森の詞

元ゲームシナリオライター篠森京夜の小説、企画書、制作日記、コラム等

2008年02月07日 | 月見草の咲く街

 ……逃げられた。
 緊張の糸が切れてその場に座り込んだローザの横を、
「吸血鬼だ! 吸血鬼が出たぞ!」
「黒いコートの男だ!」
「そっちに逃げたぞ!」
「回り込め!」
 何処から出てきたのかと思わせるほどに大勢の男たちが、先端に炎の灯った杖を手にして口々に叫びながら走り過ぎてゆく。ほとんどが青年や壮年の男たちだが、中には先頭切って駆け抜けていった少年のように、まだ幼さを残した者の姿もある。浅黒い布を筒型に縫っただけの簡素な服装に混じって、時折妙な模様の旗や派手な衣装が見え隠れする。
 何なのよ、コイツら……。
 ローザは呆気に取られていたが、ふとあることに気づいた。
「……って、あたしの手柄を横取りするんじゃないわよ! 待ちなさいってばっ! 聞いてるの、アンタ達!?」
 ローザは怒りと屈辱に唇を咬んだ。手柄云々は本心ではない。彼等は誰一人として彼女の声に耳を貸さずに行ってしまったのだ。ローザだけではない。あの警官の亡骸にすら、まったく関心を払わずに。
 シャリィィィ……ン……。
 美しく澄んだ音色が、狭い裏通りの壁に幾重にも反響する。振り返ると、派手を通り越してド派手な衣装で全身を着飾った男が一人、警官の亡骸の前に片膝をついて錫杖を打ち鳴らしていた。片手で不可思議な印を結び、よく聞き取れないが経文のようなものを唱えている。やがて錫杖の音の余韻が闇に消える頃、男は立ち上がり、懐から通信機らしきものを取り出した。
「こちら自警団第一部隊、犯行現場を目撃しました。現在地は第四商業区域、犯人は黒いコートの男で身体と額に銃弾による傷を受けており現在逃走中、方角は特定できません」
 自警団? するとこいつらが教団《光と闇の礎》なのだろうか……それにしても。ローザは眉根を寄せた。
 それにしても、今のは一体どういうこと?
「被害者は若い女性が二人。一人は警官と思われますが、既に死亡しています。もう一人のほうは無事です」
 男は事務的口調で喋り終えると、通信機を懐に戻してこちらを振り向いた。格好はド派手だが、落ち着いた雰囲気の初老の男だ。かなり背が高く整った顔立ちをしている。若い頃はさぞモテたに違いない。
「やたらと銃を振り回すのははしたないですな、お嬢さん。それに奴は物質兵器では倒せません。神の怒りを鎮められるのは神への信仰の力のみ……女の子は早く家にお帰りなさい」
 嘲笑うような口調と高慢な態度に、ローザの男に対する評価はガラリと変わった。唯一人あの警官の死を弔ってくれたのは嬉しいし、身なりから見て相当高い位にいるのもわかる。しかし、おそらくは信者や神官たちなのだろう他の男達の、死者をないがしろにしたあの態度。上に立つ者ならば、彼等の不調法はこの男の責任ではないか。それに……。
「どうしてあたしが銃で撃ったってわかるんです?」
 とぼけた顔で尋ねられ、男は少しギョッとした様子を見せた。が、すぐに表情を元に戻し、うって変わって穏やかな口調で答える。
「先程銃声が聞こえましたし……それにほら、貴女、銃を持っていらっしゃるじゃないですか」
「ああ、これですか?」
 とローザは手に持っていた銃を持ち上げた。ええ、とうなずく男の顔に、いきなり銃口を向ける。驚いた男が逃げる間もなく、ローザは引き金を引き……闇の中に、ポッ、と小さな火が灯った。
「よくできてるでしょう? このライター。ほら、年代物だけどちゃんと火もつくし」
 唖然とする男の前にライターを突きつけて、ローザは更に問い詰めた。
「本物の銃なんて持ってるはずがないじゃないですか。だってあたし、女の子ですよ? あたしが撃っただなんて……何処で、見てたんです?」
 揺れる炎に照らされて、男の顔が歪む。だがそれは、炎のせいだけではなかった。
「は……はっはっはっ、何とも愉快なお嬢さんだ。どうやら私の勘違いだったようですな。ともかく無事で何よりです」
 軽く笑い、男はどうにか平静を装ったが、その口元が引き吊っているのをローザは見逃さなかった。
「申し遅れましたが私、《光と闇の礎》の大神官、ワイアードと申します。もし何かあれば、いつでも我等が教会へとお越し下さい」
 今日はよく招待される日ね。思いながら、ローザも笑顔を返した。ただし、不敵な笑みではあったが。
「ローゼンシル=レクター……探偵よ」
 口元に引き続いて目元をも引き吊らせたワイアード大神官の表情は、既に笑顔には見えなかったが、ある意味充分に笑える顔ではあった。
「で、では、吸血鬼を追わねばなりませんので、私はこれで。じきに警察が来るでしょうから、お嬢さんはそこで休んでいて下さい」
 ワイアードが去り、裏通りに静寂が戻ると、ローザは太股の内側に手を忍ばせた。
「意外な形で役に立ってくれたわね……普段は逆の使い方しかしないんだけど」
 取り出した銃とまったく同じ姿形のライターに、ローザは軽く口づけた。

 ワイアードは休んでいろと言ったが、正確な位置を知らない警察が自分たちを見つけるには時間がかかる。後々面倒なことにならないように銃とライターは懐と太股の内側に戻し、ローザは警官の亡骸を引きずって表通りを目指した。
 無暗に曲がらず直進し、ほどなく表通りに出た頃には、騒ぎを聞きつけて集まった大勢の野次馬と、それらの人々をなだめすかして懸命に家に帰そうとしている警官達の姿があった。駆け寄ってきた数人の警官に亡骸を預け、医師達の制止を振り切って歩き出す。
 身体が、頭がひどく熱かった。視界は不安定にぐらぐらと揺れ、些細な物音が頭に響く。野次馬でできた人垣を抜け出る頃には、ローザは全身汗だくになっていた。
 熱い……何でこんなに熱いんだろ。
 ついさっきまで肌寒くさえあったのに、今となっては夜風が恋しい。上着を脱ぎ、後ろ髪をまとめて束ねると多少ましになったが、それでも後から後から汗が吹き出てくる。
「……? あれは……」
 一日歩き通しで疲労が蓄積していたこともあるのだろう、ふらつく脚を叱咤しながら、ともかくアパートに戻ろうと歩いていた途中。ふと街角に見覚えのある顔を見つけて、ローザは立ち止まった。
 道端に止められた馬車のそばに細身の少女が一人、何をするでもなくたたずんでいる。満天に輝く星々を眺めながら、まるで誰かを待っているようだ。
「ユーノ……だったわよね」
 名を呼ばれたことに気がついたのか、少女が振り向いてこちらを見、ゆっくりと歩み寄ってきた。それは確かに昼間に出会った少女、優乃だった。
 しかし、随分と雰囲気が違う。ローザは少し戸惑った。日傘とサングラスがないこともある。昼間とは一転して優雅な黒絹のドレスを着こなす姿は、まるで二十代後半の貴婦人のように大人びている。しかし、それらとはまったく別の……魔性の輝きを放つと言われる宵闇に浮かぶ月のような、不可思議な魅力に満ちあふれている。昼間に見たときには、まるで陽の光の中で舞う花びらのようだったのに。
「こんばんは、ユーノ」
「こんばんは、ローザさん」
 軽く挨拶を交わすと、疲労と倦怠に沈んでいた気分が心持ち楽になった。群衆のざわめきは耐え難かったが、優乃の涼やかな声は耳に心地好い。さっさと自分の部屋に帰るつもりだったが、ずっと一人だったところに知った人間に会えたことが嬉しくて、ローザはついつい言葉を重ねた。
「どうしたの、こんな所で。《風渡る丘》って確か、ここからだと街の反対側でしょ?」
「ええ……そうなんですけど、せっかく街に出てきたんだからと思って。これを」
 と、優乃が取り出したのは、淡い緑の輝きを帯びた螢光硝子の眼鏡だった。
「他にもいいのが沢山あったんですけど、そんなに持ち合わせがなかったものですから。五時間もかけて選んだんですよ。……どうです、似合ってますか?」
 帽子の前に取りつけられた黒絹の紗を上げて螢光眼鏡をかけ、優乃は華やかに微笑んで見せる。ローザは初め呆気に取られていたが、やがて吹き出し、クスクスと笑い始めた。
「???」
 不思議そうな表情で優乃が見守る中、息を切らして喘ぎながらも、顔を上げて目尻にたまった涙を指で拭う。
 その螢光眼鏡は、確かに彼女によく似合っていた。かけた途端に、大人びていた容姿が一気に少女のものに戻ってしまったけれど。
「うん、似合ってる似合ってる。……ははっ、何だか気が抜けちゃったなぁ。ありがと、ユーノ。会えて嬉しいわ。でも……」
「でも?」
 優乃が不思議そうに小首を傾げる。ローザは表情を引き締めた。
「早く帰ったほうがいいわ。ここだけの話だけど、昼間言ってた連続殺人犯……あれ、本物の吸血鬼よ。あたし見たの。オマケに教団も何か絡んでるわ」
「教団……?」
 優乃は吸血鬼のことよりも教団の方に関心を示したようだったが、ふと何かに気づき、表情をこわばらせた。
「……ローザさん、その怪我……」
「え? ……ああ、これ?」
 ローザは喉に軽く手を触れた。
「言ったでしょ? 吸血鬼を見たって。そのときに咬まれたのよ」
 優乃が螢光眼鏡を外し、黒絹の帽子を脇に抱えた。手布を取り出して口をつけ、唾液を馴染ませてローザの首に手を寄せる。
「じっとしていて下さい、ローザさん」
「あ、うん……でも、そんなに心配しなくても大丈夫だと思うわよ。ちょっと咬まれただけで、血を吸われたわけじゃないし……」
 傷口を拭われながら、ローザは軽い気持ちで笑っていたが、優乃の真剣そのものの瞳に見つめられて言葉を濁した。と、優乃の瞼がスッと閉じられたかと思った途端、
「えっ……?」
 優乃がローザを抱き寄せ、胸元に口づけた。その生暖かい、甘美な快感にも似た感触に、ローザの頭の中は真っ白になった。優乃の薄紅色の唇が、暖かくなめらかな舌が、胸元から鎖骨の間、喉にかけてを丁寧に這う。流れる血を逆に辿り、やがて舌先が傷口の一つを探りあてると、優乃は唇をすぼめ、
「ん……っ」
 傷口を吸った。信じられないほど、強く。
「……っ!? ちょ、ちょっと!?」
 されるがままに接吻を受けていたローザが、余りの痛みに我に返る。ローザは慌てて優乃の肩をつかんだ。だが華奢な外見に似合わず、どんなに力を込めてもびくともしない……いや、違う。力が入らないのだ。まるで身体が、『優乃を拒絶すること』を拒絶しているかのように。
 その間にも、優乃の唇は順に傷口を探り、吸ってゆく。交互に訪れる快感と痛みに、ローザは為す術もなく立ち尽くし……やがて静かに唇を離すと、優乃はローザを見上げ、
「これで大丈夫です……後でちゃんと手当てして下さいね」
 何事もなかったかのように微笑んだ。
 ローザはしばらくの間、ぼうっとした瞳で優乃を見つめていたが、やがて唐突に自分たちの行為に気づき、慌てて身体を離した。急いで辺りを見回し、誰もこちらを気にかけていないことを確認して、ホッと胸を撫で下ろす。
 優乃は少し驚いた様子で目を瞬いていたが、
「……ローザさん」
 またも詰め寄り、ローザの手を取って握り締めた。
「私が昼間あんなことを言ったばかりに、貴女を危険なことに巻き込んでしまって……」
「こ、これっくらい、たいしたことないわよ」
 戸惑い、しどろもどろになりながらも笑って言うと、優乃はゆっくりと首を横に振り、強い意志を秘めた口調で言った。
「お願いです。ローザさんはこの事件から手を引いて下さい。勝手だと思われるでしょうが……これは、私達の問題なんです」
「私達の? それってどういうこと?」
 ローザは面喰らった。自分の身を心配してくれているのはわかるが、それが何故『私達の問題』とやらに結びつくのか。
 ローザは返答を待った。が、返ってはこなかった。
 美しい瞳に哀しげな色をたたえ、思いを振り切るようにローザに背を向けると、優乃は駆け足で馬車に乗り込んだ。
「あっ……ちょっと、ユーノ!? 待ってよ、さっぱり話がわからないわ!」
 慌てて呼び止めるが、彼女は振り返らない。
「トーマス、お願い」
「はっ」
 主の意に従い、御者がムチを振り上げる。夜の街角に鋭い音が響き、馬車は、去った。
 静寂と共に、風が戻った。
 茫然と馬車が消えた闇を見つめていたローザは、急激な冷え込みを感じてブルッと肩を震わせ、ふと先程までの熱が嘘のようにおさまっていることに気がついた。
 全身の汗がひき、意識がシャンとしている。視界は安定し、聴覚も正常だ。記憶を探るうち、それが優乃の口づけを受けた後からだということに思い当たったのだが。
「まさか……ね」
 今も胸の奥に残る甘い疼きに、自分が本当に体調を崩していたのか、それとも只の錯覚だったのか、ローザはよくわからなくなってしまった。


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