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移転しました(2014/1/1)

繋がってます

2011-09-09 | ヒストリ:近代MTS

コピーしてほったらかしであったのでいい加減に目を通そうと。
 
 桐野利秋と肝付兼武

肝付兼武は明治初期の北海道開拓史では外せない人。で、この方の長男が肝付兼行。
桐野と肝付、婚戚だそうで。

マジか。
 
久しぶりにびっくりした。そうなんだ。
てゆーかこの論文2010年?去年の?(出版年メモし忘れた)。ものすごい今更でスイマセン。笑。
でもびっくりしたんだよ!
 
肝付兼行といやーおめーあれだ!海軍水路部だ!
どちらかと言うと私は初代水路部長の柳楢悦の方が思い浮かぶんですが、肝付も水路部草創期の重要人物になります。
というか測量関係の重要人物でいいのか。
驚いたのが、この論文の中に
 
「明治四年の兼行の海軍省(兵部省)入省は桐野の心配の結果であり、六年秋までの約二年は桐野に就いていた」
 
はー…そうですか。
桐野のお陰で海軍に入ったんですか。
明治4年だとまだ兵部省です。陸海軍に別れるのは明治5年2月28日。
 
しかし水路部かー完全ノーマークですわ^^ゞ 
何も資料ない。
何かないかと部屋にある軍事関係の事典や制度資料を見てみたんですが、ノーマークなだけに完全にコピー取る際にすっ飛ばしてる。笑。…orz
軍事史学の人物文献集を見ていたら、海保から出ている『日本水路史』に記述があるらしいのでそちらに当たってみます。
 
ちなみに初代水路部長の柳楢悦は嘉納治五郎とこれまた婚戚関係になります。
嘉納の次姉が柳に嫁いでいる。そして柳宗悦はこの子どもになる。
嘉納は広瀬武夫との関係で触れた際に見てきましたが、非常に海軍とゆかりが深い人物です。
嘉納の長姉も南郷茂光(海軍主計官)に嫁いでおり、この長男南郷次郎が嘉納亡き後の講道館長。2代目。
 
南郷次郎も少将まで上り詰めた海軍軍人ですが、この方も広瀬とは仲が良かった。
南郷の方が9歳下なのですが、広瀬は弟のように南郷を可愛がっていた。
南郷も広瀬に横須賀鎮守府の見学を頼んだりしてます(海兵受験以前)。

広瀬の師・山縣小太郎とのラインで広瀬と桐野が繋がっていたのには非常に驚きましたが、こういう繋がりもあるんですね。
本当にびっくりする。
 
ついでですので。
山縣小太郎は岡藩出身(豊後竹田)の勤王家です。
幕末の相当早い段階(桜田門外の変とかあの辺り)で藩を出て、あちこちを転々とした後、鷲尾隆聚侍従の勤王の募兵に応じている。
恐らくこのラインから田中光顕、香川敬三といった人物と親しくなり、そこから中岡慎太郎の陸援隊に参加。
戊辰戦争では会津戦争に参加し、鶴ヶ城陥落後の降伏式に中村半次郎らと官軍代表として出席
中村半次郎らと官軍代表として出席。(大切な事なので2回言いました)
松平容保父子を妙国寺に護送した人物。
 
この山縣さんが広瀬の父の友人だったんですな。
明治前半、広瀬家の人間が上京した際は宿を取らずに山縣家に泊っていた。
維新後は権知事等歴任した後、海軍に出仕。
で、丁度この頃に広瀬勝比古、武夫兄弟が山縣家に下宿し、海兵に入学できるよう勉強する訳です。
西南戦争時、野村忍介が攻め立てた豊後竹田は山に囲まれた地域です。
それなのになぜこの兄弟が海軍に向かったのか不思議であったのですが、恐らくこの山縣の影響が強いのではないかと私は思っています。

この山縣さん、結構な酒豪で毎晩いい気分になっては古い歌を歌い、書生たちから
「またあの歌ってるよー(うえー)」
だったそうですが(笑)、そんな時に幕末維新期の話なんかも聞いたんじゃないかなあ。
そうだったらいいなあというのが私の妄想。
広瀬も中岡慎太郎とか中村半次郎(桐野利秋)の話を聞いたんじゃないだろうか。
 
で、話戻って論文の事ですが、桐野の奥さんの話が載っていた…
弘化3(1846)年生まれ、天保11(1840)年生まれ、どっち?と言う話。
(※×弘化3→○弘化元 の間違いだそうです)
私、読売新聞で久子さんが亡くなった時の記事を偶然確認したんですが、これを見ると亡くなったのが大正9年8月19日。82歳。
大正9年の82年前って、1920-82=1838年。
天保9年。
…桐野と同い年になるんですが……(笑)
いや、でも戦前は数え年?だったらマイナス80歳で1940年生でいいの?
それなら天保11年でいけるんじゃ。
いや、でもどうなるの。よく分からない。
 
全然関係ない話ですが、ドラえもんのスネオの前の声優さん、肝付兼太さん。
この方って肝付所縁の人ですか。
十何年前から(笑)、ずっと子孫か関係者かなーと思い続けて…調べた事はナイ ^^ゞ



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4 Comments

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Unknown (ジゴロウ)
2011-09-10 09:22:53
肝付兼太は、鹿児島市の生まれで、スネ夫の声で(当たり前)『僕は戦国大名の子孫なんだ』っていってました。

大名としての嫡流は滅ぼされましたが、小松帯刀の実家などと同じ、庶流らしいです。

戦国期には、島津と互角の勢力だったのに、結構あっさりやられたりしてます。

小松帯刀もあんな声だったら、ちょっと嫌ですな…
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>ジゴロウさん (ヒジハラ)
2011-09-10 20:06:57
姓から鹿児島だろうとは思っていましたが、やっぱりそうでしたか。
戦国大名とは随分古い家のご出身なんですね。
小松帯刀も元は肝付姓ですので、その繋がりでしょうか。
何にせよすごい話です…^^
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兼行と兼太 (キモツキ)
2012-12-01 08:58:17
肝付兼太氏は、島津の重臣・喜入肝付本家の末裔だそうです(戦国期には既に島津の家老だったので、戦国大名の子孫というのはちょっと違いますね)。小松帯刀も喜入肝付本家の4男です。ちなみにうちも喜入肝付家の分家ですが、身近な親戚に兼太氏の声に似ている人は残念ながらいません。
兼武-兼行の家系がいつ肝付本家から分かれたのか情報がありませんが、戦国大名・大隅肝付本家から分かれたものか、喜入肝付家が成立する以前に分かれたものと思われます。
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>キモツキさん (ヒジハラ)
2012-12-01 22:24:54
はじめまして。
詳細をコメント頂きましてありがとうございます。

声優の肝付さんは親類に小松帯刀がいるということになるのですか。
酒造メーカー大関の会長さんも小松の玄孫だそうで(それに関連して大関は「小松帯刀」という焼酎を販売しています)、知った時は自分の地元にある企業と人物との意外な繋がりに驚きましたが、今回のお話もそうなんだ!と。
歴史がある家は本当に広がりがあり、色んな所に繋がっていくものですね…
兼武兼行についてもそうですが、それぞれの家にそれぞれの歴史があるものだと改めて感心しました。
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