古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

閑話休題

2014-07-07 | 読書
「閑話休題」という言葉があります。
文章で、余談をやめて、話を本題に戻すときに、接続詞的に用いる語。それはさておき。あだしごとはさておき。
10年も前ですか、この言葉を友人がメールで解説してくれました。その時、私が「逆ではないか」と尋ねました。つまり、本題を中断して余談に入るときに「閑話休題」を用いるのではないか?と、聞いたのです。その理由として「たしか司馬遼太郎さんの小説で、本題から外れる時に、閑話休題を使ったのを読んだことがある。司馬さんのような碩学の人が間違える筈はないから」
 司馬作品のその事例を見つけて友人さんに報告しようと思って、どこにその表記があったか探してみました。ところが、膨大な作品量でさがしてもわかりません。確かあった筈だが・・気になりながら10年余の年月が流れました。
先日。和田宏著「余談ばっかり」を読んでいたら、それが見つかりました。
この本は、『週刊司馬遼太郎』に筆者が連載したコラム「余談の余談」をまとめたものです。
以下、その記述。
(竜馬がゆく)『連載がほぼ1年を経過したところで、突如「閑話休題」として「攘夷とは何か」の説明を挿入する。のちに芝作品に頻出する余談の始まりである。(その)章が改まり「生麦事件」になる。
「竜馬がゆく」の風雲篇(第2巻)の「生麦事件」の章の前だ、と書棚から「竜馬が行く」を取り出し、、該当箇所を確認しました。
「流転の章で、竜馬の青春時代のエピソードを語り、その後突如「攘夷」の説明があり、竜馬が質屋の離れで清川八郎から生麦事件の話を聞くという展開です。つまり、竜馬に関する物語を中断して、「閑話休題」、「攘夷」の解説が入り、その後また竜馬の物語に戻る。
 司馬さんは、「閑話休題」の使用を間違えたのでしょうか。
ここで、考えました。司馬さんにとって物語の展開と、余談という解説とどちらが、本当に書きたいことだったのか、文明論者の芝さんにとって、余談の方がかきたいこと、すなわち本題だったとすれば、この「閑話休題」は間違っていないことになる。
 「10年おくれのレス、遅くなってすみませんでした。」と友人にメールしました。