七変化もびっくり

政治や社会について綴る保守系ブログです。
女性天皇、女系天皇の実現に反対、女性宮家の実現に反対の立場です。

皇室から伊勢神宮へ「馬」の贈り物

2018年06月27日 | 皇室
拙ブログへ起こし下さり、ありがとうございます。

知人よりお知らせをいただき、今日は伊勢神宮の内宮で行われた「御馬牽進式(みうまけんしんしき)」を
見に行ってきました。Yさん、よい情報をありがとうございます。伊勢はよく晴れてとても暑い一日でしたが、
滅多に見られない「御馬牽進式(みうまけんしんしき)」を拝見し、大変喜んでいます。暑かったですが、頑
張って行った甲斐がありました。

平成生まれのまだ若い御馬で、菊のご紋の入った馬衣を着けた姿は、本当に格調高くさすが神馬になる選ばれた
馬だなと思いました。御正宮前の石段を御馬が上がってきたときは、ドキドキしました。御垣内の内玉垣南御門
の近くまで白石を踏みしめて参進し、そこで神馬になる儀式が行われました。草新号は、鹿毛(かげ)のきりっ
と体のしまったおとなしそうないい神馬です。

ーーーーーーーーーーーーーー伊勢志摩経済新聞より転載ーーーーーーーーーーーーーーーー
皇室から伊勢神宮へ「馬」の贈り物 「御馬牽進式(みうまけんしんしき)」
2018年06月27日

皇室から伊勢神宮へ「馬」の贈り物 「御馬牽進式(みうまけんしんしき)」


伊勢神宮内宮(ないくう)で6月27日、皇室から贈られた御馬(みうま)「草新号(くさしんごう)」の「御馬牽進式(みうまけんしんしき)」が行われた。

【その他の画像】皇室から贈られた草新号

 儀式は、今年1月に内宮に仕えていた2頭の内の白馬の「空勇号(そらいさむごう)」が退落(死亡)したことを受けて、皇室から贈られたことを天照大御神(あまてらすおおみかみ)に奉告するもの。

 昨日皇室から送り届けられたという草新号は、金の菊花紋章の入った紫色の馬衣(ばい)を着け初めての伊勢神宮神域を緊張した様子で神職らと共に進んだ。第二鳥居でおはらいを受けそのままゆっくりと参道を進んで、正宮(しょうぐう)前階段を登り、外玉垣南御門(とのたまがきみなみごもん)から入って白石を踏みしめながら中重鳥居(なかえのとりい)をくぐって一般参拝者は入ることができない内玉垣南御門前東寄りまで進入し、静かに立ち止まった。

 草新号が、伊勢神宮の神様に仕える「神馬(しんめ)」となることを神様に奉告する祝詞(のりと)が上げられている間、草新号は深々と頭を垂れたままだった。祝詞奏上が終わると草新号は、御馬から神馬となる。

 草新号は、2001年3月15日生まれの雄。アングロ・アラブ種で毛の色は茶褐色。2015年に天皇・皇后両陛下が80歳になられた傘寿を記念して披露された「打毬(だきゅう)」に参加したほか、「御料牧場(ごりょうぼくじょう)」(栃木県)で外交接待の際の乗用馬として活躍した。皇室から贈られる神馬は平成になってから16頭目になる。

 現在、神宮には内宮に1988年生まれの「国春号(くにはるごう)」と、外宮に2001年生まれの「草音号(くさおとごう)」、2006年生まれの「笑智号(えみともごう)」が神馬として仕え、草新号が加わり4頭となった。神馬は奈良時代にはすでに神前に牽進されてきたという。1869年以降は、退落ごとに皇室より牽進されている。

 神馬は、毎月1日、11日、21日の早朝8時ごろ、神前に見参する。普段は神馬の体長など様子をうかがいながら御厩(みうまや)の中で参拝客らを見守っている。
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一方、高円宮家の絢子さまが、結婚される事が昨日報道されました。東京都港区に住むエリート一家
出身の男性で慶応大学を卒業後、日本郵船に勤務している方がお相手で、皇族の相手として申し分な
い方ではないかと思います。母の高円宮妃久子様が、本当にやり手で次女に続いて三女の絢子様の
お相手にも佳い方を見つけてこられました。皇族の価値を最大限に利用して、いい方を見つけるのが
上手いです。

秋篠宮家のファンだった私は、マコさまのお相手小室さんとの違いに愕然としています。秋篠宮家
が、完全に背乗りされているかのような状況では、家柄の佳い方やエリート一家の人は現れないです。

あの小室圭なる男性は、本物の秋篠宮ご一家をどこかに追いやるための陰謀で、眞子様の結婚相手と
されているのでないかと推察しているのですが、扁平な顔をした眞子様のように振る舞う女性は、
偽者でしょう。

雅子様、16年間記者会見に応じず!

2018年06月26日 | 皇室
拙ブログへお越し下さり、ありがとうございます。

6月25日月曜日の天皇・皇后両陛下の公務はふたつ、 日本学士院会館で行われた日本学士院第108回
授賞式 御臨席、その後宮殿において日本学士院賞本年度受賞者及び新会員等茶会。この茶会には皇太子
様、秋篠宮ご夫妻もご臨席。
夜は、 Bunkamuraオーチャードホール 小児がん征圧キャンペーン・チャリティーコンサート
に出席。

前日は旧正田邸を訪問され、精力的にお出かけです。80才代と高齢の方々が、これほど毎日元気に活動で
きるだろうかとふと思いますが、若い替え玉が・・・・・

昨日宮殿で行われた日本学士院賞本年度受賞者及び新会員等茶会に、雅子様は出席していません。紀子様は
出席されているのですが、次の皇后になるのにこんなことでいいのでしょうか?雅子様の事になると敬語で
ものを言えなくなります。

皇太子ご夫妻は、先日ご結婚25周年を迎え、お祝いの行事や食事会が催されました。皇太子ご夫妻のご結婚
25周年に際して、記者会では3ヶ月前から記者会見の申し込みをしていたにもかかわらず、それは実現しませ
んでした。雅子様は、16年間記者会見に応じていないそうで、次の皇后になるのに国民との繋がりを持とうと
しないのは好くないと思います。ですから雅子様の肉声を聞いたことがない国民が多数となっています。
動画などを探しても雅子様の肉声を伝えるものは中々見つけられません。そんな事ですから雅子様への親近
感が、中々持てないです。
長い間、会見に応じていないのは、日本語が不自由だからという説も本当かもしれないと思える行動です。

記者会見開催の要望への対応についてという東宮職から文書が出されています。これを読みますと、よほど
この会見を実現するのが難しかったことが分かります。多忙を理由としてあげていますが、皇太子ご夫妻の
公務の数はかなり少なく、平日でも公務をしていない日があります。その日に会見を開けなかったのですか
ら、会見に応じない人がいるということでしょう。


6月9日に25周年諸行事が行われていますので、5月に入ってから空いていた平日は、5月7日、14日、24日、31日、
6月は、1日、5日、8日が空いていました。こんなにお休みがあって、うらやましいです。

しかし、宮内庁東宮職では、「御結婚記念日の直前には「みどりの愛護」のつどい御臨席などのための滋賀県行
啓やベトナム国国家主席同令夫人の国賓行事などがあり,また,御結婚満25年に際しての数々の関連行事も控え
るなどお忙しい御日程の中で,最後までその可能性につき真剣な検討が行われました。最終的には,5月の諸行事
を終えた後,その後の諸行事日程等を全体的に考慮した結果,妃殿下の御体調への影響などを勘案し,今回は,
記者会見ではなく,宮内記者会からの質問を殿下・妃殿下がそれぞれお答えになるという「文書回答」をお受け
頂くこととし,その旨を宮内記者会に連絡致しました。」とあくまでも忙しさと雅子様の体調を理由にしている
のです。静養やお楽しみだと、まず体調の波が現れない雅子様ですが、、、、

ーーーーーーーーーーー宮内庁HPより転載ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

皇太子同妃両殿下御結婚満25年に際しての記者会見開催要望への対応について
平成30年6月22日
宮内庁東宮職
最近,一部週刊誌において,皇太子同妃両殿下の御結婚満25年に際しての宮内記者会からの記者会見開催に関する要望への対応について,事実に反する記事が掲載されていることから,宮内庁東宮職として,国民の皆様に正しい理解をお持ち頂くのが適当との観点から,以下のとおり経緯を説明致します。


1宮内記者会より出された記者会見の要望については,東宮職として,皇太子同妃両殿下の御活動やお気持ちをできる限り国民の皆様にお伝えするのが望ましいとの観点から,その可能性について両殿下に御相談申し上げ,直前に至るまで真剣に検討してまいりました。

2今回の記者会見開催に関する要望については,御結婚記念日の直前には「みどりの愛護」のつどい御臨席などのための滋賀県行啓やベトナム国国家主席同令夫人の国賓行事などがあり,また,御結婚満25年に際しての数々の関連行事も控えるなどお忙しい御日程の中で,最後までその可能性につき真剣な検討が行われました。最終的には,5月の諸行事を終えた後,その後の諸行事日程等を全体的に考慮した結果,妃殿下の御体調への影響などを勘案し,今回は,記者会見ではなく,宮内記者会からの質問を殿下・妃殿下がそれぞれお答えになるという「文書回答」をお受け頂くこととし,その旨を宮内記者会に連絡致しました。この間の事情は,東宮大夫定例記者会見で説明しております。

3皇太子妃殿下には,引き続き御療養中ではありますが,努力と工夫を重ねられ,御体調に気をつけながら,公私にわたってできる限りのお務めを果たされようとしていらっしゃいます。また,皇太子殿下には,そうした妃殿下の御努力をお支えになってこられました。その結果,妃殿下には,公的な御活動を一つ一つ着実に積み重ねられ,御活動の幅が少しずつ広がってきておられます。一方で,これまでの東宮職医師団見解にもありますとおり,妃殿下には,引き続き御快復の途上にいらっしゃって,御体調には波がおありで,行事が続いた場合には,お疲れがお残りになることもあります。

4「文書回答」という形は,妃殿下が御療養に入られる前の御結婚満10年に際して採った形と同じであり,御療養に入られた後の御結婚満20年に際しては,両殿下の御感想という形で両殿下のお気持ちを皆様にお伝えしておりますので,今回,妃殿下が病気御療養に入られてから初めて質問を受け,3問全てについて両殿下がそれぞれお考えを記される「文書回答」という形としたのは,現時点で採り得る最大限の対応でした。

5したがって,最近の一部週刊誌,具体的には女性セブンと女性自身において,「ご夫妻の結婚記念日と,両陛下の『最後の被災地訪問』の日程が重なっていたことが本当の理由」であり,「16年ぶりに雅子さまの会見が開かれたとなれば,各メディアはその報道で一色になり,両陛下の地方公務への関心が低くなって」しまう,「皇室内には絶対的な序列が存在し」「両陛下の,しかも最後となる被災地訪問の“裏”で,会見を開くわけにはいかなかった」との記事や,「雅子様ご本人が,会見出席を断固として拒否されて」おり,その理由として,過去の記者会見が「批判的な報道につながったこともあり,雅子様にとっては“トラウマ”というほどの体験だった」といった記事が掲載されましたが,このようなことを考慮したことは一切ありません。

女性セブンの記事は,記者会見が開かれれば,両陛下の地方公務への関心が低くなる,それが記者会見を開かない理由だ,と論じていますが,仮に記者会見が行われたとしても,早朝から始まるその報道は,両陛下の福島県行幸啓より相当前の時間帯でした。両陛下の福島県行幸啓があるから記者会見を行わない,ということは検討したこともありません。このような記事は,両陛下の御公務に込められるお気持ちや日頃から両殿下を温かくお見守りくださっていることをないがしろにする失礼なものと言わざるを得ません。また,会見を開かなかった別の理由として,皇室内の序列を挙げて論じていますが,両陛下,両殿下,皇族殿下方の行事が,日程上重複することは従来からあることです。その意味で,序列は関係ありません。このように,事実に反する内容の記事を週刊誌に掲載するとともに,興味を煽るような見出しを掲げることによって,両陛下,両殿下の真摯なお気持ちを傷つけ,読者,さらには一般の人々に誤解を与えていることは,極めて遺憾であると考えます。
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週刊新潮からは、上下に渡り記者会見に応じなかった皇太子ご夫妻の内心をおもんばかる記事が出ています。
女性週刊誌が出した記事は、宮内庁東宮職からそうではないと否定が入っていますが、新潮のこの記事に対
して、宮内庁東宮職はどう出るでしょうか?

雅子様は、皇后になっても記者会見には応じず、気ままな生活を繰り広げるつもりだろうと思いますが、
国民の支持を多く集められないだろうと思います。

雅子様は、記者会見のみならず勤労奉仕団の国民と会うご会釈さえ避けているようです。残念です。


-----------------デイリー新潮より転載------------------------------

雅子妃」銀婚式に“人格否定”の残響 孤立を深めた皇太子の「美智子皇后」批判
デイリー新潮 2018/6/23(土) 8:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180623-00544046-shincho-soci

「雅子妃」銀婚式に「人格否定」の残響(上)

 来年の御代替わりまで、残すところ10カ月余り。先ごろ両陛下は「最後」の被災地ご訪問を果たされた。一方でさる9日には、皇太子ご夫妻がご成婚から25年となる「銀婚式」を迎えられたのだが、そこには今なお、14年前の“衝撃発言”が、厳然と響き渡っているのだ。

 ***

9日から福島県を行幸啓された両陛下は、最終日の11日、相馬市にある東日本大震災の慰霊碑に向かわれた。

「今回の目的である植樹祭はもちろんのこと、事実上、ご在位中の被災地ご訪問もこれが最後となります」

 とは、宮内庁担当記者。

「皇后さまはお疲れもあって体調を崩され、11日の早朝には38度を超す高熱があったのですが、慰霊碑前には予定通りお見えになり、強い雨の中、陛下とともにしっかりしたお手つきで供花なさる姿が印象的でした」

 こうした行幸啓は来年5月以降、皇太子ご夫妻へと引き継がれていくわけだが、1993年のご成婚から四半世紀、辿ってこられた道のりは、まさしく山あり谷ありだったと言わざるを得ない。

 9日に発表された文書で皇太子さまは、次のように述べられていた。

〈雅子は、この25年間、大変なこともある中で、色々な努力を続け、また、私と愛子をしっかりと支えてくれており、ありがたく思うとともに、心から感謝しています。点数を付けるのは難しいですが、今回は、結婚10年の折の「努力賞」と「感謝賞」のダブル受賞に加えて、銀婚式に因んで銀メダルも贈りたいと思います〉

 そのお言葉を受けるようにして雅子妃も、

〈今回、殿下からは、身に余る賞や「銀メダル」までいただけると仰って下さり、その寛大なお気持ちを大変ありがたく思いますとともに、金婚式に「金メダル」をいただけますかどうかは心許なく感じます……〉

 と、さらに四半世紀先へと思いを馳せられながら、あわせてこう記されていた。

〈25年間を振り返りますと、様々な出来事が走馬灯のように頭の中を巡り、感慨深いものがございます〉

〈私が体調を崩しましてからも、皇太子殿下には、いつも優しく、細やかなお心遣いをいただきながら、お助けいただいてきている〉

 文面の通り、過ぎ去りし25年は実に起伏に富んでいた。中でも特筆すべきは、やはり皇太子さまの「人格否定」発言であろう。

皇太子の「美智子皇后」批判

 ことは14年前に遡る。2004年5月10日、欧州各国ご訪問を前に皇太子さまは、東宮御所で恒例の会見に臨まれていた。

 ここで、予期せぬ事態が生じた。当時を知る全国紙デスクが振り返る。

「前年からご静養されていた雅子さまが同行されないことについて質問があり、皇太子さまは『心底残念に思っています』と、お気持ちを代弁されながら『外交官としての仕事を断念して皇室に入り、国際親善を皇族として、大変な、重要な役目と思いながらも、外国訪問をなかなか許されなかったことに大変苦悩しておりました』と明かされた。また、ご自身のお気持ちも『後ろ髪を引かれる思いです』と吐露なさったのです」

 皇太子さまの口から衝撃的なフレーズが発せられたのは、その直後であった。

〈雅子にはこの10年、自分を一生懸命、皇室の環境に適応させようと思いつつ努力してきましたが、私が見るところ、そのことで疲れ切ってしまっているように見えます。それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です〉

 会見の場が静まり返ったのは言うまでもない。

「会見の最後には『どんなことを念頭に置かれたお話なのか』と、補足質問が飛びました。皇太子さまは『細かいことは控えたい』とされながら『そのことで雅子も私も、とても悩んだ』と漏らされたのです」(同)

 皇太子さまはその2日後に渡航され、5月24日に帰国。が、ご不在中に騒ぎが鎮まるはずもなかった。

「5月17日には、宮内庁の羽毛田(はけた)次長(当時)の会見で『社会的影響の大きい発言。あらためて具体的内容が説明されなければ、国民が心配する』との陛下のお気持ちが示されました。結果として皇太子さまは、ご帰国後の6月8日、長官の会見を通じて文書でご発言の真意を説明せざるを得なくなったのです」(同)

 その文面には、こう綴られていた。

〈具体的内容について、対象を特定して公表することが有益とは思いません(略)皆さんにお伝えしたかったのは、私たちがこれまで直面してきた状況と今後に向けた話です〉

 名指しこそ避けられたものの、ご夫妻を取り巻く環境に苛(さいな)まれてこられた点を繰り返し強調されたのである。

東宮大夫の電話を叩き切った雅子さま

が、ここからさらなる混乱が引き起こされていく。

「皇太子さまの苛烈なお言葉は、一体どなたに向けられたものなのか、と様々な憶測が流れました。一義的には、ご成婚当時から『外遊はともかくお世継ぎを』との空気が支配していた宮内庁、中でも歴代の長官をはじめとする幹部らへ向けられたものでしたが、そうした雰囲気をおのずと醸成なさっているであろう両陛下、とりわけ皇后さまにも切なるお声を届けたかったのではないか……。当時はそんな見方も、記者会では広まりました」(同)

 この6月8日の「説明文」が出される少し前、皇太子さまのご真意を伺うべく電話をかけてきた当時の東宮大夫に対して雅子妃は、

〈そんなことをするのなら、私は皇太子妃を辞めます〉

 そう言って一方的に電話を切り、傍らの皇太子さまに「はっきり申し上げましたよ」とご報告される一幕もあった。さらには、

「その年の11月、今度は秋篠宮さまがお誕生日会見でこの問題に触れ『記者会見という場所において発言する前に、せめて陛下とその内容について話をして、その上での話であるべきではなかったかと思っております。そのことは残念に思います』と、異例の兄宮批判をなさったのです」(同)

 庁内は言うに及ばず、宮中でも抜き差しならない状態が続いていた。それは、陛下が同年末のお誕生日に、

〈皇太子の発言の内容については(略)まだ私に十分に理解しきれぬところがあり……〉

 そう言及なさったことからも明らかで、まさしく平成最大の危機が皇室を覆っていたのだった。

(下)へつづく
「週刊新潮」2018年6月21日号 掲載

"下"です:

「皇太子ご夫妻」ご成婚25年も… 次期皇后が未だ「会見NG」の非常事態
デイリー新潮 2018/6/24(日) 8:01配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180624-00544055-shincho-soci


皇太子ご夫妻と愛犬の由莉(宮内庁提供)

「雅子妃」銀婚式に「人格否定」の残響(下)

 さる6月9日に「銀婚式」を迎えられた皇太子ご夫妻。皇太子さまが発表された文書では〈雅子は、この25年間、大変なこともある中で、色々な努力を続け…〉と述べられていた。〈25年間〉を振り返るとき、中でも特筆すべきは2004年の皇太子さまの「人格否定」発言だろう。

〈雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です〉

 というお言葉は、歴代の宮内庁幹部、あるいは美智子皇后に向けられたものか、との憶測を呼んだ。秋篠宮殿下、そして陛下も疑問の声を投げかけられたこの発言により、皇太子さまは孤立を深めていった。

 ***

そんな異常事態を招くに至った経緯を、あらためて振り返っておく。

 銀婚式にあたり雅子妃は、

〈皇室に入りましてから間もない頃、殿下からご助言をいただきながら、初めての公務の一つ一つに臨んでおりました頃のことも懐かしく思い出します〉

 そう回想しておられるのだが、当時はご公務以上に重要な使命を帯びていた。

「言うまでもなく、男子のご出産です。秋篠宮家では91年に眞子さまがお生まれになっていましたが、皇位継承に連なる男子は皇室には一人もいらっしゃらなかった。その後、94年暮れには佳子さまが誕生なさるものの、状況は依然、変わらないままでした」(全国紙デスク)

 いや増すばかりの重圧に、雅子妃はこんなお振舞いを見せたこともあった。当時を知る宮内庁関係者が言う。

「95年のことです。ご懐妊の兆しが見えない雅子妃を陛下が慮(おもんぱか)って『国民はみな、あなたたちの子を期待していますよ』というお言葉を掛けられたことがあった。それに対して妃殿下は『私の周りには、そんなことを言う人は一人もおりません』と、毅然と言い放ったのです。陛下は驚き、呆気にとられたご様子でした」

居場所を失いつつあった妃殿下

 その後、99年末の流産を経て01年には愛子さまをご出産。当時、子を授かった喜びを雅子妃は「生まれて来てくれてありがとう」とのお言葉で表したのだが、周囲との“温度差”は際立っていったという。

「庁内はもっぱら『事態は何一つ進んでいない』という雰囲気で、つまりはおつとめを果たせていないということ。にもかかわらず、ご出産から1年で外遊に復帰なさったのですから、風当たりは一層強まってしまいました」(同)

 02年12月、ご夫妻はニュージーランドと豪州をご訪問。その直前、会見で雅子妃は、きわめて率直なお気持ちを口にされていた。

〈私にとりまして、結婚以前の生活では(略)外国に参りますことが、頻繁にございまして、そういったことが私の生活の一部となっておりましたことから(略)外国訪問をすることがなかなか難しいという状況は、正直申しまして私自身その状況に適応することになかなか大きな努力が要った〉

 が、これが物議を醸した。

「メディアでは『そんなに海外に行きたいのか』といった論調が目立ち始めた。加えて、数少ない理解者であり、妃殿下が大きな信頼を寄せられていた高円宮殿下の薨去(こうきょ)(02年11月)も、時期が重なってしまった。妃殿下は徐々に、居場所を失いつつあったのです」(同)

 高円宮さまは86年10月、東宮御所で催されたスペイン王女の歓迎レセプションの場に当時学生だった雅子妃を招き、皇太子さまとの出会いに繋げられた。いわばご夫妻のキューピッドであり、雅子妃のお気持ちの沈みようは計り知れなかったであろう。そして、

「03年の暮れには帯状疱疹を発症し、軽井沢で転地療養をなさいます。そうした中で04年、殿下の“人格否定”発言が飛び出したわけです。その翌月には適応障害と診断され、本格的な長期療養生活に入られたのでした」(同)

 以来14年。06年夏には、皇太子さまや愛子さまとご一緒に、オランダで2週間のご静養という異例の措置までとられたのだが、

「翌年5月、訪欧前の会見で、陛下が『私どもが私的に外国を訪問したことは一度もありません』と発言された。これがもっぱらご一家への“苦言”だと見なされてしまったのです」(同)

16年間肉声なし

 現在まで療養を余儀なくされながらも、

「銀婚式の文書からは、雅子妃殿下の変化が窺えます」

 とは、皇室ジャーナリストの山下晋司氏である。

「5年前のご成婚20年の際には、いわば一方的な両殿下のご感想が宮内庁から出されましたが、今回は記者会の質問に対して両殿下が別々に回答されています。その点を以てしても、妃殿下の体調は良くなっているのではないでしょうか」

 とはいえ、なおも大きな“懸念”が横たわったままだと指摘するのは、宮内庁担当記者である。

「02年末以降、雅子さまは16年間にわたって記者会見をされていません。我々は今回、ご夫妻揃っての会見を3カ月前から宮内庁に申し入れていたのですが、受け入れて貰えませんでした」

 雅子妃がメディアをことのほか遠ざけられているご様子は、療養生活において度々窺えた。

「外国ご訪問の前には、慣例で会見が開かれます。ですが、このままでは新皇后となられて以降もなさらないお考えでしょう。深刻な事態に違いなく、それで果たして、国民に声が届くのか。皇后さまから御養蚕や赤十字の名誉総裁職を引き継がれても、やはり最後には、公の場でご自分の言葉でお話しになるという“高い壁”が、立ちはだかっているのです」(同)

 きたる9月には、友好160周年を記念した皇太子さまの渡仏に同行なさる見通しだ。が、ここでも肉声は拝聴できそうにない。
「週刊新潮」2018年6月21日号 掲載
新潮社
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平和の詩「生きる」

2018年06月24日 | 日記
拙ブログへお越し下さり、ありがとうございます。

昨日は、沖縄慰霊の日(沖縄忌)でした。最後の激戦地となった糸満市摩文仁の平和祈念公園で
「沖縄全戦没者追悼式」が行われました。6月23日は、73年前のこの日、旧日本軍による組織的
な戦闘が終わった日とされます。

この沖縄全戦没者追悼式で、沖縄県浦添市立港川中学校3年の相良倫子さんが朗誦した平和の
詩を多くの人に知ってもらいたいと思い、この記事をUPしました。戦没者の御霊を慰霊すると
共に平和を希求する強い気持ちを表現した素晴らしい詩です。朗誦を聞いていたら、途中で
涙が・・・・言葉の持つ力は大きいです。

この詩と絡めて辺野古移設を進める安倍首相の政治姿勢を批判するブログ様もいるようですが、
私は、素直に慰霊と平和の大切さを訴えた詩と捉えています。なんと言っても中学生の詩です
から。

沖縄忌、原爆記念日、終戦記念日は、平和の大切さを改めて確認すると共に、繁栄する日本の
礎を築いてくれた先人たちに感謝し、戦争中に亡くなった人々の慰霊をする日だと思います。

普天間の周辺に密集する住宅や学校は、今も危険に晒されたままです。辺野古への移設の話が
出たときに、普天間飛行場の周辺に住む人々の転居を進める方が早く事が進むのではないかと
考えた記憶がありますが、飛行場の移設は本当に難しいようです。

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式典全体の中継映像です。出席したすべての人のスピーチが見られます。

●YouTube
慰霊の日「沖縄全戦没者追悼式」
https://www.youtube.com/watch?v=E3NSiI-3Cug


そして、相良倫子さんの朗誦だけを記録したのが次のこちらです。

●YouTube
【沖縄の願い】平和の詩 「生きる」慰霊の日 2018
https://www.youtube.com/watch?v=cNVS7ctD1Gs


この朗誦の全文はこちらから。

●毎日新聞
沖縄慰霊の日
平和の詩「生きる」全文
https://mainichi.jp/articles/20180623/k00/00e/040/310000c
毎日新聞2018年6月23日
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黒田伊勢神宮祭主、五穀豊穣祈る

2018年06月20日 | 皇室
拙ブログへお越し下さり、ありがとうございます。

皇室では、皇太子ご夫妻の結婚25周年を祝う行事や食事会が続いています。25年間、国民の
ための公務に余り出席せず、私事や私的な楽しみを優先しているように見えましたが、多く
の人を招いて食事会をされたそうです。雅子様に至っては、昼夜逆転など自堕落な生活をさ
れているのでないかと思います。

最近の地震の多さは、新天皇・皇后の即位を神々が歓迎していないのでないかと思う今日こ
の頃です。異常な天候に続いて、これだけ地震が続くといろいろ考えてしまいます。

昔の皇室は、天変地異が続くときは祈りの力が足りないのかと思いを巡らされたそうです
が、今の皇室はそんな事は考えないようです。宮中祭祀をしない人が新しい皇后になりそ
うで、嘆かわしいことです。私は、国家の平安や国民の安寧を祈り続けることに、皇室の
価値があるのでないかと思います。

皇室はそんな状況ですが、皇室から降嫁された黒田清子さまが伊勢神宮の月次祭に奉仕
され、五穀豊穣を祈って下さいました。ありがたいことです。
内宮で夜に行われた由貴夕大御饌では、どこからか現れた蛍が、黒田祭主の近くを舞い、
黒田祭主をほんのりと照らしたそうで大変幻想的な光景だったようです。蛍は、参進の時
も退下する時も黒田祭主の側を舞ったそうです。

ーーーーーーーーーーーーーーー伊勢志摩経済新聞より転載ーーーーーーーーーーーーーーーーー
ホタル舞う伊勢神宮で「月次祭」 黒田清子神宮祭主、五穀豊穣祈る
2018年06月18日

ホタル舞う伊勢神宮で「月次祭」 黒田清子神宮祭主、五穀豊穣祈る

伊勢神宮125社で6月15日から、五穀豊穣(ほうじょう)を祈る「月次祭(つきなみさい)」が執り行われている。25日まで。

【その他の画像】伊勢神宮月次祭

 毎年6月と12月の「月次祭」と10月の「神嘗祭(かんなめさい)」を合わせて「三節祭(さんせつさい)」とよぶ。伊勢神宮の年間1500以上の祭典の中で最も重要な祭典と位置付けている。

 月次祭は、外宮(げくう)で15日の22時「由貴夕大御饌(ゆきのゆうべのおおみけ)」と16日の2時「由貴朝大御饌(ゆきのあしたのおおみけ)」の2回、アワビやタイなど豪華な食事を奉納する。16日12時には皇室より送られた布などを奉納する「奉幣(ほうへい)」が執り行われる。

 内宮(ないくう)でも同様に16日の22時と17日の2時の2回の「由貴大御饌祭」、17日12時「奉幣」が繰り返される。同25日までの期間に伊勢神宮125社で同様の祭典が行われ、五穀豊穣、国家繁栄、国民の幸福、世界平和への祈りが1500年以上毎年欠かさず続けられている。

 梅雨と重なる6月の月次祭は雨や曇りの日が多い。15日の外宮の由貴夕大御饌では雨が降り、黒田清子神宮祭主を先頭にした神職らの参進風景は傘を差しながらのものだった。一方、16日の内宮の由貴夕大御饌では晴天となり、流れる雲に星空が美しく、神域内は幻想的な雰囲気に包まれた。

 奉拝者によると、内宮の由貴夕大御饌での参進の際、1匹のホタルが現れ黒田祭主をほんのり照らしながら、目元まで接近して急上昇し、そのまま一行を先導するように上空を飛び続けたという。黒田祭主が退下(たいげ)する際にも1匹のホタルがどこからともなく現れ、黒田祭主の上空を2度回った。
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天皇皇后両陛下の長女の黒田清子祭主は、頭に木綿鬘(ゆうかずら)、緋(ひ)色の浅沓(あさぐつ)を履き、桧扇(ひおうぎ)を手に持ち、白衣・緋袴(ひばかま)・小袿(こうちぎ)といった平安の装束で祭典に臨まれました。神宮祭主となってからの黒田さまの月次祭奉仕は、昨年10月の神嘗祭(かんなめさい)、11月の新嘗祭(にいなめさい)、12月の月次祭(つきなみさい)、今年2月の祈年祭(きねんさい)に次ぎ5回目です。

 黒田祭主は、内宮で「興玉神祭(おきたましんさい)」「御卜(みうら)」を行った後、外宮と内宮にアワビや伊勢エビなど約30品目の神饌(しんせん)をお供えする「由貴夕大御饌祭(ゆきのゆうべのおおみけさい)」「由貴朝大御饌祭(ゆきのあしたのおおみけさい)」、天皇陛下からの幣帛(へいはく)を奉納する「奉幣(ほうへい)」を執り行いました。

内宮や外宮の月次祭が終わると、別宮、摂社、末社、所管所で次々と月次祭が行われます。
125社あるので、終わるのは25日になります。

地震に備えましょう!

2018年06月18日 | 日記

地震の被害が、予想以上に拡がっています。幼い小学生も含まれ、ブロック塀の倒壊で
亡くなられた方々が、本当に気の毒です。お悔やみを申し上げます。

余震が続いていますので、しばらくは気を緩められません。今日の地震が、本震でない
可能性もありますから気を付けたいです。


「阪神大震災を思い出す」大阪で最大震度6弱 地震発生時にやるべきこと やってはいけないこと
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180618-00010001-bfj-soci