古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

リチャード・クーさんの外交・軍事論(2)

2010-12-26 | 経済と世相
 【日本企業は台湾と中国両方に多くの生産や販売拠点を持っているし、日本と安保条約を結んでいるアメリカは、国内に「台湾関係法」という法律を持っている。この法律は台湾が攻撃された時は、アメリカは台湾の安全を守ることを義務付けている。ということは、実際に中台関で武力紛争が起きると、アメリカは中国と敵対することになり、在日米軍もその任務につくことになるだろう。そうなると、アメリカは当然中国製品の輸入を禁止するだろうし、それには日本企業が生産したものも当然含まれることになる。一方で中国にある日本企業の生産拠点は「アメリカに組した敵国の資産」と見なされかねない。つまり、あらゆる面から見ても日本は当初からこの紛争の当事者になってしまう。

 歴史をさかのぼってみよう。ニクソン大統領の時代、国務長官だったキッシンジャーはチャイナ・フォーミュラー(方式)を考え出した。

「台湾海峡を挟む両岸の人々は『中国は一つであり、台湾は中国の一部である』と信じている」という表現をした。この方式は、共産党政権との対話・協力を可能にしたばかりか、台湾にある国民党政権にも反論できない(当時の台湾は、蒋介石率いる国民党の独裁政権下にあった)ようにかかれていた。国民党がこれを否定すると、中国の政権であることを否定することになるからである。この表現を中国は受け入れ、日米両国は中華人民共和国を承認した。いわば、中台問題は棚上げされた。

 ところが90年代に入って、このこの方式がほころびてきた。1988年に蒋介石の息子であり、総統だった将経国が亡くなり、李登輝が総統の座を継ぐ。李登輝(台湾の人々も)は「台湾を中国の一部だ」と考えていない。

 更に歴史をさかのぼると1871年、日本の沖縄の船が台風に流され、台湾に漂着し、台湾の原住民に54名が殺害され12名だけが漢族系住民に助けられ、福州経由那覇に帰着した。明治政府は清朝に猛烈な抗議を行なった。清朝側は「台湾は化外(けがい)の民である」、つまり「台湾は中国ではない」(まして尖閣諸島など論外ということ)。日本政府は軍隊を派遣して土匪を征討した。

 日清戦争後、台湾は日本が領有した。日本は当初、台湾の人々に対し「二年猶予を与えるから、日本人になることを潔しとしないものは、資産を持って中国大陸に帰ることを許す」と宣告した。そして、「西洋列強に負けない植民地統治を」という意気込みで、日本政府は優秀な人材を次々と台湾に送り込んだ。当時の日本は台湾にとってかなり有為な施策を行なった。例えば、教育。清朝統治かでは義務教育など行なわれていなかった。しかし、日本は、台湾各地に学校を開き、教師も派遣して義務教育も施した。

 数ある植民地統治の例の中でも、一般住民に徹底的な義務教育を施したのはおそらく日本だけだろう。欧州植民地統治の大半は、現地のエリート層とだけ組み、一般住民は単なる労働力としてしか扱っていなかった。

 その結果、1940年代には、台湾の就学率は81%と、ほとんど日本と変わらない水準になっていた。日本が占領した時には、台湾は中国の中で最も貧しく最も不衛生な省であったが、日本の統治五十年の後、中国に返還された時には、中国の中でも最も豊かで教育水準の高い省になっていた。】

(続く)