神話でなかった古事記

日本の歴史を知るために、いろいろ考えてきました。古事記に残されていることから、思いついた事を書いてみようと思います。

中国偏向の日本書紀 (6)

2016-10-17 05:36:24 | 古事記
四道将軍の残の二人の人物は古事記と日本書紀では一致している。古事記では大毘古命は北陸道から会津まで賊を征伐
して進んだ。この賊とは絹を密輸出していた漢族すなはち華僑と考えてよい。大毘古命の子のタケヌナカワワケは東の
道十二道に同じく賊を征伐して会津で父と落合った。これが会津の地名の起りだと書かれている。会津若松の伊佐須美
神社には、二将軍が出会った由緒が残っている。現古事記で相津と地名を謎にしたのは1263年に藤原朝臣が改ざん
した証拠だ。
 古事記では吉備征伐を行ったのは大吉備津彦と若建吉備津彦である。この人物が仮空でない証拠は伯耆の九つもの
神社に、この人物と孝霊天皇が合祀されていた。又由緒では鬼林山(日南町)、鬼住山(溝口町)の鬼を征伐した詳細の
記述が残っている。吉備にはこの二将軍はもちろん兄妹の夜麻登母母曽姫が祀られた神社が存在する。
 吉備の鬼征伐の伝承は官軍に攻められて巨人古墳群の西の鬼ヶ城に立籠った中国人、温羅を征伐した事実を語ったものだ。


第19話 壬申の乱は日唐戦争  58ページより、転載



私から一言--「九つもの神社に、この人物と孝霊天皇が合祀されていた」と書いてありますが、
ご自分で必ず、探してください。

 若建吉備津彦と関連のあることは、次の所に書いています。

①孝霊天皇、漢人を攻撃する
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2005-12-29

②孝霊天皇の吉備征伐
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-11-10

③東楽々福神社 ここに、若建吉備津彦命が祀られています。
楽楽福神社と呼ばれる神社は、6社あります。

楽楽福神社の事は、次の所に書いています。
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/archive/c35373229-3

6つのうち、祭神が、大日本根子彦太瓊命と書いてある神社は、8世紀以後に、藤原氏の支配を受けて、このように祭神を
うたうことを強制されたと思います。東楽々福神社も、大日本根子彦太瓊命と記すように云われたと思いますが、従わな
かったか、例えば、江戸時代とか、明治時代になってから、祭神を変えられたと思います。

この5つの神社には、大吉備津彦と若建吉備津彦も祀られていたと推理しています。

コメントを投稿