三酔人の独り言

ルポライター・星徹のブログです。歴史認識と国内政治に関わる問題を中心に。他のテーマについても。

丸山眞男「超国家主義の論理と心理」の現在的意味

2013-11-22 00:50:15 | 政治論
 丸山眞男(1914-1996年/元東京大学教授で政治学者・思想史家)がもし存命なら、今日の日本の政治状況について何と言うだろうか?

 そんなことを考えながら、同氏が月刊『世界』(岩波書店)1946年5月号に発表した論考「超国家主義の論理と心理」(丸山眞男『増補版 現代政治の思想と行動』[未来社/1964年]に所収)をほぼ3年ぶりに読んだ。日本の政治が危うい方向に進むたびに、この「論考」を読みたくなるのだ。

 第2次安倍晋三内閣が発足してまもなく1年になる。安倍内閣のアベノミクスなる “経済政策”と共に株価は上がり、内閣支持率は(若干下がりつつも)高いままだ。国民からの「支持」と衆参両院での与党過半数という「数の力」を武器に、安倍首相は反憲法的で無理筋の法案を次々と成立させる様相だ。

 日米軍事一体化と「教育の国家管理化」を推し進め、最終的には自民党・日本国憲法改正草案に基づく憲法改定を成し遂げる、という思惑なのだろう。


 以下、<  >内は「超国家主義の論理と心理」からの引用(傍点は省略し、「・・・」は「中略」を意味する。[  ]内は引用者(星徹)が補った)。【感想】では私(星)の拙(つたな)い感想を記した。

(1)
<ヨーロッパ近代国家は・・・真理とか道徳とかの内容的価値に関して中立的立場をとり・・・国家主権の基礎をば、かかる内容的価値から捨象された純粋に形式的な法機構の上に置いている。・・・
 ところが、日本は明治以後の近代国家の形成過程に於(おい)て嘗(かつ)てこのような国家主権の技術的、中立的性格を表明しようとしなかつた。その結果、日本の国家主義は内容的価値の実体たることにどこまでも自己の支配根拠を置こうとした>(P13-14)

【感想】
 民主主義の基本である形式的価値(形式民主主義)への無自覚が日本社会に蔓延している、ということを丸山は懸念する。そのとおりだと思う。現在もこの「病」は克服されていない、と思う。

 内容主義・心(情緒)主義は、権力者が国を国家主義・独裁主義に誘導するための好都合なツールだ。自民党・日本国憲法改正草案は、まさにそれを地で行くものだ。形式的価値より情緒的な内容的価値を重視し、さらにそれを「日本独自の文化だ」「日本主義だ」などとうそぶく姿勢は、反知性的・反哲学的であり、人類進歩の歴史への冒涜だ。

 安倍内閣が進めようとする▽「道徳」の教科化、▽大学入試での「人物本位」──の方向性なども、同一線上にある。


(2)
<国家が「国体」に於て真善美の内容的価値を占有するところには、学問も芸術もそうした価値的実体への依存よりほかに存立しえないことは当然である。・・・主観的内面性の尊重とは反対に、国法は絶対価値たる「国体」より流出する限り、自らの妥当根拠を内容的正当性に基礎づけることによつていかなる精神領域にも自在に浸透しうるのである。
 従つて国家的秩序の形式的性格が自覚されない場合は凡(およ)そ国家秩序によつて捕捉されない私的領域というものは本来一切存在しないこととなる>(P15)

(3)
<国家主権が精神的権威と政治的権力を一元的に占有する結果は、国家活動はその内容的正当性の規準を自らのうちに(国体として)持つており、従つて国家の対内及び対外活動はなんら国家を超えた一つの道義的規準には服しないということになる>(P17)

【感想─(2)(3)併せて】
 日本の政治が現在進みつつあるのが、まさにこういった方向性なのだと思う。それは(1)の問題とも連続している。

 現在の問題の根源は、日米軍事一体化にある。安倍内閣はそのために、反憲法的な立法と制度づくりの既成事実を積み上げようとしている。また「国公認の価値観・歴史観を共有し、時の権力に従順な国民づくり」も必要だと考え、同時並行で「教育の国家管理化」のための立法・制度づくりも推し進めようとしている。そして最終的には、自民党・日本国憲法改正草案に基づく憲法改定を行なう腹づもりなのだろう。

 いつの時代も、権力者は自らの好きなように権力を行使したい、と思うものだ。しかし、それをそう簡単に許していたら、民主主義制度が崩壊してしまう。そうならないための様々な仕組みが、民主主義の諸制度には埋め込まれている。そういった形式的価値(形式民主主義)をもし蔑(ないがし)ろにするならば、その国はもう民主主義国とは言えないだろう。


(4)
<日本の国家主義論理の特質・・・[を持つ]「真善美の極致」たる日本帝国は、本質的に悪を為し能(あた)わざるが故に、いかなる暴虐なる振舞も、いかなる背信的行動も許容されるのである!
 こうした立場はまた倫理と権力との相互移入としても説明されよう。国家主権が倫理性と実行性の究極的源泉であり両者の即自的統一である処では、倫理の内面化が行われぬために、それは絶えず権力化への衝動を持つている。倫理は個性の奥深き底から呼びかけずして却(かえ)つて直ちに外的な運動として押し迫る。国民精神総動員という如きがそこでの精神運動の典型的なあり方なのである>
(P18)

【感想】
 自民党・日本国憲法改正草案の中に、上記「日本の国家主義論理の特質」を見出すことができる。まさに「戦前・戦中の日本への回帰」を目指すものだ。

 同時に、「新しい意味合い」を見出すこともできる。第1段落の「本質的に悪を為し能(あた)わざるが故に、いかなる暴虐なる振舞も、いかなる背信的行動も許容されるのである!」は、もちろん戦前・戦中の日本のあり方を言い表したものだが、後知恵を含めて現在的視点で見れば、「20世紀半ば以降の米国の価値観をそのまま体現している」とも言える。日本は現在、「米国なるもの」に恋い焦がれ、米国に付き従い、米国と軍事的に「一体化」しようとしているのだ。

 そういった意味で、2013年現在の日本のあり方には、現代米国のあり方を媒介した上での「戦前・戦中の日本への回帰」という面もあるのではないか。

(5)
<独裁観念にかわつて抑圧の移譲による精神的均衡の保持とでもいうべき現象が発生する。上からの圧迫感を下への恣意の発揮によつて順次に移譲して行く事によつて全体のバランスが維持されている体系である。これこそ近代日本が封建社会から受け継いだ最も大きな「遺産」の一つということが出来よう>(P25)

(6)
<この「圧迫の移譲」原理は更に国際的に延長せられたのである。[明治]維新直後に燃え上つた征韓論やその後の台湾派兵などは、幕末以来列強の重圧を絶えず身近かに感じていた日本が、統一国家形成を機にいち早く西欧帝国主義のささやかな模倣を試みようとしたもので・・・>(P25-26)

【感想─(5)(6)併せて】
 日本社会の中に「いじめの構造」が埋め込まれ、それを前提に社会が動いてきた、ということだ。

 この点で西欧近代が「そんなに偉いのか」と問われれば、「それほどではない」と言うしかない。しかし、少なくとも彼らのうちの一定割合の知恵ある人たちは、そういった矛盾を認識し、「改革すべき」との問題意識を持っていた。そして、タテマエとしてでも社会契約に基づく民主諸制度を作ろうと試行錯誤した。もちろん、その多くは「限られた範囲の人々」に対するものであり、帝国主義的行動はしばらく続いたのだが。

 他方の日本では、そういった形式的価値(形式民主主義)を重視する問題意識が圧倒的に不足し、「独りよがり」の内容主義に拘泥する傾向が強かったのではないか。そういった日本社会の特徴は、現在でも根本的には変わっていないように思う。

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