今週の平清盛アワー。戦後処理の話でした。
●藤原頼長
戦に敗れ逃亡の際中で頸部に矢が突き刺さっていました。
保元物語や愚管抄だと顎か頬だったそうで、明らかではないものの矢にて重傷を負ったと言うのは確からしい。
頼長にとって不幸だったのはこれが致命傷でなく、矢傷だけでは死に切れなかった事かもしれません。
父を頼ろうとするも拒絶され、そのまま亡くなっている。
この戦に参加した大物クラスで戦で亡くなったのは頼長ただひとりとなります。
父忠実は当時宇治から奈良に逃れていましたが、上記の如く頼長との対面を拒絶した。
天皇に盾突いた謀反人をかくまう事になるので、家の存続に関わるというそのままの理由だと思われます。
まあまだ理由があるようなんですが、ただこれは人情としては苦しい選択だったのではないかなとは思いますねえ。
以前、忠実は白河院の勘気を蒙ったと書いたことがあります。
あとを忠通に任せ宇治で逼塞していたのですがその時の楽しみというか、生きる糧というか、それが頼長の成長だった。
この頼長にやがて氏の長者を譲りたいというのが忠通との大きな対立点でした。
忠実とっても辛い選択だったでしょうね…
●崇徳上皇
仁和寺の弟の覚性法親王を頼るもこちらも拒否され。うーん。ここまで来ると気の毒の一言です…
処罰は配流という事ですが、当時としてはかなり衝撃的であったようです。
もう前例が奈良時代(の道鏡の時代)にまで遡らないとないんですよ。
出家もしてるし、そこまできつい処罰が必要か?という感じだったんじゃないかなー…と思います。
美福門院にくぎを刺されていましたが、後白河天皇は当時一時繋ぎ的な感じなんです。
何回か前に書きましたが、今様にうつつを抜かしまくって遊びまわっており周囲からは「今様狂い」として見られ、皇位からは遠い所にいたため勿論帝王学など学んでいない。
この人は天皇に相応しいの?という…つまり天皇の権威にかけている。
もし皇位を譲る予定であった後白河の息子守仁親王が亡くなってしまえば、次の最有力者は崇徳の息子重仁になる。
そうなれば崇徳は院政を敷くことだって可能になるわけで。
都にいてもらったら困るっちゅう話だったんじゃないでしょうかね。
ちなみに仁和寺の覚性法親王ですが、後年平経盛の子経正を稚児として預っています。
ハイ。深く突っ込まないでください^^;
以前経盛の親子は音楽一家のイメージがという事を書きましたが、経正は琵琶の名手として知られていた。
それで仁和寺に伝わる名器「青山」を譲られています。ちなみにこのセットになるのが「玄象」と「獅子丸」。
平氏の都落ちの際にこの琵琶が失われる事を恐れ、経正が仁和寺に返しに来たという話が伝わってます。
●長田忠致
源義朝の乳母子鎌田正清の舅。
3年後に起こる平治の乱で敗れた際、義朝は東国に落ちのびようとするのですがその際長田忠致の館に身を寄せた。
そこで風呂を使っている間に騙し打ちといった形で殺害されます。
先週からの登場ですが、これからこの人ちょこちょこ出てくるのかな…
●友切→髭切 名前チェンジ
なんかもーいちいち書くの馬鹿らしくめんどくさくなってきたわ…(笑)
サイトへリンク貼りますので、興味がある方は「髭切と膝丸〜源氏の宝刀」からどうぞ。
●戦後の恩賞
清盛が安芸守から播磨守に。(随分前に内昇殿が許されている。正四位下)
清盛は忠正叔父に播磨守の実入りのよさばかりを説いていましたが、実際にはそれよりももう少し意味のある官位だったようです。
結論から書くと、この当時の播磨守就任は公卿昇進目前、という意味だったらしい。
播磨守と伊予守は四位上臈が任ぜられる受領の最高格で、当時この両方の守に任じられた者の多くが公卿に昇進しているそうです。
更に当時は正四位上は原則として飛ばされていたようですし(公卿=三位以上)。
忠盛叔父が驚いたのは実入りの良さよりこっちだろ、と突っ込まずにはおれない…^^;
一方の義朝は右馬頭に、内昇殿を許される。(従五位下。ギリギリ貴族)
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今日は一日gyaoの怪談話を聞きながら平泉の史跡ページを作ってました。
全然進まない…疲れた…orz
いやーでも書いてしまったからには早くやろうと思って、手はつけ始めました。一番初めのページなんか作ったの去年の9月だよ!(笑)
間開きすぎ!(笑)
最後に訪れたのが既に4年前ですので、結構景観が変わった所もあるのだろうなーと。
一番変わったのは衣川の様子、高館の様子かなと。
またいずれ清盛のレビューで書くつもりでいますが、院近臣の信頼は藤原基成の弟になります。
藤原基成って誰か分かります?^^;
娘が奥州藤原氏の3代目御館秀衡に嫁しており、泰衡をもうけている。
泰衡から見ると信頼は大叔父になる。
あっちこっちに太い繋がりがありますなあ。
■サイト更新 FRWL 「広瀬武夫と森山慶三郎(+α)」
サイト更新です。まともな話は久しぶりじゃない?^^;
去年の1月に書いていたものなので、程よく御忘れの方も多いかと思われます。
既にUPしている「君はともだち」(財部彪、竹下勇)、「Another Side」(川島令次郎、佐藤鉄太郎)と一緒に更新する積りだったのですが、その時に正真正銘のおまけ(ひどい)安保清種の話をどうしようかと思って早1年。
結局省く事も別項を作ることもせずそのまま載せました。
ページ自体は半年以上前からできていたのでこんなことならもっと早くに更新しときゃよかった。
御時間がありましたらどうぞ遊びに来て下さい。
森山慶三郎はサイトで触るのは「連合艦隊司令長官着任の一幕」以来かな?
秋山真之と海軍兵学校では同期の人物ですが毒舌というか、皮肉屋というか、そういう印象の強い人です。
個人的には笑ってしまう事が多くて結構好き。
小笠原長生についてはサイトやブログでもよく触れてきました。
全集が出るほど著作・著述が多く、中でも東郷平八郎の伝記がよく知られますが、生前から元帥の腰巾着とか私設秘書等と言われてとよく揶揄されていた。
昭和の行きすぎた東郷崇拝の空気を作りだしたのが小笠原になります。
昭和10年、将星が集まる日露戦争回顧の対談会で、事もあろうにその小笠原に向かって森山はこう言った。
小笠原君は、戦争前、東郷さんをどう思つた?
無能とは思わなかつたか(笑声)
はいこれ原文のまま。これを読んだ時は大爆笑でした。
『井上成美』だったか、阿川弘之さんの小説に、
東郷ハガネをもじって海軍では東郷バカネというのだよ、とか、
東郷元帥の若い頃の事績を調べさせてどうも特に見るべき点がないと言う事を若い海軍さんに教えたりとか、
そういう記述がありましたが、海軍では人物を神格化したり崇拝したり、そういう事が一種タブー視される風潮があったようです。
広瀬も神社創建の時はそうなんですよね…
財部彪をはじめとする同期の連中が広瀬を神様にして神社を創ることについてはずっと反対していて、何度か出てきた神社創建の話もその都度潰していた。
神社創建はこの森山の談話と同じ年の話になりますが、この森山の小笠原に対する言葉を見ていると東郷元帥を持ち上げまくっていた小笠原に対する痛烈な当てこすりだと思えるというか、笑っているのに随分冷やかな視線を感じると言うか…
他の人がどう小笠原の行為を見ていたかを代弁しているような気がするんですよねえ。
そんなに知っている人でもないんですが、色んな思いが浮かぶ人ではありますな。
今回更新ページで出した森山の写真は恐らく日露戦争出征直前だと思われます。
陸軍の田中義一に贈られた写真で、出征待ちくたびれた…って書いてある。
田中義一のロシア駐在時期は広瀬のそれと大体重なります。
一緒にダンスを習ったなんて話も残っているのですが、広瀬から田中に宛てた絵葉書も1通残っている。

これなんだけどね、私のアリアズナのイメージはこの女性だったわ…
少なくともこちらではなかった^^;

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旅行前に見つけた小村寿太郎関係のニュース2件。
小村寿太郎外相時の官邸図発見 

宮崎県日南市出身の外交官、小村寿太郎(1855〜1911年)が外相を務めていた頃の外相官邸の見取り図が、同市の小村記念館で見つかった。
小村の次男で官邸に同居していた捷治氏(1895〜1972年)が描いたとみられ、外務省外交史料館(東京)は
「外相官邸の図や写真はほとんど残っておらず、当時の暮らしぶりを知る上で貴重な資料」
としている。
見取り図は縦21・8センチ、横31センチの和紙に寝室や書斎などがあった2階部分の間取りなどが手書きされている。
小村記念館の長友禎治学芸員が、同館が所蔵する捷治氏の遺品を整理していたところ、昨年4月に見つけた。
図の右横に「当時の外相官邸二階略図」と記され、「脚本演出等の場合に、参考の一端にもと、父の書斎だけは家具の配置まで示す」とする説明書きがあった。
劇団「新国劇」が1940年2〜3月、東京・有楽座で「小村寿太郎」の劇を上演した際、舞台に官邸内部が再現されており、長友学芸員は「劇団から頼まれた捷治氏が記憶を頼りに40年頃に記した」とみている。
見取り図には、「薄暗き裏廊下」との記述もあり、日露戦争後の1905年、小村がロシアと締結したポーツマス条約の内容に不満を抱いた民衆が起こした日比谷焼き打ち事件の際、「家族全員がイスを持ち寄ってあつまった」と捷治氏が手記につづった「裏廊下」とみられる。
また、書斎については、小村の書生だった桝本卯平氏(1873〜1931年)が著書で「先生には食卓兼用であった」と記しているテーブルなど家具の配置も細かく描かれている。
ポーツマス条約締結後の小村は体調を崩しがちで、医師の助言で執務中に仮眠を取ることがあったとされており、長友学芸員は
「見取り図のソファは小村が睡眠を取るベッドのようなものだったのではないか。小村にとって官邸は唯一気の休まる場所であったことがうかがえる」
と話している。
外交史料館は
「外相官邸の視覚的な資料はほとんどなく、歴代の外相が過ごした空間を今に伝える貴重な資料」
と注目している。
(木崎俊勝)(ソース:読売新聞 2012年5月25日)
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そしてこのニュースの下の方にリンクが張ってあった。2件目。
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小村寿太郎借金救済の手紙見つかる


日露戦争の講和条約に調印した外交官として知られる小村寿太郎(1855〜1911年)が父親の事業の失敗で多額の借金を抱え、外交官への道を閉ざされかけた時、当時上司だった外相・青木周蔵(1844〜1914年)らが救済に尽力したことを示す手紙が見つかった。
小村の出身地・宮崎県日南市の旧飫肥藩主・伊東家に用立てを要請する内容。
青木の奔走により歴史に名を刻む外交官が生まれた経緯の一端がわかった。
小村を巡っては、語学の才能に秀で、32歳の若さで外務省の翻訳局長に抜てきされたが、借金問題で外交の表舞台に立つことを不安視する声があったとされる。
外務省が編集した「小村外交史」(1953年発行)によると、青木が「(借金の)救助の道を立ててやろう」と持ちかけたが、小村が固辞し、別の親しい友人が救ったとされていた。
今回見つかったのは、飫肥城歴史資料館(日南市)に所蔵されていた2通。
解読にあたった長友禎治学芸員によると、1通(長さ226センチ、幅16・5センチ)は、東京にいた伊東家の秘書が1890年(明治23年)10月29日付で本家にあてて青木の言葉を伝えたもので、青木が
「小村の外交文書の翻訳は外務省随一。国のためにご尽力を」
「救済の方法を相談したい」
と語ったことなど、小村の救済を伊東家に依頼する内容がつづられていた。
もう1通(長さ73センチ、幅17・5センチ)は青木本人が翌91年5月25日付で伊東家の秘書にあて、
「(小村の)債務処理のため、2500円を為替券で送っていただきました」
「早速、その対応に使用しますので、その様にご了承ください」
との趣旨を記し、借金を肩代わりした伊東家への感謝を伝えていた。
当時の2500円は現在の金額に換算すると2000万円以上という。
借金問題を解決した小村は1893年、清国弁理公使として外交官の道を歩み始め、駐米、駐露公使などを経て、1901年に外相に就任。
日露戦争を終結させるポーツマス条約の締結では全権を任され、その後、欧米との不平等条約の改正にも力を尽くした。
日露関係史に詳しい名城大の稲葉千晴教授(国際政治史)は
「当時の日本は外国人と対等に渡り合える語学力と交渉能力を兼ね備えた人材が乏しかった。青木と伊東家が『国のため』という共通認識の下、類いまれな小村の外交力を生かそうとしたことを示す貴重な資料」
としている。
(木崎俊勝) (ソース:読売新聞 2011年12月18日)
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官舎はどの省に限らず外側からの写真はあっても内部の資料というのは殆どないだろうなあ…
首相官邸くらいじゃない?
捷治氏は上にあるように小村寿太郎の次男になります。長男欣一氏が亡くなった後男爵家を継いでいる。
小村寿太郎は宮崎飫肥の出身で、小倉処平に見出され東京に留学することになります。
年齢は秋山好古より4つほど年上。
文部省の第1回留学生としてアメリカに留学し帰国後は司法省、その後は外務省に出仕している。
小倉処平は「飫肥の西郷」と言われた人で、西南戦争の時には西郷軍方で飫肥隊を率いていた。
薩軍最後の組織戦となった和田越の戦いで負傷し、可愛岳突囲の際に付いていこうとするも追いつけず長井村で自刃しています。
西南戦争は小村が留学している最中に起こっていて、その際もしアメリカにいなかったら
「俺も西郷軍に加わって西南戦争で死んでいたよ」
と捷治氏に語っていたそうな。
小村が米国から帰り官途についた頃に父親の飫肥商社が倒産し、その莫大な借財を小村が負う事になった。
官吏としての給与、めぼしい家財道具等は殆どアイス(高利貸し)に持って行かれていたそうです。
あまりの催促の激しさに出省もできない事もあり、勿論家にも帰れず友人の家を転々として行方不明になった時もあったとか。
うーん…ここまで来るとすごいものが…
小村を良く思わない上司の間ではあいつをクビにしろなんて話もよく出ており、上記記事の「外交官の道を閉ざされかけた」というのはこの頃の話かと思います。
前者の記事の日比谷焼き打ち事件に関して何か捷治氏が書き残していないかと思って回顧録を読んでいたんですが、特には記載がないなあ…
ポーツマス条約を締結して帰って来た時の話くらいで。
小村と言えば個人的にはハリマン事件です。
もしあの時に小村がハリマンの構想をブチ壊さなかったら、もう少し違う方向に日米関係は進んだのじゃないかなーとは思う…
日露戦争後、日米関係はカリフォルニア州の移民問題(排日運動問題)を初めとして次第に悪化して行きます。
ちなみに移民問題を主要問題のひとつとして取り組んでいたのが第一次山本権兵衛内閣になる。
日本は日露戦争が終わった当初からアメリカなしでは経済的には成り立たない状態なってたんですよ…
あまり言われる事がないけど。
日本にとってアメリカは同盟を組んでいたイギリス以上に大事な国だったと思われます。
それなのにアメリカの神経を逆なでし続ける参謀本部この野郎。
昭和史を見ると「親独路線か対米英協調か」という言葉を良く見るようになりますが、この対米英協調という言葉は明治末、大正期からずっと言われ続けて来た言葉です。
伊藤博文、井上馨、桂太郎といったハリマン構想に賛同した当時の日本のトップリーダーたちと、反対した小村寿太郎と、どっちが正しかったかなんて話は難しいですし分からない。
つまる所、歴史において「イフ」は論じても意味がないという話なんですが。
意味はないけれども、この時に満州にアメリカを巻きこんでおけばもう少し違う形でその後の我が国の歴史も推移したのではないかな、とは思いますな。
ただハリマン構想を受け入れても結局米英に美味い汁を吸われて終わったんじゃないかなーという気はするのだけど…
1945年にアメリカに戦争で負けたと言う事実を知っているから、「ここでもう少しなんとかなっていれば」と思う事もあるのだろうし。
まあ、教科書的にはあまり触れられる事はないけれど、近代史の大きな岐路のひとつだったのではないかと思う部分ではあります。
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陸軍中野学校の創設期判明

旧日本陸軍で情報工作員の養成機関だった「陸軍中野学校」について、太平洋戦争前の同校創設期の全容が、当時の公文書を分析した山本武利早稲田大名誉教授(情報史)の研究で明らかになった。
山本名誉教授は26日、都内で研究結果を発表する。
名称を「防諜研究所」から中野学校へ変えた過程や創設期の活動内容が公文書で裏付けられたのは初めてという。
山本名誉教授が分析した陸軍公文書は、同校の前身組織創設に関わった陸軍後方勤務要員養成所長の秋草俊大佐(当時)が1939年、板垣征四郎陸軍大臣へ宛てた公文書など数十点の資料。防衛省防衛研究所に所蔵されていた。
公文書によると、前身組織の防諜研究所が38年、陸軍省兵務局の下に東京・九段の愛国婦人会本部付属建物(現九段会館)を借り、活動を開始。
39年に東京・中野へ校舎を移転した直後、「後方勤務要員養成所」に名称を変え、40年に陸軍中野学校へ改編された。
このうち、秋草大佐が39年8月、陸軍大臣に宛てた文書では、教育目的を「諜報謀略的人格の修練」と明記。
防諜、諜報、宣伝、謀略の業務を遂行するのに必要な人格の鍛錬や基礎的学術の習得をさせたとしている。
満州(中国東北部)への実習旅行も実施し、卒業後の活動に備えたといった内容も記載されている。
ただ、1期生(38年7月〜39年7月)の学生19人(1人は中退)は教育施設が不備だったため、「講堂教育」(講義)が中心だったとしている。
中野の庁舎が完成するまでの間、学生は一時期民家を借り、生活したことも書かれている。
(ソース:時事ドットコム 2012/5/26)
中野学校についてはほとんど知りません…
アレでしょ?明石元二郎の活動がモデルとされてたとか、そういうの。
私の知識はその程度ですorz
とりあえず興味がある人もいるかと思いまして。

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始まりました。長かった!
場所は大体こんな感じです。
…………。ははh…
鴨川を挟んでの対峙になります。
後白河天皇側が高松殿。すぐ北側に藤原氏の正邸東三条院が隣接。
崇徳上皇側が白河北殿。平安神宮をもう少し西に行った所になります。琵琶湖疏水の周辺。
高松殿から白河北殿まで歩いてもそんなに時間かからない。
かかっても30〜40分くらいじゃないかなあ。
上の緑が源義康100騎、青が源義朝200騎、藤色が平清盛300騎。
ドラマでは義康100騎が省かれて500騎と言われていた…(^^;
先生!義康くんが息してません!(笑)
●夜襲
両陣営で夜襲をかける是非が論ぜられる。
夜襲を主張する義朝と為朝、それに対する藤原信西と藤原頼長の対比が鮮やかでした。
夜討ちは卑怯でも何でもない立派な戦法のひとつという事を去年後三年役の話を進めていた時に書いたのですが、全体的に言える話ではなかったようです。
でも頼長が「夜討ち卑怯!夜討ち反対!」と主張して為朝の主張を退ける話は有名で、これは公家ならではの感覚からかと思っていたんですけど。
うーん?と思ってちょっと調べたのですが、どうも東国、西国、当時の感覚から言うと辺境とされていた所でなら、という感じみたいで。
それなら、後三年はもろ東国。義朝も東国、為朝は西国…
もう少し詰めて調べてみないと、一概にこう、とはいえないような感じがしますなあ。
頼長が大和からの軍勢を待てと言っていましたが、あれは奈良の興福寺の僧兵のことです。
加勢しようとしたものの間に合わなかった。(興福寺は藤原氏の氏寺)
●信西と頼長
実は仲がよかったふたり。ひと回り程年の差はあるのだけれども。
頼長の学問の師は信西です。以前書いたように信西は学問の家に生まれた人物になる。
信西の家を巡る変転を巡りその不遇に共に涙を流したのは頼長です。
頼長は来週亡くなるのかな?
死後は奈良の辺りに葬られますが、その墓も信西によって暴かれている。この浮き沈みの激しさよ…
孫子の夜襲に対する解釈の仕方が真逆で面白かったですな。
政治家としての脇の甘さが目立つ頼長と、段々凄味が増していく信西。
後白河サイドではイニシアティブが完全に関白藤原忠通から信西に移ってもいました。
頼長と信西の対比、摂関家と院の近臣の関係と色々なドラマが詰め込まれてますなー。
頼長は頼長で今回は公家の脆さが出てましたな。オウムがいい味出してるよ…
信西は腹黒くなってきたなー^^;
義朝に「破格の恩賞を与えよう」って、これは平治の乱への引きですね、きっと。
●藤原信頼
3年後に起こる平治の乱の主要人物のひとりで、院の近臣。寵臣。
年齢を見ればこの時まだ23・4才。
確か数週間前の初登場の時に「後白河が一目で気に入った」という紹介がされていたかと思います。
はい…私この塚地信頼を見た時ものすっごい笑ってしまいました…
あのね、寵臣なんです。一目で気に入った寵愛されている臣下なんです。
要するに男色関係なんですよ!(笑)まあ色白ぽっちゃり系ではあったみたいなんですけど。
もしかして後白河てデブせ(自粛
●鎮西八郎為朝
何かと伝説の多い鎮西八郎。
背が2m強あっただとか、左右の手の長さが10センチだか12センチだか違ったとか。
剛の者だったと言う事は確からしいけれども、あまり良く分からないらしい。
あまりに乱暴でお前ちょっと九州に行って来いと言われ出向いた先でも暴れまわって終いには為義とーちゃんがその乱行の責任を取れという事で解官される始末。マジか。笑。
崇徳院側の一の兵(つわもの)であったのは確かでしょうねえ。
初めは平氏が相手をするもどうにもならず、後に駆け付けた義朝勢、義朝の乳母子鎌田正清辺りが随分奮戦したようです。
●源頼政
義朝勢が為朝にてこずっている間に到着した第2陣が源頼政。
こうした加勢が到着するも中々勝敗を決することができず、ついに後白河側が火を放ったのはドラマでも描かれていた通りです。
頼政は源三位(げんさんみ)ですな。
この方、かなり長生きされた方で以仁王と共に平氏討伐の計画を立て、兵を上げた人物になります。
それまでは源氏は正四位下が極位(最高位)だったのですが、平清盛の口添えで三位に上った。
書きたい事が沢山あるけれどそれはまた後に譲って、とりあえず郎党に渡辺党がいます。
●源氏パート
通清が男を見せて亡くなってしまいました…(;;
由良御前と常盤御前もいい感じじゃないですか。
平氏よりもいい感じに見せてきますな!どちらが主役か分かりません…
こちらの方の一族分裂がより強烈で深刻だからという点もあるかと思いますが、平氏より脇役の方が熱いドラマを魅せてくる。
●大鎧
大興奮です!ギャース!大鎧大好き!
平清盛が黒絲威、忠正叔父が逆沢瀉威(さかおもだかおどし)、清盛の子供は裾濃威(すそごおどし)と中威かな…よく見えん。
義朝は白絲威、為義は裾濃、正清は肩威(わだおどし)、父の通清も色違いの肩威で親子揃ってますな!(※鎧の威のデザインの話です)
めちゃめちゃ燃える一方で、大鎧はねー上下合わせて40キロあるんだよ!
騎射専用、対弓矢用の防具であって、刀で切り結ぶこと(接近戦)は考えられておりません…
当時の主力武器は弓矢です。
刀で切り結ぶような戦が出てきはじめたのは南北朝時代位かららしい。
戦国時代でもさ、徳川家康や今川義元をさして「海道一の弓取り」って言うでしょ?
八幡太郎義家の時代では「弓馬の達者」ですが、弓が上手いというのは武士に対する最大の賛辞です。
●平氏パート
うーん。相変わらずよく分からない清盛…もうちょっと何とかならないか主人公。
忠正に対しては家族大事イエー!な感じなのに、弟に対してのスタンスは一体何なのか…
頼盛が可哀想な感じになってきました。
随分前にも触れましたが、頼盛は清盛とは距離のある弟です。
一門の都落ちの際も同行はせず、鎌倉時代を迎えている。
実母が池禅尼という事で源頼朝は平治の乱の際に彼女に命を助けられたという恩があり、そのまま所領を安堵されていたような記憶があります。
そういう事もあってのあの扱いなのだろうと思うのですが、ちょっと清盛の心の動きについていけません。
唐突過ぎて何が起ったのか良く分からないことが多い^^;
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