古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

生き物の時間

2012-01-25 | 読書
『生物学的文明論』で、本川先生は、生物の時間について論じてみえます。
先生には、『ゾウの時間 ネズミの時間』という名著があります。
『ハツカネズミの寿命は2~3年、インドゾウは70年近く生きる。時計の時間で比べれば、ゾウはケタ違いに長生きですが、一生に心臓が打つ数は、どちらも同じ15億回なのです。』と説いています。
 ところが、ヒトの場合、心臓が15億回つくと、大体41歳。まだ人生半ばです。しかし、40歳で人生半ばというのは、ごく最近です。室町時代でも、寿命は30歳代前半。江戸時代で40歳代、昭和22年にいたっても50歳。みんなが70だ、80だという状況になったのは、ごく最近です。
 ヒトの寿命は本来40歳程度。だって40歳代で老いの兆候が現れます。老眼になる。髪が薄くなる。閉経が起こる。自然界では老いた動物は、原則として存在しません。野生生活だったら、ちょっとでも脚力がおとろえたり、目がかすんだりすれば、たちまち野獣の餌食になってしまう。体力が衰えれば細菌の餌食にもなりやすい。
 老いた動物は野生では生き残りにくいのですが、じつは老いたものが生きていると、都合が悪い。老いたとは生殖活動に参加できなくなったということ。生殖活動に参加しないものが生き残ると、食料などの資源は限られているから、自分の子どもと資源を奪い合うことになる。
 現在の長い老いの時間は、医療をはじめとする技術が作り出したもので、還暦を過ぎた人間は、技術の作り出した「人工生命体」です。人生の前半は生物としての正規の部分、後半は人工生命体という二部構成で出来ているのが、今の人生なのでしょう。
 閉経以後の生、つまり人工生命体としての部分は、生物学的に見れば、存在すべき根拠のないものです。この部分は、品質保証期間が切れた部分なのです。生物は進化の過程で自然淘汰を受けてきました。淘汰を受けて生き残っているということは、ちゃんと働けると、自然が品質保証をしていることを意味する。人生の前半は品質保証のある期間、でも老いの期間は自然淘汰を受けてこなかった部分、つまり品質保証が切れた部分です。私たちのこの体はもともとそんなに長生きすることなど、想定されずにつくられているのですから、保障期間が過ぎれば、ガタが来て当然でしょう。
 老いの期間が若いときと違うのは、ガタがくるということだけではありません。時間だって違います。
 動物においては、時間の速度と体重当りの消費エネルギーが比例しています。
 体重当りのエネルギー消費量は、赤ん坊は非常に大きく、成長するにしたがって、20歳まで急速に減っていき、20歳を過ぎてからは、ゆるやかに減り続けていきます。これは、子どもの時間は早く、老人の時間はゆっくりだということを意味するでしょう。老人のエネルギー消費量は、子どもの2.5分の1ですから、老人の時間は子どもの時間の2.5倍ゆっくりだということです。
 まてよ、と思われるかもしれません。年をとってきたら、(実感では)一日も1年も速くたつ。時間が速くなるんじゃないの? なぜ実感は逆になるか?
 例えば、孫と一緒に一月夏休みを過ごしたとする。同じ一月でも、子どもは2.5倍もエネルギーを使っていっぱいいろいろなことをやるので、あとから振り返るとできごとがぎっしりつまっていて夏休みは長かったと感ずる。それに対して老人はあまりエネルギーを使わずに、少しのことしかおこないません。振り返れば・・・休みは短かった。時間は、その中に入っているときと、あとから振り返る時とでは、感覚が逆になる。
 子どもの時間はエネルギーをたくさん使ってすばやく流れます。老人の時間はエネルギーをあまり使わずにゆったりと流れます。そして、小さいネズミはエネルギー(体重当り)をたくさん使って、時間は速く進み、大きなゾウは、エネルギーはわずかしか使わず、時間がゆっくり進む。
 睡眠時間も、ゾウは3~4時間しか眠りません。ネズミは13時間も眠ります。エネルギーをたくさん使うものほどたくさん眠ります。昨年末、私は、こんなことを書きました。
http://blog.goo.ne.jp/snozue/d/20111230
『怪我をした場合、怪我をした箇所の細胞が新しい細胞に入れ替わることで、治るのだろう、と私は思っています。その新しい細胞が出来てくる時間が、齢を取ると長くなる?という仮説に思い至りました。
細胞の中で細胞各部の反応の進行速度が遅くなっている。つまり、細胞の中では「時間がゆっくり流れている」。細胞の中の時間とは、「身体の中の時間」といってもいい。
もう一つ、「頭の中の時間」というものがあるのでは?「頭の中の時間」とは「記憶の中の時間」です。』
本川先生の、「その中に入っているとき」の時間が私の言う「細胞の中の時間」、「あとから振り返る」時間が私の言う「頭の中の時間」だと思います。

 本川先生も私と同じことを考えているのだ、と意を強くしました。