こんなこと考えました

ニュース・映画・本・電車の中の風景などなどで、感じたり思いついた事を不定期に書き込んでいきます。

汚れを落とすには、汚れよりも奇麗なものを使うしか無い。

2008-08-09 09:13:04 | Weblog
掃除の基本だけど、人間関係だとそうはいかない。
転んで泥だらけになった心を奇麗にするには、奇麗な心しか無い。
心は洗濯出来る事を忘れているから、汚れ事を嫌うようになった。
洗濯して奇麗になる方法は、周りの人が「偉い・立派だ・がんばったね」とかの励ましの言葉だったはず。
今はどうなんだろう? 
利益の事を優先して、「馬鹿な事を・余計な事を・・・・」なんて言っていないだろうか?
心を奇麗にする人達は、聖職者と呼ばれていたはずだが、いつの間にか「サービスの提供者」まで落とされてしまった。
資本主義と学歴主義の偏重が、原因一つだろうが、それだけなんだろうか?
身の回り1Mの空気しか読まないで、世界の空気を読めなくなった仁か居なくなったからじゃないか。
それは、人権の擁護が声を大きく出した人の為になってしまったからもしれない。
声を大きく出せる人は、汚れる事を完全に拒否するけど、自分の目が汚れている事には絶対に気づかない。
気づいても無視してしまう。
周りも自分が汚れるのを気にして、奇麗にしてあげようとは思わない。
負のスパイラルが腹立たしい。

心はステンレス

2008-08-09 09:01:11 | Weblog
心をガラスに例える事がある。
傷つきやすく、曇ったり、壊れたりする。でも、錆はしない。
でも、ほとんどの人の心はステンレスで出来ている。
簡単には壊れない。傷つくかもしれない、曇りもするだろう。でも錆び付いてしまう、
ステンレス自体はさびない幕で覆われている。でも、台所のステンレスでは錆びて見えている事がある。
それは、ステンレスに付着した汚れが錆びているだけ。
心も余分な欲望や嫉妬が錆びて、汚れているように見えるだけ。
汚れを落とせば、ピカピカの表面が見えてくる。