森の詞

元ゲームシナリオライター篠森京夜の小説、企画書、制作日記、コラム等

2008年02月18日 | 月見草の咲く街

 それは鮮やかな赤紫に染め抜かれた白薔薇の、無数の花びらの奔流だった。まるで意志があるかの如く礼拝堂の中空を旋回していたかと思うと、獲物を狙う禽の群れのように人々を次々と巻き込んでゆく。
「う……うぉぉおぉぉぉぉっ!」
 ワイアードは血走った眼をカッと見開くと、懐から呪符の束をつかみ取って己が周囲に撒き散らした。主の命を受けた呪符はたちまちの内に宙を舞い、堅固な結界となって赤紫色の激流を阻む。
 彼のように身を守る術を持たず、襲い来る激流に飲み込まれた人々は、為す術もなく倒れて動かなくなった。最初の流れからかろうじて逃れた者も、礼拝堂からの脱出を試みる間もなく別の流れに飲み込まれてしまう。そんな中、ローザは一切の被害を受けずに立っていた。
「凄いわね……」
 呟き、渦巻く花吹雪の向こう側に、ふと目を凝らす。
 ワイアードが先程落ちてきた壁伝いに二階へと続く階段の上に、大きな鞄を手にして立つ一人の少女の姿がある。
 やがて礼拝堂にローザとワイアード以外に立つ者がなくなると、赤紫色の激流は再び中空を旋回し始めた。そのまま徐々に収束し、ただ一点に吸い込まれてゆく。無数の花びらをすべて吸い込み、バタンと大きな音をたてて、少女の持つ鞄の蓋が閉じた。
 遠目ではっきりとは確認できないが、それでも確信に満ちた口調で、ローザは呟いた。
「ユーノ……」
 と。

 優乃はゆっくりと階段を下りてきた。
 ローザもまた壇を下りた。そのまま優乃に歩み寄ろうとして、ワイアードの鋭い叫びに阻まれる。
「近づくのではない! この者は……この者は、《第一級吸血鬼》だ!」
「《第一級吸血鬼》……?」
 聞き慣れない言葉に眉をひそめ、ローザは優乃に視線を移した。
 未だかつて感じたこともないほどの魔性の波動が、少女の全身から放出されている。元から色白だった肌は白を通り越して蒼白になり、瞳孔が完全に開ききった瞳は、いつもの栗色ではない、その奥に奈落の深淵を映し出している。バンダナの合間からはみ出した髪がふわりと揺れ、衣服の端がはたはたと鳴った。少しの風も、ないのに。
 そこに殺気はなかった。かつて見た強い意志の光も、静かに燃える怒りの炎も。憎悪ですら、一片の介入も許されてはいなかった。
 ただ、悲しみが。
 途方もない悲しみだけが。
「う! ……ぁあ……っ!」
 何の前触れもなく、ワイアードの身体が金縛りにあったように硬直する。恐怖に顔を引き吊らせ、為す術もなく立ち尽くすワイアードに、優乃は静かに歩み寄った。
 無造作に動かされた手が、今尚存在する呪符の結界に触れる。瞬間、結界の表面が激しく火花を散らし、優乃の手を弾き返す幻をローザは見た。あるいは結界を構成するすべての呪符が、跡形もなく消滅する幻を。
 だが現実は、そのどちらでもなかった。
 少女のほっそりとした指先は、何の抵抗もなく界面をすり抜けていた。薔薇の奔流を退けた呪符の結界も、優乃自身の魔性の波動の前では何の効果も発揮しなかった……いや、作用すらしなかったのだ。どんなに頑丈な金網であろうとも、流れる霧を阻むことはできぬように。
 優乃の手首が、腕が、そして肩が、音もなく界面をすり抜けてゆく。まっすぐに伸ばした指先が眉間に触れた途端、ビクンと全身を痙攣させ、ワイアードは倒れた。周囲に舞っていた呪符の数々が急速に力を失い、はらはらと床に落ちる。
 辺りは急に静かになった。
 優乃の瞳にスゥッと光が戻る。
「ご無事ですか、ローザさん……ローザさん?」
 間近からかけられる言葉を、ローザは音ではなく、肌の振動として感じ取っていた。視界に霞がかかり、ひどく息苦しい。全身から汗が吹き出し、まるで身体中の血液が沸騰して逆流しているかのようだ。
 異変に気づいた優乃が慌てて駆け寄ってくる、その腕に抱き止められる直前、ローザの意識は闇に溶けた。

 次に目が覚めたとき、ローザは見知らぬ部屋の中にいた。
 天井は高く、巨大なシャンデリアが吊ってある。床には絨毯が敷かれており、現在自分が寝かしつけられているベッドを除けば、家具の類は小さな丸テーブルと二人掛けのソファーが一つ。
 枕元に燭台が一つあるが、天井のシャンデリアと同様に火は灯っておらず、辺りは暗い。それでもかろうじて周囲の様子がわかるのは、開け放たれたままの大きな窓の外に、冷たく輝く月があるからだ。どうやら自分は、そう長い間意識を失っていたわけではないらしい。もっとも、あれから丸一日以上が過ぎたのでなければ、の話だが。
 額の上に、ひんやりとした感触がある。そっと動かした手につかみ取ったそれは、氷の溶けかかった氷嚢だ。冷たい感触を手の中で弄んでいる内に、ぼんやりしていた意識がはっきりしてくる。
 ローザはもう一度視線を巡らせ、そのとき初めて、ベッドのすぐ脇に一人の男が控えていることに気がついた。
「お気づきになりましたか」
 真面目そうな声の持ち主は、ハッとするほどに整った容姿をしていた。逞しくも引き締まった身体、涼しげな瞳。生まれつきなのか、短く切り揃えられた髪は一本残らず白髪だが、見た目は二十歳過ぎの青年だ。肌の色は浅黒く、何処か野ざらしの岩を思わせる。だがそれは決して冷たい印象ではなく、むしろ彼の精悍な顔つきを際立たせている。
「貴方は……?」
「私の名はトーマス=ベント。優乃お嬢様の身の回りのお世話をさせていただいている者です」
「……そうだ、ユーノ!」
 跳ねるようにして起き上がり、たちまち激しい目まいを起こして、ローザはベッドに倒れ込んだ。
「無理をしてはいけません」
 トーマスと名乗った青年の、大きくがっしりとした手が、薄地の毛布の上からローザの胸を押し留める。ローザは一瞬びくりとしたが、不思議と不快感はなかった。しばらく呼吸が整うのを待ち、目線だけ動かして、男の顔を見つめる。
「貴方、トーマスさんって言ったわね……あたしの身体、どうなったの?」
「ご心配には及びません。優乃お嬢様の発せられた魔気の急激な高まりが、貴女の体内を流れる服従の血を刺激したのでしょう。そしてそれを、貴女自身の血が抑え込もうとして衝突したのです」
「服従の血……? ……あっ」
 唐突に、ローザは思い出し、喉の傷痕に手をやった。
 そうだ、あたしは一度、吸血鬼に噛まれてるんだっけ。それから何だか、身体が凄く熱くなって……。
「……それって、あたしが吸血鬼になったっていうこと?」
 おずおずと尋ねると、トーマスはわずかに目を細めた。どうやら微笑んだらしい。
「思い当たるところがあるようですね。しかし、貴女は正真正銘、今も間違いなく人間ですよ。それに服従の血と言っても、貴女の体内に流れているのはほんの微量……覚えていらっしゃいますか? 二日前の夜、あの哀れな男との戦いの後に、優乃お嬢様とお会いになったことを」
「ええ。確か……」
 そっか、あのときは馬車があったから、トーマスさんもいたんだよね……。
 言われるままに記憶を辿り、そのとき何があったのかを思い出して、ローザは思わず頬を赤らめた。そんなローザの様子には留意せず、トーマスが話を続ける。
「あのとき、自覚はなかったでしょうが、貴女は大変危険な状態にありました。ご存じでしょうか、吸血鬼の誕生には二通りの方法があります。一つは人間と同様、異性間の交わりによって生まれるもの。そしてもう一つが、世間一般に言われているところの『吸血鬼に血を吸われた者は吸血鬼になる』というものです。しかし正確には、吸血鬼に血を吸われたからといって吸血鬼になるわけではありません」
「えっ……?」
「本当の原因は唾液……吸血行為の際に体内に流れ込む唾液こそが、人間を吸血鬼へと変化させる最初の因子なのです。優乃お嬢様にお会いになったとき、貴女は既に吸血鬼化の過程にありました」
 絶句するローザの胸の上から手を退け、トーマスは立ち上がった。開け放してあった大窓を閉じ、レースのカーテンを引く。部屋の中は一段と暗くなったが、それでも闇に馴れた目には充分な光量がある。
「確認の為にお尋ねしますが……優乃お嬢様が、あの哀れな男と同じ吸血鬼であることは、既にご存じですね?」
「え? ……あ、うん……そうね、何となくだけど気づいてたわ。ワイアードの奴は、ユーノのことを第一級、あの男のことは第三級とか言ってたけど」
「成程……では、その分類に従ってお話ししましょう」
 トーマスは再びベッドの横の椅子に腰を下ろした。
「今、私は優乃お嬢様とあの男が同じ吸血鬼であると言いましたが、厳密に言って、二人の間には大きな違いがあります。一口に吸血鬼と言っても、そこには大きく分けて三つの種類が存在するのです。
 一つには、《第一級吸血鬼》と呼ばれる、吸血鬼の頂点に立つ存在。そのすべてが始祖の血を受け継ぐ者で、他のものとは比較にならない強大な魔力と、数多くの特殊能力を生まれながらに有しています。寿命は……あるのかも知れませんが、私の知る限り、未だかつて天寿を全うした者は一人として存在しません。優乃お嬢様は《第一級吸血鬼》としては最も年若く、これの末席に座していらっしゃいます。
 次に《第三級吸血鬼》ですが、これは吸血鬼の中で最も下位の存在です。誕生の方法は三通り、後から説明する《第二級吸血鬼》の唾液によるもの、《第三級吸血鬼》の唾液によるもの、そして《第三級吸血鬼》が異性と交わることによって生まれるもの。魔力は低く、特殊能力も、再生や飛翔などしか備わっていません。異性間の交わりによって生まれたものに限っては、例外的に人間として誕生し、ある時期を境に《第三級吸血鬼》として覚醒しますが……どちらにしても元々は普通の人間である上に、自らの意思とは無関係に作用する再生能力に生命力を著しく削られるため、多くの場合、短命です」
「…………」
 ローザはギュッと手を握り締めた。思わず脳裏に浮かんできたあの男の土気色の顔を、頭を振って追い払う。
 トーマスはローザの様子に気づき、少しの間黙っていたが、
「あ……ごめんなさい、続けて」
「では……最後に《第二級吸血鬼》ですが、これを説明するには、まず服従の血について知っていただく必要があります」
 話の続きを促されて、再びゆっくりと喋り始めた。
「俗説では、吸血鬼に血を吸われながらも生き残った者は、その吸血鬼の奴隷となりますね。現実には《第一級吸血鬼》の場合にのみあてはまるこれが、つまり服従の血……《第一級吸血鬼》の唾液だけが人体に及ぼす影響です。しかし逆に、《第一級吸血鬼》の場合に限り、唾液を受けた者はこの時点では吸血鬼になっていません。魔気に対する感知能力と強い耐性を得てはいますが、れっきとした人間のままなのです……そう、今の貴女と同じように」
「成程ね……話が読めてきたわ」
 ローザは内心ひどく動揺していたが、努めて冷静な口調で言った。
「つまりあたしは、あの吸血鬼に噛まれたことにより、《第三級吸血鬼》へと変化しつつあった。そのことに気がついたユーノは、あたしの体内に入り込んだ唾液を可能な限り吸い取り、更に自分の唾液を送り込んだ。同じ方法を用れば、より上位である《第一級吸血鬼》のほうが勝るのは当然のこと……結果、あたしを人間として留めることに成功した。言ってみれば、毒をもって毒を制したってワケね……それで?」
「これを……お嬢様から預かっています」
 トーマスは足元から手作りと思われる皮製のリュックを持ち上げ、懐から赤紫色の液体が入った硝子壜を取り出し、それぞれローザの手に握らせた。
「? これは……?」
「《第一級吸血鬼》に次ぐ強大な魔力と数多くの特殊能力、そして人間よりも遥かに長い寿命を持つ《第二級吸血鬼》……その誕生の方法は二通りです。一つは《第二級吸血鬼》が異性と交わること……そしてもう一つは」
 トーマスは一旦言葉を切り、ローザをじっと見つめ、また口を開いた。
「貴女のように服従の血の流れる者が、自らの主たる《第一級吸血鬼》の血を飲むこと……その瞬間、体内の服従の血は消滅し、《第二級吸血鬼》として覚醒します」


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