
このままでは、今年は名城公園プールに行かれない!15日になって午後、プールに行きました。
「まぁひさしぶりねぇ」受付のおばさんが言ってくれました。「今年はこないかな?と思ってた」。顔を覚えていてくれました。
 すっかり泳力が落ちていてなんとか25mをバタで泳ぐことはできるのですが、ターンして帰りの25mを泳ぐことが出来ない。
だから、真ん中で子供たちにぶつかっても、そこで止まってまた残りの半分を泳ぐくらいでちょうど良いのです。
「雨がふらなくても名城プールで泳げる」と安心今月の後半半分で、10回は泳いで今夏の11回を練習できると一安心。
それにしても何故泳力がこんなにも落ちたのか?自分でも不思議です。
 2年半前に転倒で、いわゆる頚椎損傷した。その怪我の影響と思われるが、それだけでない。おそらく怪我と同時に身体の高齢化の影響が出たのでは?
自民党前幹事長の谷垣さんが自転車で転倒し、頸髄損傷を起こしたそうですが、それと同じです。
いずれにしてもこのまま水泳引退は残念ですので、雨が降ったらいそいそと屋外プールに出掛けようと思っています。



2016リオ女子マラソン

2016-08-15 | マラソン
4日は夜9時半から民放のcを見ていました、
画面を見ているだけでこれは暑いだろうな、と思わせます。
16年前はQちゃんが優勝し12年前は野口の優勝が見られた種目ですが、今回はあの時のような日本人選手の劇的なシーンは見らてませんでした。
ただずるずる先頭集団に置いて行かれて下位集団におちてしまっていたという感じです。福士さんが14位、田中選手が19位でした。
NHKがライブで放映しなかったのは、見せ場がないのを予想していたからでしょうか。
30km以後は日本人選手が映らないので、名古屋女子マラソンを2連覇したバーレーンの選手を応援していましたが、彼女は銀メダルでした。金メダルはケニアの選手でした。かねがねマラソンは、ご先祖がライオンと競争していた人種には勝てないとおもっていましたがその通りの結果です。
暑い中最後まで激走していた福士さんがレース後のインタヴュ-で「金メダル取れなんだ」と絶叫し相変わらずの朗らかさが印象に残りました。田中さんはおしとやかなインタヴューでしたが、東京オリンピックではメダルを取らせたいですね。コースの沿道の映像で、リオの風景を堪能できたのは収穫でした
田中選手とバーレーンのキルワ選手を思い出して頂くため今年の名古屋マラソンを紹介します、
http://blog.goo.ne.jp/snozue/d/20160314


ルノワールの時代

2016-08-14 | 美術館と美術展
8月13日名古屋市ボストン美術館に「ルノワールの時代 近代ヨーロッパの光と影」
といういう展示会を見に行きました。
http://www.nagoya-boston.or.jp/exhibition/list/renoir-201603/outline.html

ボストン美術館は経営が不振で来年は閉鎖の予定らしい。もっと頻繁に利用しなければいけなかったと、遅ればせながら暑い中で出かけた次第です。
この企画展は21日までの予定で、小生にとって、タイトルが気になる企画展でした。
インターネットの解説では、
「19世紀後半から20世紀初頭のヨーロッパは、産業革命により近代化が進んだ時代であり、人々の生活は劇的に変りました。ガス灯が輝く通り、華やかな舞台の劇場―街は都市へと変貌し刺激的な場所となります。しかし急激な人口増加に見舞われた都市では生活環境が悪化し、貧富の差が生まれました。人々は都市に息苦しさを感じる一方、自然や素朴な暮らしの残る田舎にピクニックや海水浴などの憩いを求めるようになります。
本展はボストン美術館のコレクションを中心に、油絵、版画、写真の89作品で近代ヨーロッパの生活をご紹介します。芸術家たちを惹きつけた風景とそこに暮らす人々の光と影。ルノワール、モネ、ミレー、ドガ、ゴッホらが描く「都市と田園」の魅力をお楽しみください。」ということですが、
私の解釈では、ルノワールの時代の画家たちが好んで選んだ画材を特集した展示会です。
「19世紀半ば、芸術家は同時代を生きる農民や労働者の姿を題材にするようになります。彼らはまた、工業化が進み人口が増え、環境があっかする都市ではみられない田園や豊かな自然の状況を描きました。当初は農民の労苦を素直にとらえた作品を描きましたが、次第に田畑を耕し家畜と共に明るく労働する理想化された農民の姿を描くようになる。一方、ゴッホのように地方の貧困という社会問題に目を向けて描く者もいました。年と田舎の生活や文化の格差が広がる中芸術家がとらえた田舎を見る。」
ゴッホが格差を描いたという見方は新鮮でした。1時間半見て帰宅しました。

秘密解除 ロッキード事件

2016-08-06 | 読書
『秘密解除 ロッキード事件』(岩波書店)を読みました。
この本の要約が、週刊朝日の8月8日号に「米国に嫌われた宰相 田中角栄の孤独」というタイトルで載っていました。これを見て、要約でなく原本を見てみたいと書店で取り寄せてGETしたのです。
朝日の記事は、著者自身の要約ですから、まことにうまく要約されていました。ですから、要約を知りたければ朝日の記事を読めばいいのです。でも、全9章から生るこの本の9章は要約ではカットされていました。その9章が面白いのです。そこで、以下に紹介いたします。9章は、“考察 本当に「角栄は虎の尾を踏んだ」のか”です。
 アメリカ発でロッキード事件が明るみにでて田中角栄が逮捕されて以降、日本国内では「田中首相はアメリカを怒らせたから事件に連座させられた」という仮説が根強く幅広く流布され今や定説になっている。
 中曽根康弘もそれを信じる政治家の一人だ。
 「田中君は、国産原油、日の丸原油を採ると言ってメジャーを刺激したんです(中略)ソ連のムルマンスクの天然ガスをどうするとか、そういう石油取得外交をやった。それがアメリカの琴線に触れたのではないかと思います。」(『天地有情』文藝春秋、1996年)
 田中は、その政策によってキッシンジャーらの反感を買ったのではなく、その人となりを理由に、米政府内部の会議で、あしざまに非難され、軽蔑された。「独自の資源取得得外交」を理由に田中や日本政府が米政府に敵視されたり、やり玉に挙げられたりしたことを示す文書は、もしそれがあるのだとすれば秘密指定をとっくに解除されているはずだが、私のリサーチでは米国国立公文書館にも大統領図書館にも見当たらない。チャーチ小委員会で主席スタッフとして調査を担当したジェローム・レビンソンは「率直に言ってそれ(独自の資源取得得外交」)が動機ではない」と答えた。「日本とロッキード社の関係の追求に力を入れたのは、第二次世界大戦でアメリカの敵だった人物の中で最悪の敵だったといえる右翼の大物、児玉誉士夫へのカネの流れがあったからだ」。この言葉にウソはないとの心証を私は得ている。
 ニクソンがいなければウオーターゲート事件がああいう風に拡大することはなかったし、ウオーターゲート事件の捜査がなければ、ノースロップ社のヤミ献金が表ざたになることはなかっただろうし、上院や証券取引委員会の調査に米国民の支持が寄せられることもなかっただろう。米国で田中はニクソンと同類であるとみられた。ロッキード社からカネを受け取った世界各国の政治家の中で、田中が真っ先に逮捕された背景に、米国内でのロ社首脳の自白と米司法省の捜査協力があり、米国務省がその捜査協力を差し止めなかった事実がある。国務省の捜査協力の背景には、事実上米国の外交を取り仕切ったキッシンジャーの田中への軽蔑の念が少なからず影響した可能性は否定できない。キッシンジャーは、政策でなく、その人格の側面から田中を蛇蝎の如く嫌っており、その意味で田中は米国の「虎の尾」を踏んでいたと言える。
しかしここで私が重要だと考えるのは、「虎の尾」説が真実であるかどうかではなく、多くの日本人が「虎の尾」説を信じていること。日本で「アメリカの虎の尾」が恐れられているという事実である。
 米国に楯突けば何らかの謀略で失脚させられ、政治的に葬り去られるのではないかという恐怖、米国を敵に回すことをタブーとする思考が、少なからぬ数の日本人政治家の潜在意識の底に沈殿した。これは紛れもない事実だ。
 日本の政府や国会にいる少なからぬ数の政策決定者が、米国の虎の尾を踏めば政治的に葬り去られる恐怖や懸念、不安を抱えてきた。それはおそらく1976年以降の日本の政策判断に少なからぬ影響を与えただろう。今もその呪縛は続いているのかもしれない。
 1976年2月15日の朝日新聞社説「見落としてならないことは、米国に日本政界の弱みを握られていて、果たして日本の国益が保てるのか、という懸念が国民の間に長く尾を引くことである。米国の真相秘匿で政治生命を永らえた政治家が、仮に政権の座についたとき、米国に対して大きな負い目を持ち、いわば首根っこを押さえられる恐れが出てくる」
中曽根が米政府に事件の「MOMIKESI」を要請したのはこの社説の四日後である。
 竹下登や中川一郎も「虎の尾」におびえ続けたかもしれない。建設相だった竹下と衆院運輸委員長だった中川はそれぞれ、全日空から裏金を受け取ったとして、76年夏、特捜部から事情聴取を受け、受領を認めた。しかし、その事実は30年間伏せられた。
 中曽根は82年11月に総理大臣となり、竹下は87年11月にその後任となった。二人は、米政府と蜜月の関係だったことが良く知られているが、そういう関係をつくることが、二人にとって必要であったのでは・・・
中曽根が日本列島をソ連に対抗する「不沈空母」にすると公言したり(83年)、蔵相の竹下とともにプラザ合意で急激な円高を事実上容認したことは、米政府にとっておおいに歓迎すべき言動だったが、日本にとって本当に国益だったのかs?
 中川は83年1月に自殺した。自殺の理由は不明だったが、中川の秘書だった鈴木宗男は、次のように述べている(新潮45、2010年10月号)
「中川先生は特捜部の事情聴取を受け、秘匿された事実が、トラウマ7となり精神を苛みました」

岩崎恭子ちゃん

2016-08-03 | 水泳
今朝は3時ごろに目をさましてしまったので、ラジオをつけたら昭和54年の流行り歌を特集していました。こんな歌があったのですね「蝉しぐれ」
https://www.youtube.com/watch?v=bfD-2KkR8bo
その後、4時から岩崎恭子さんの語る番組でした。バルセロナオリンピック(1992)の水泳女子200m平泳ぎの金メダリストです。対談相手が、その金メダルの瞬間を実況放送したNHKのアナウンサーでした。話が面白くてついそのまま朝まで起きて聞き惚れていました。
オリンピックレース後の彼女のコメント、ご記憶の方が多いと思います。「今まで生きてきた中で、一番シアワセ!」当時の記録で最年少金メダリストだったそうです。しかし、次のアトランタオリンピックは、10位に終わったそうです。その直後、インタヴューした時「14歳の少女が金メダリストの重荷を背負って今までよく頑張りましたね」とアナウンサーが語りかけたら、わっと泣き出されて、こまりましたよとアナウンサーが語っていました。
1992年の日本代表選考会は、名古屋のレインボープール(現在の日本ガイシプール)で行われました。このプールが出来たばかりで、当時は東洋一の大きなプールでした。
 名古屋では大きな大会はこのプールでいつも行われていますので、私も度々泳いだことがあり、泳ぐ都度、ここは岩崎恭子ちゃんがオリンピック代表を射止めたプールだと大会の出場するたびに思っていました。彼女の今まで生きてきた中で、一番シアワセ!のスタート地点なのだと。
彼女が語っていましたが、当時は一日8000m練習で泳いだそうです。4~5年前には一日1500mくらい泳いでいましたが、小生、最近は1000m泳ぐとぐったりしてしまい、9時頃には寝入ってしまいます。だから3時頃目覚めてしまう。
年は争えない!そんなことを入り色思いださせたラジオ深夜便の時間でした。
彼女の金メダルは24年前の1992年7月27日です。話は別ですが、40年前の7月27日は田中角栄の逮捕された日です。
今「秘密解除ロッキード事件」(奥山俊宏著、岩波書店)を読んでいます。これも面白い話がありますので、後日紹介します。