
以前書いた神戸市立博物館で開催中の「南蛮美術の光と影」を見に行ってきました。
「平清盛展」は2回見に行きレビュー書かんまま終わったっちゅうに……^^;
でもね、どっちもすっごく楽しみにしてたの!
そしてどっちもとっても見応えがありました!
目的は「泰西王侯騎馬図屏風」です。
左から神聖ローマ皇帝ルドルフ2世、トルコ王、モスクワ大公、タタール汗。
左からイギリスギーズ大公(若しくはカール5世)、フランスアンリ4世、アビシニア王、ペルシャ王。
上の屏風の所蔵は神戸市博です。下の屏風は東京のサントリー美術館が所蔵している。
神戸にある方は何度か見たことがあるのですが、サントリー美の方は見たことがなかったんです。
これをぜひとも見てみたくて。
私は神戸の方が好きだ。躍動感があってダイナミックで。マントひらひらだし(笑)
好きなんですけど、絵が好きというだけで特に調べた事なんかはないんです。
絵柄がちょっと日本絵とはかけ離れた感じですので、ヨーロッパから輸入されたのかと思っていた。
違 う ん で す ね ^^;
会場にエックス線写真等の科学分野からのアプローチも出ていて、それを見ていたら下の方は屏風の下張に手習いと思しき文字がびっしり!
また上下の絵とも絵具が日本古来の胡粉が使われていた。
日本で描かれたものという事で、それがまず驚きました。
そして更に、そうなの!?と思った事があって。この絵、戊辰戦争の時まで会津若松城にあったんだって!
そ、そうか。松平容保、この絵を見て過ごしていたのか…
あ、じゃあ桐野も見たかもしれません。
会場にあった解説には、この絵は会津に入った蒲生氏郷(キリシタンだった)に所縁あるものだと思われていたようですが、実際は保科正之が所蔵していたものではないかと考えられているとのこと。
戊辰戦争までお城にあったものが何故別々に所蔵されているのかという話ですが、サントリー美(下)の方は松平家から個人の所有に移り、そこからサントリー美に来たそうです。
松平家が売却したのかな?明治後は大変そうだったから…
上の神戸市博の方は、前原一誠の手に渡り、そこから昭和7年に池長孟に売却されたそうです。
池長は南蛮美術を精力的に収集した人物で、この人のコレクションが元で神戸市立博ができています。
ここで前原の名前が出てきた事に驚いたのですが、…うーん…前原…ねえ…?
三百藩家臣人名事典を見ると北越征討総督府参謀として会津戦争に加わったようです。
この文字面だけを見ると強奪という言葉が点滅するのですが、私のものすっごい適当な印象からすると、前原はそういう事をしそうには思えないですが、戦争は普段とは違う非常時だからなあ。
調べたらまあ、どういった事情で前原の手に移ったかも出てくるんでしょう。
そして想像通り、
ザビエルも出てたぜ!
ひっさびさやなー^^ これも上の屏風同様殆ど出てきません。
実物を見てみたい方は一度行ってみたらいいと思います。結構大きい絵です。
それに今回を逃したらまた出てくるのは何年か後です、きっと。
このザビエル像、発見されたのは大正9年、大阪茨木市の隠れキリシタンの家から。
高槻はキリシタン大名高山右近所縁の地ですから、それに関連しているんでしょう。
滅茶苦茶保存状態がよくて、本当に上の写真の通りの色…実物はもう少し鮮やかかな?
発見された当時は箱に納められていた。
驚くなかれこの絵、収められた時から発見された時まで一度もその箱は開けられる事はなかった。
その為保存状態超絶に良し。
「開かずの箱」と呼ばれた木箱に納められ、「開けたら目が潰れる」と言い伝えられてきた。
開けたら目が潰れるけど、
「この開かずの箱を持っている限りこの家には幸福が訪れる」
発見時は巻物だったそうですが、その後現在の形、額装に直された。
本当に弾圧の時代があったと思えないくらいとても保存状態のいいものが出てきています。
聖母像とか…
旧福井藩の藩医の家が持っていたというものがかなり出ていました。
土蔵の壁の中から竹筒に入った状態ででてきた、とか…だから綺麗に残ってるんでしょうね。
キリスト教関係では弾圧関係の資料として踏み絵なんかも出て来ていた。
長崎の大殉教(元和の大殉教)の絵とか。
見ていて島原城(島原の乱/天草四郎)を思い出しました…城内にキリシタン弾圧の史料がわんさとあったのですが……TT
こ、怖くて(涙
弾圧が云々というより、あの城内のあの一種異様な雰囲気がすごく怖くて本当に早々に退城した;;
ま、まあ結構色んな物が出ていました。
中々見る機会がないものが出ていますので、興味がある方は行ってみたらいいかも!


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朝窓を全開していたら、ぴゃーっと部屋に入ってきた大物が…
クーラーの上
ビーズさんとアラゴルンの側
クーラーに掴まりーの

ぎゃあああああ!その本は汚さないで!お願い!
ほっといたら出て行くかと思いきや出口が分からなかったようで、私が見ても分かる程パニクってた。
ピーピー鳴きながら震えてる!^^A
子供の雀だったみたいで、流石にかわいそうになった…
結局ビニールで逃げまどうところを捕まえて、窓の外に出してやりました。
向こうもびっくりしただろうけど、私もびっくりした。
こんなん初めてですわ…
小河一敏という人物がいます。小河と書いて「おごう」と読む。
幕末に活躍した岡藩士で、生まれは文化10(1813)年。
子供の頃から才覚を認められるような人物であったようで、24才という若さで会計元締役という藩の要路に大抜擢され、藩政改革に参加しています。
しかしながら天保11(1840)年に藩主が急死すると、抜擢してくれた上司と一緒に失脚してしまう。
そこから雌伏の時代になる訳ですが、この時に小河は天下国家の形勢に目を向けるようにり、交流が藩外へと広がっていきます。
恐らく一番影響があった付き合いが中山家の諸大夫であった田中河内介ではないかと。
田中河内介は過激な勤王家のひとりでした。
中山家、当時の当主は明治天皇の祖父、中山忠能。
明治天皇は幼少時は中山邸で養育されており、その教育係のひとりが田中だった。
田中は文久2年春に起きた寺田屋騒動に深く関与した人物としてよく名前を知られています。
寺田屋騒動の後、薩摩藩が薩摩に護送するということになったのですが、生かしておいても都合が悪いという事でそのまま帰る船の上で殺害され海に捨てられた。遺体は小豆島に漂着し、その関連で色々と怪談が残っている。
維新なって後、明治天皇が薩摩、長州といった嘗ての志士たちを前に、
「寺田屋騒動以後田中河内介の消息を聞かない。彼はどうなったのか」
と尋ねた事があります。
うーん。これはね、答えられなかったんですよね。その場にいた人。
殺された事もその理由も最期も知っているし、何よりも当事者の薩摩人がいたから。
その時にこれこれこういう理由で殺害したのがここにいる大久保利通でござる、と返答したのが小河一敏ということになっている。
小河は自分を抜擢した上司が尊王の志の篤い人であったこと、また小河自身が神道の研究をしていた事もあったためか、逼塞している時代に皇室の衰退について思いを致す所が深かったようです。
そういう事もあったのか、毎月若い藩士を相手に尊王の必要性を説くような講義を開いていたといいます。
どういうツテがあったのか詳細は知りませんが、田中河内介との交流はそういう所から出て来たのではないか。
多分、ここまでは尊王だと思うんです。
それが勤王に変わったのが嘉永5年のペリー来航以降じゃないかな、と。
多くの志士たちと同様に対外交渉の拙さと朝廷の意に反する事ばかりする幕府を見て、これではだめだと。
それに小河は陽明学の徒でして、これは結構大きかったのではないかと思います。
陽明学は大塩平八郎で有名な学問ですが、知行合一を大事にする。
要するに行動しろというやつですな。
ちなみに尊王と勤王では意味が違ってきます。
尊王は当時知識人層でそうでなかった人は少ないのではないかと思います。
皇室を尊ぶ、という思想。思い。
勤王はその為に何か行動する。行動を伴っている。
尊王という大きな括りの中に、勤王があるというイメージでしょうか。
厳密に言うと尊皇じゃないかという気がしますが、その辺りは他に任せます。
その後、小河は尊王だか勤王を説くために九州を遊説し交流を広げ、その行動に危機を感じた藩より罪に問われて投獄され、のち赦免。
その後さらに問罪、投獄、赦免されている。
この2度目の赦免が文久元(1861)年なのですが、この年から幕末史の中では薩摩の動きが目立つようになってきます。
薩摩の藩主の父、久光が東上すると言いだした。
前藩主島津斉彬の意を継いで公武合体の推進と幕政改革を行うために江戸に行きたい。
この意図が尊王・勤王の志士たちに誤って理解されてしまいます。
薩摩率兵上京という情報を得て奮い立ったのが平野国臣、真木和泉、清河八郎らになります。
この薩摩の東上に乗じて兵を上げ、幕府を倒して天皇中心の国体に作り変えてしまおう。これはその機である!
……あれ?話が逆に…
犬って言ったのに猫って伝わってる!(笑)
薩摩立つよ、だから俺達も一緒に!とこの方々、九州を遊説し同士を糾合していった。
その中のひとつが岡藩で、真木の弟外記と清河が小河を尋ねて来ています。
彼らと義挙について打ち合わせをし、その後は小河自身も広瀬友之允と二手に別れて福岡、熊本の同士を歴訪している。
広瀬はその後竹田に帰ったようですが、小河は文久2年2月には薩摩に迄行ってますなあ…
宮部鼎蔵や田中河内介らと入薩し、有馬新七、田中謙助、村田新八と面談している。
薩摩の方では、藩主父子の東上実施に際して西郷隆盛が大島から呼び返されています。
この西郷が東上の先発として村田新八と下関に到着したのが文久2(1862)年の3月13日。
落ち着いた先は商人白石正一郎の邸宅でした。
白石は志士達のパトロン、奇兵隊の出資者として高杉晋作との関係でよく知られる人物です。
白石は熱心な国学者でもあり、西郷との繋がりはこの国学を通じて生じたようですな。
この縁から白石は薩摩藩御用達の商人になっている。
また白石は国学繋がりで真木和泉や平野国臣とも懇意でした。
で、西郷は道々これは随分雲行きが怪しくなっていると感じながら下関に至る訳ですが、当時白石邸には各地から多くの志士が集まっていました。
有名な所では御当地長州の久坂玄瑞、山田亦介、薩摩の義挙を聞きつけて脱藩した土佐の吉村寅太郎。
ちなみに坂本龍馬もこの時に脱藩しています(白石邸に来たけど吉村は既に出発していていなかった)。
白石邸には平野国臣もいた。
そして小河一敏も、岡藩士16名を連れて丁度逗留していた所でした。
小河一敏、この時に平野国臣と共に西郷隆盛と面会しています。
そこで西郷はこのふたりから話を聞き、思いの外切迫している上方の状況を聞いて到着したその日に京都に向かった。
とはいえ小河らはかなりのんびりしていて、薩摩の船で上阪し、土佐堀の薩摩藩邸に入ったのが3月26日。
そこから岡藩士らが何をしていたかというと、代表者小河が他藩の同志らと京都と大阪を往復して義挙に関する談合をしたり。
動けはするのだけど、ただ何か様子がおかしい。
そういう事は感じていた。
それもそのはずで、彼らが放り込まれた薩摩藩邸の28番長屋、実の所は監視しやすいように他藩の人間を含む同志たちが一ヶ所に集められていた長屋だった。
薩摩藩士とは接触するなと言い渡され、その上久光も討幕に向けて動くような雰囲気もない。
どうも思っていたのと様子が違う…
薩摩、長州、真木和泉や平野国臣といった同志たちが集まり、
「これはもう自分たちで動くしかない」
そういう事で至った結論が関白九条尚忠と京都所司代酒井忠義を血祭りに上げて二条城を奪い取ろう!というもの。
これを聞いた久光はびっくり仰天です。
そらそうですよねえ。公武合体やっちゅうに。
しかもこの段階で久光、朝廷から「その方向で頑張って」という許可まで貰っていた。
「浪士を鎮静しろ」という事まで言われているのに、自藩から朝廷と幕府の人間を血祭りにあげるような人間出せないですよ。
だから止めて、とこの時に説得に来たのが大久保一蔵(利通)ですが、結局説得はし切れなかった。
有馬新七らは説得された振りをして、4月23日夜に決行するよ、という事で、大阪の薩摩藩邸を抜け集合場所である寺田屋を目指した。
この時、彼らは二手に分かれて京都に向かっています。
人数が多いので一辺に京都に向かうとばれる。そういう理由。
そして薩摩藩士の同志討ち、寺田屋騒動が起こったのがこの4月23日になります。
この同志討ちが起った際、寺田屋には篠原冬一郎(国幹)、西郷信吾(従道)、大山弥助(巌)なんて人たちがいました。
薩摩藩士の他真木和泉や田中河内介なんかもいた。
有名な事件な上高名な人物が多いだけに、この辺りはちょこちょこ名前付きで事件が紹介される事が多いですがここにあの人たちは出て来ない……
岡藩士どこいった。
笑。
岡藩士たち、寺田屋騒動が起こっていた時は多分移動中だった。
小河らは京都に向かう後発組だったんです。
大阪の薩摩藩邸から京都伏見の寺田屋に到着した時、4月24日早朝、その時には全てが終わっていた。
はい。ここまで!
続く…かどうか…(ここで終わる可能性が非常に高い…^^;)
(※寺田屋騒動の記述は滅茶苦茶端折りまくってます)

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勝海舟設計の砲台、マンション内に保存・公開へ 

幕末に勝海舟が設計して造られた砲台「神奈川台場」の石垣が、横浜市神奈川区星野町のマンション建設現場で見つかり、27日から公開される。
マンションを建設した同区の食品卸売会社「栄光」が昨年6月、建設現場に埋められていた石垣を偶然見つけ、同社会長が「貴重な遺構を大勢の市民に見てほしい」とマンション内に石垣を保存し、資料室を整備した。
石垣は長さ約9・5メートル、高さ約3・2メートル。
真鶴半島などで採れたとみられる1個約700キロ・グラムの重さの石を5段に積み上げて造られていた。
石垣の半分を覆う形で、マンション1階に資料室を整備。残りの石垣は屋外にあり、いつでも見学できる。
横浜開港資料館(横浜市中区)の西川武臣副館長は
「関東大震災や戦災で、横浜には開港当時の建造物や土木遺構はほとんど残っていない。今回見つかった石垣は、国際都市・横浜にとって極めて貴重な史跡」
と話している。
資料室は、喫茶・バーとしても利用でき、神奈川台場の写真などの資料約20点も展示している。
台場で初めて礼砲が撃たれてから150年を迎える27日から一般公開される。入場料は大人のみ100円で、維持費に充てられる。
(ソース:読売新聞 2012/4/26)
***
昨日寝る前に見て、ふーんと。
別にエントリにしなくてもいいかと思ったのですが、昨日は嘉納治五郎のことを書いていたので実にタイムリーだと思いまして。
実は勝海舟が作った砲台、兵庫にもありました。
幾つか現存していて明石の舞子、神戸の和田岬、あと我が西宮。
西宮砲台
これらの砲台を作った時に協力した地元の人間がいまして、それが嘉納治朗作。
嘉納治五郎の父親になる。
はい。嘉納は兵庫県出身なんですね。
兵庫の御影、御影高杉という有名なケーキ屋さんがある所ですが、あそこの造り酒屋の出身でした。
灘五郷という言葉をご存じの方も多いと思いますが、江戸時代中後期にはここの主座を務めたという、まあ一番ええとこの家なんです、嘉納家。
所謂地元の(超)名士というやつですが、ここから菊正宗酒造とか白鶴酒造が出ている。
治朗作は嘉納家に養子に来た方だったのですが、才覚があったみたいですねえ。
家は継がずに廻船問屋を立ち上げ、終いには幕府ご用達になっています。
そういう関係もあってか勝海舟が砲台建造を建策しゴーサインが出た時、和田岬や西宮浜の砲台建設工事を請け負ったのはこの治朗作でした。
勝海舟自身もこの砲台を見に来た事があるそうで、治五郎も幼い頃に海舟に会っている。
講道館の柔道資料館にはかなり大きな海舟の扁額が掛けられているのですが、それはこういう関係もあったからかもしれませんねえ。
しかし石垣が見つかるというのもすごい。

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上の2冊はふらっと寄った古本屋で100円だった…
>奏子さん、教育史来ました。ぼちぼち見始めますね〜^^
私がお気に入りに入れている唯一の歴史ブログがあるのですが、それが偉人ブログ。
昔ここでも紹介した事がありますし、ご存じの方も多いのではないかなー…(有名だと思うので)
私のお薦めは伊能忠敬ブログと紀貫之ブログ、前島密ブログです。
偉人メッセも大好きー(笑)信長さまはラノベ作家になればいいと思うよ。
私、何故かこういうの嫌いでしょ?という感じで言われる事が多いのですが(本当に何故かよくそう思われる)、いやいやこういうの大好きです。笑
「泣き虫弱虫諸葛孔明」が大好きという辺りで察して下さい。早く3巻でないかな。
偉人ブログは3月末に書籍化されまして、その発売イベントで、ツイッターで偉人の子孫探しというのをやっていた。
それを見ながら、いやぁいるもんだな、ツイッターすげえ…!という感じだったのですが、一番最後
山縣有朋の子孫を探すもタイムオーバー
という一言が……!!!うわあああそこが見たかった…!!!
東京だし寧ろ近代史関係の人の方が多そうだと思ってみていたんですが、近代史の人はいなかったなー^^;
期間が1日というのもあったからだろうけど。
で、この本の表紙の聖徳太子の切り絵
がいいなと思って、製作者の方のブログに飛んでみたのですが、これがすごい!
だってこれ…!
キリヌケ成層圏
歴史上の人物を中心に作品を作られているようで、作品数も多いです。
わーあれもーこれもーという感じで、延々と眺めてしまい時間が過ぎて行くのを忘れます(笑)
広瀬も作ってくれないかな…リクエストとか、できないのかしら…
自分でこれ
が作れたので、自分でできない事もないのかとも思うんだけど。
広瀬ではへえ、と思う発見で書いていない事が幾つかありまして。
というか、書いてない事の方が多い気がしますが^^;
ひとつは加藤高明関係で、もうひとつは母方の従弟の話。
これはまたいずれ書きますが、加藤高明の方では直接面識があったという話が出て来たんです。
加藤がね、加藤がね、広瀬の事「友人」って言ってるの!友人って!きゅんときた!(涙
加藤は好きな政治家のひとりなので、それもあってこれは嬉しいなー。
ふたりは親族(広瀬からすると嫂の従兄)だけど、どういう付き合いがあったのかというのは全く分かっていなかったので。
(→12/4/16 加藤ではなく志立という人物からの書簡です。詳細)
従弟の方は偶然存在を知ったのですが、調べてみるとどーも津野田是重と士官学校の同期だった模様。
あらま。
士官学校の卒業者は海兵と違って人数が多く、名簿を調べるのは骨が折れました…orz
で、もう一件、これは大分前…2年位前(笑)に考えて、そのままどこにも書かずにいた15期に関する考察があります。
この話は先日頂いたメールの返信に書きまして、そう言えば書いてないなあと。
これもまたその内書きますわー。
今日は他に書こうと思って進めていた話があったのですが、うまいこと纏まらないというか何だかイマイチなのでまた後日です。
そんな話ばっかり(笑)

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>みちこさん
歴女へ向けて、というのもあるでしょうねえ。腐女子層を取り込みたいのかとも思いますし。ともあれ今までにない感じですね;
オルフェウスは途中までしか読んでないんです…クラウス…(笑)西洋での詳細は知りませんが、アウトになったのはキリスト教以後じゃないでしょうか?近代でロシアだとチャイコフスキーもそうですよね。同性愛者であることを隠すために結婚したり。国は違いますが映画にもなったランボーとヴェルレーヌなんかもいますし…でも軍人だと珍しいのかな?調べたら結構いそうですね^^;
いや、そんなに大袈裟な話じゃないんです…
ベッドの下から出してきた。

さてー何でしょう。

スタンプアルバムでした。
左写真の1番右列下から2番目の40円切手とか。
右写真の右から2列目上から2番目の60円切手とか。
懐かし過ぎ。笑。
今制作しているサイトのページ用に使いたくて出してきました。
1ヶ月ほど前に調整中にした「平安ライフ」のページ用なのですが、段々目鼻が立ってきました。
メールの返信をお待たせしている方、申し訳ありません。
(敢えて自分で言いますが)頑張って作っているのでもう少し待って下さい。
今近代を調べ始めたら頭の中が色々と大変になるので…(残念過ぎる)
小学生の時に友人が切手を集めていたので、それを見てじゃあ私も、みたいな感じでゆるーく集めてました。
今は集めてないけど、結構大事に取ってある。だってきれいなんだもん。
戦前の切手が幾つかありまして。
写真大き過ぎた。
1銭とか1.5銭とか。真ん中のが一番古いんじゃないかなあ。
「内閣弐五年紀念」とあります。
太政官制から内閣制に移行したのが明治18年なので、25年だと明治43年。
左下、前島密かな?戦前から切手になっていたんですね。

こんなんとか。これはシリーズ切手ですねえ。
近代が特集されたものの第1弾と2弾。
漱石の下のが日露戦争で錦絵「日露戦争赤十字野戦病院負傷者救助の図」とあります。
右側の上から2段目、右側の青い切手が、南極探検隊の白瀬矗中尉。

これは文化人シリーズ。これ結構好きなシリーズだった。
左上が渡辺崋山、その下が伊能忠敬、その隣がシーボルト、その隣が塙保己一。
伊能の下が安藤広重、ひとつ抜かして滝沢馬琴。安藤の下が葛飾北斎。
シーボルトのが好き。色がきれいで。

浮世絵とか絵巻物とか。
この辺りは今も国際文通週間の切手の図柄になってるのかな?
海外の人には喜ばれそうですね。
右下のは前田青邨の「洞窟の頼朝」、これ好きー
頼朝の隣は「小桜韋威鎧」、一番左上のは「伴大納言絵巻」。
上のが近代洋風建築シリーズ。
一番右上のが西郷従道邸。一番左のが神戸の旧ハンター邸。
上から3段目、真ん中のが上野にある旧岩崎邸。
そしてさっき見ていてへえ、と思ったんです。これ。

一番右の左側が岩崎弥太郎。
この切手、恐らく岩崎が載っていたから取っておいたんでしょう。
でね、右上の人、近藤真琴なんですよ。驚いた。
確かにこの切手を初めて見た時、この人誰だろうとは思った。笑。今なら分かる!
海軍兵学校に入るための予備的学校であった攻玉社の創始者です。
明治半ば位までは攻玉社出身の海軍さんが多いです。
広瀬武夫も攻玉社に入っている。
下がアメリカの。とーちゃんのハワイ土産だった。
エルビス!(笑)マリリン・モンローとか、ジェームス・ディーンとかのもあるよ。
上のも父がハワイ土産でくれたものだけど、書かれている文字を検索してみたらサントメ・プリンシペ民主共和国ってなってる。
…え?…サントメ…?(知らん…)

これはエジプトの(真ん中の大きいのは違います)。
エジプトのカイロ博物館で大袋かなんかのを買った。笑。
図柄が如何にもエジプト^^
はー。もう少し平安の方を頑張ってきます。

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いつも拍手ありがとうございます
なんとなく2チャンネル風に。笑
今年は閏年だという事に今月に入って気がつきました。オリンピックイヤーですものね。
で、今年は閏年、今月は閏月、今日は閏日です。
昔から閏日、なんと読むのかなと思っていたのです。じゅんび?いや、違うだろ(笑)
「じゅんじつ」、または「うるうひ」でいいようです。音読み訓読みで合わせておけばどちらでもいいのか。
4年に1回だよ!お誕生日の方、おめでとうございます^^
このブログを読んで下さっている方の中におられますか?
昔、といっても暦に太陰暦を使っていた時期ですので明治5年12月以前の話になりますが、それまでは閏月が入っていました。
時代小説や歴史小説などを読むと「閏二月」とか「閏六月」なんて表現が出てくる時がありますが、これがそれに当たります。
サイトの「日食〜天文と麻田剛立」に書いているので詳細はそちらに譲りますが、陰暦で調整を入れずに15年過ごすと夏と冬が逆転してしまう。
3年で大体1ヶ月、15年で大体半年ずれる。
農業主体の国としてはこれは致命的な問題で、正しい暦を作る作業は本当に大切でした。
だって米など農作物の作付けの時期なんてずらせない。
『天地明察』では幕府の作った暦を広めることが幕府の権威を云々とは書かれていましたが、農業の話はなかったように思います。
幕府の権威という点も大きいですが、恐らくそれ以上に大事であったのは農業との関係だと思われます(ヒジハラ説)。
正しい暦を作る事ができる → 人知が及ばない(だろう)天の動きを正しく解明する力が幕府にある → すげえ
こういうのが元々じゃないかと思うんだ…どうだろう。単純すぎ?(笑)
日食や月食は誰だって見る事ができます。
幕府が作った暦は販売されているので、それを見れば知識がなくても幕府の日食月食の予測の当外ははっきり分かる。
で、それがちょこちょこ外れる訳ですよ…
これはまずい。
それまで使っていた暦のずれが看過できなくなった際に、暦の計算方法を改正、つまり改暦がなされている。
暦が天文や数学と分けられないのはここにあります。天文暦学とも言うし。
地理も天文とは分けることが出来ないので、このあたりが全て繋がって来る。
この時代の人物には天文学者、暦学者、そういった肩書が並んでいる人物が結構いますが、それはここにあります。
改暦は江戸時代に何度か行われています。
その一番初めのものが『天地明察』の貞享の改暦。渋川春海。大和暦とか、貞享暦と言われます。
私が一番興味があるのが最後から2番目が寛政の改暦。
サイトでもブログでも名前がよく出てくる麻田剛立の弟子、高橋至時と間重富が中心になって作ったもの。
高橋は伊能忠敬の先生です。
シーボルト事件で最大の悲劇となった書物奉行天文方高橋景保の父になる。
話を戻しますが、3年に1度、どの時期に1ヶ月を挟めば一番違和感がないかを考えて、閏月を入れる。
それが閏2月であり、閏○月となります。
なので閏月が入ると、1月、2月、閏2月、3月……となる。
今回の閏年は何月が2回ある、という感じ。
陰暦から太陽暦に切り替わった当初大混乱したとはよく聞く話です。
明治5年12月3日が明治6年の1月1日になった。明治5年は12月2日で終わり。
でね、これ言い出したのいつだと思う?
明治5年11月9日です。
書き間違いじゃないよ!明治5年11月9日です。

…うん…ポルさんご降臨…(笑)
地デジ移行でも3年間のアナウンスがあった。それだけの期間があってもあの最後のバタバタ模様。
しかもこんな大事な事1ヶ月前に言うか!?1ヶ月切ってんじゃん!^^;
軍隊握っている強権力でないと、こんな事到底できませんな…
という訳で、太陽暦は太陰暦より1・2ヶ月ほど前倒しになる。
暦や気候が大きく影響する生業や行事にとっては本当に大きな出来事です。
うちのじーちゃん農家でしたが陰暦のカレンダーを使ってました。一種のダブルスタンダードだな。
ちなみに年末恒例の赤穂浪士の討ち入りは12月14日。
今よりも昔は寒かっただろうと思いはすれ、あそこまで雪がつもるもの?と思いますが、実際には1年で一番寒い時期なんですね。
確か新暦で1月末です。
まあ実際には雪、降ってなかったそうですが(一般的に知られている事の多くは作り話)。
さて。
で、そんな閏日ですが、どういう事があった日なのかと「2月29日」で検索したらウィキペディアがトップに出てきました。
そこから興味があるものを拾い上げてみると、
●1932年 日中問題の調査のため、国際連盟のリットン調査団来日
●1936年 2・26事件の反乱部隊に原隊復帰勧告(「兵に告ぐ」)が出され、5時間で帰順
●1940年 第2次大本事件。大本教主出口王仁三郎に第1審で無期懲役の判決
リットン調査団、昭和7年、丁度80年前。
2・26はそうだったか。解決?した日ですか。昭和11年、76年前。
出口王仁三郎(おにさぶろう)の判決が昭和15年、72年前。
リットン調査団、実は大阪に所縁の建物があります。
阪神間の方なら御存じかも知れません、大阪の堺筋本町にある綿業会館です。
日本に来た際、リットン調査団はここにやってきているんだよね…
実は大阪キタの辺りから船場の当たり、戦災を免れた建物がぼちぼち残っています。
有名な所ではシ・ェワダ(フランス料理)とか、北浜レトロ(カフェ)とか。
北浜レトロは私もよくいきますが、綿業会館はそういかない。笑
会員制なので行ってすぐ見学できるという建物ではないんですが(現役だし)、月に1度、第4土曜日に一般公開されています。
事前申込みが必要。
私はまだ行った事がありませんが、内部、めっちゃ綺麗。2500円でランチも食べられる。
226は先日触れたので良いですか。
第2次大本事件は一言で言えば宗教弾圧です。
大本教は戦前の巨大な新興宗教(神道系)で、海軍にも随分所縁があった。
秋山真之が一時期入信してたので、ご存じの方も多いかと思います。
何故海軍と近いかというと、出口が大本教の本拠を置いていたのが綾部で、これが舞鶴と近かった。
舞鶴には海軍鎮守府と海軍機関学校が置かれている。
電車で3・40分だったそうです。
それでさ、秋山を手引きした人物が浅野和三郎なのですが、彼が大本教の幹部のひとり、有力幹部だった。
浅野自身も海軍機関学校の教官として海軍に奉職していましたので、その関連で海軍さんが多かった。
ちなみにこの方の兄が浅野正恭で、海軍中将にまでなった人です。広瀬武夫の同期。
浅野兄が入信していたのか、私は知りませんが、教団に出入りはしていたらしい。
この関係からさらに同期の竹下勇が出口と深い親交のあった武道家植芝盛平の存在を知り、彼を東京に引っ張り出した。
この縁で植芝は薩摩系の海軍軍人に合気柔術を教えている(竹下は薩摩出身)。
竹下はねえ、趣味が武術なんです。
柔道大好き、相撲大好き、ついでに日本刀も大好きで、日本刀コレクター。
広瀬と竹下は攻玉社からの仲間で、かつ講道館仲間ですが、恐らく彼らが仲良くなったのは九州人同士という事もさることながら、この武術繋がり、つまりは趣味繋がりではないかと思います。
その竹下が紹介した薩摩系軍人というのが山本権兵衛であったりで、つまりその薩摩系の繋がりから、果ては皇族にまで繋がっている。
第2次という事は、第1次があったという事ですが、これが大正期、確か丁度原敬内閣の時期です。
教義がね、一部天皇制と対立するんです。
平たく乱暴に言えば不敬罪というやつです。
そういうのに海軍軍人が多く入信している。陸軍さんも多く、大学出のインテリもかなりいたらしい。
うん。こういうのはね、政府としては怖いんです。
彼らは政治、経済、軍事、つまり国家を動かす中枢にいる人々、若しくは中枢に近い人々だから。
こういう言い方はしたくないけど、弾圧は起こるべくして起こった、という感じなのだろうか。
第1次で弾圧されても陸海軍人やインテリ、政治家への影響力は衰えず、そのまま第2次大本事件に繋がる訳ですが、ここでほぼ壊滅状態になっています。
で、その第一審が下りたのが今日ですか。
印象としてもう少し早い時代かと思っていたので、昭和15年か。少し意外でした。
もう少し何か書こうと思ったのですが疲れました。頑張った…

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今日は真面目に書くつもりだったんですが、つもりで終わりそう^^;
書き始めたのが10時半だったので、軽くで申し訳ナス。
昨日ですがサイトの更新をしました。
更新と言っても改訂です。
香川の高杉晋作関係のページなのですが、先日香川に帰った際に幾らか写真を撮ってきたので、それを付け加えました。
流石に用事が用事でしたのであまりうろうろする事もできず、大した加筆もないのですが。
少し驚いたのが、金毘羅さんの参道入り口にあった芳橘楼が無くなっていた事。
建物が県指定の史跡だったのに…
文化財とはいえ、このご時世で莫大な修繕費もかけられず、売却されて休憩所というか、飲食店になっていた。
芳橘楼ってーとあーた、由緒ある旅籠だったんですよ?
命名は頼山陽で幕末には高杉晋作や桂小五郎、坂本龍馬なんかも利用したそうで。
伯父に聞いたら「あーそう言えば潰しとったなあ」という感じだったので、結構前の話だったのかな。
仕方ない事なのかもしれませんが、そう言った形で消えて行くのは残念ですねえ。
松里庵跡にも行こうと思ったんですが、流石に時間がアウトでした。
葬儀の日だったので(早起きして出掛けた)、神様にもお参り出来なかったし、あまりうろうろもできなかった。

琴平にはその前の晩の10時過ぎにつきました。田舎なので人いない。そして真っ暗…
そして日曜朝の6時半ごろの金毘羅さん参道はガラガラである。
夏だといつもこの時間帯にお参りするんだよね。涼しいし人もいない。でも店も開いてない。
買うもの無くてもああいうところを覗くのは結構楽しいのに。笑。
あと初めて満濃池に行きました。
弘法大師だよ!空海だよ!うちんちも真言宗だよ!(笑)
で、石碑が建っていたのでなんだろなーと思い、ふらっと近寄ったんです。

ん?
なんか知ってる人いるー…
てか山形って誰よ。山縣なら知ってる。笑
こちらにあった石碑は琴平に亡命して来た高杉晋作を日柳燕石と共に支援した、長谷川佐太郎の顕彰碑。
維新後は満濃池の改修に尽力して家財を傾けたそうで、そういった事が書かれた記念碑でした。
篆額が山縣、撰文が品川で、ふーんと。
まさかこんな所で名前を見るとは思わなかったので、少し驚いた。
日柳燕石は地元の893の親分さんですが、高杉を匿った廉で投獄されます(因みに捕縛されたのは上記の芳橘楼)。
この方、桂小五郎とも交流があったようでして、大政奉還後に出獄して後、行動を共にしている。
なのですが、既に始まっていた戊辰戦争に身を投じまして、北越に出征、そこで戦死した。
戊辰戦争で北越方面と言えば、山縣狂介(有朋)と黒田了介(清隆)ですなあ。越の山風…
琴平には日柳の呑象楼という旧宅が残っていますが、その近くの公園、丸尾酒造(長谷川佐太郎宅)の裏に日柳の顕彰碑が立っています。
その顕彰碑の篆額も山縣なんですよね。
どういう繋がりがあったかというのは私は知らないのですが、この北越戦争繋がりしか無いんじゃないかなあと。
で、満濃池の方もそれに似た関係でかな、と思うのですが、どうなんだろう。

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すごい台風だった…私の住んでいる地域は特に問題なく終わりました。
でも「宝塚辺りで川が云々」的な速報を見た時は流石にテレビ画面を2度見した。
この川の下流なんですわ。ここが決壊したら確実にうち水没。
そしてこういう事があると、阪神の武庫川駅、よくあんな処に駅作ったなと思う(川の上)。危なくないのか。
香川に出掛けていた家族は結局2日間足止め。
金曜日のかなり早い段階で電車止まっていたので、あーこりゃ橋もアウトだなーと。
それでも用事があるからという事で、昨日の朝9時頃に帰ってきました。ご苦労様です。
今年は本当に自然災害が多いですね。
近代以前なら改元ものじゃなかろうか。
元号が変わると言えば、田沼意次の時代。
『賄賂政治家』と一般的には言われる事の多い田沼意次ですが、その一言で現すのはちょっとなあ。
賄賂なんて当時の風習であって、みんなやってるのになんで田沼だけ、と私なんかは思ってしまう。
松平定信でさえ、松平定信でさえ、賄賂贈ってんぜ。
そしてあの矢部定謙でさえ賄賂贈ってるんだぜ…(本人は後悔してたけど)
春先に一度触れた話をそのまま引いてきますが、
田沼が執った政治は、開明的、もっと言えば近代的でした。
それまでの政治は農業に重きを置く重農主義(米中心、年貢が税収)だったのですが、平和が続き経済が発展してきた中で年貢米中心では限界があると見極めて、重商主義(貨幣経済)へシフトチェンジして幕政を立て直そうとしたのが田沼意次。
農民から税を搾り取るやり方ではなく、商人を富ませてそこから税を取ろうとした。
通貨を統一したり、殖産興業に目を向けたり、株仲間を作らせたりしている。
田沼に関して気の毒だと思うのが、この方が実力者として君臨していた時はとても災害が多かった事です。
手元にある年表を見ていると、
1770 諸国で旱魃 〜1771
1772 目黒行人坂火事(江戸3大火事のひとつ)、地方で旱魃、洪水
1779 桜島大噴火
1782 天明の大飢饉(江戸時代の3大飢饉のひとつ) 〜1878
1783 浅間山の大噴火
1786 江戸で大火事、天明の大洪水(関東地方) (→直後田沼失脚)
(1787 天明の打ちこわし)
なんというか、こんなの現代でもどうしようもなくないか。
一番酷かったのは天明年間、飢饉と浅間山の噴火が重なった所ですか。
これは本当に大きな噴火であったようで、遠く離れた江戸でも障子が震えたといいます。

灰は関東甲信越一帯に降り注ぎ、それで農作物アウト。
確か江戸でも何センチか積り、昼間なのに夜のよう。行燈に火を入れる。銚子にも降灰あり。
空に舞い上がった火山灰で日光が遮蔽され、それで更に農作物アウト。
浅間山爆発以前より始まっていた飢饉は、その原因が気候不順でした(冷害による凶作)。
その上のこの降灰。日光遮蔽が冷夏を招き、更に拍車をかけたのではないかと思われ候。
本当に大凶作となり草や根っこ、犬猫、死人まで口にしていたと言います。
日本史の資料集(浜島書店)見ていると、死者約92万人になってるなあ…
どうやって計算してるんだろう。
この飢饉の上利根川の大洪水とか。
今のような空からの情報収集出来ず、パワー系の土木技術もない当時、有効な手なんて打てたのか。
というか、今でも自然災害に立ち向かう事は難しいぞ…
と、思いますが、災害対策に対する失敗を原因のひとつとして田沼は失脚していきます。
……話が大幅にずれた…
1772 目黒行人坂火事(江戸3大火事のひとつ)、地方で旱魃、洪水
これが明和9年になります。
明和はこの年で終わりでして、それ以降は安永となる。その理由が、
こんなことが起こるのは、めいわ・くねんだから → めいわく・ねんだから → 迷惑年だから。
迷惑な年だから、こんなことが起こる。
そういう理由で明和9年が安永元年に変わってしまった。
安永に変わっても(当然ながら)災害や疫病はノンストップだったんですが、うん、まあ…そうなのか…
この話を見た時は少し驚いた。
台風の被害に遭われた地域が1日でも早く復旧しますように。

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高杉晋作の史跡ページの作成が終わりました……!長かった!
下関にある高杉晋作関係の史跡で残っているのは、高杉晋作療養の地、終焉の地、吉田にある東行庵(墓所)の3ヶ所。
ページを作りながらへーと思った事も幾つかありました。
やっぱり新しく出た本も確認しないとだめですね。情報が更新されない。笑。
それでも何冊か本を見てみても結局「?」という処がちらほらあります。こういうのが一番困る。
更新はもう少し間を開けてからします(暫く間を開けて見直して大丈夫そうなら更新)。
このまま山口市か萩市の方に進んで、いっそ山口県の史跡片付けるかと思っていたんですが、幕末飽きた。
次は平泉の方に行きたいと思います。
これは初夏に書いていた平泉前史を書いていた時にも思っていたんですが、もう暫く放っておくかと思っていたんです。
でも思ったよりもサイトの前九年の役/後三年の役関連史跡を見に来て下さる方が多いので、少し手を付けておくかと。
まあ、他にもやりたい事があるので、着手はゆっくりだな…
このページは本当に平泉だけぽっかり残っている。笑。
平泉の他には後三年関係と安東水軍か。
安東水軍は青森県の旧市浦村(現五所川原市)、鎌倉〜安土桃山時代なので、平泉関連で括るには少し問題があるかとも思うのですが、まあ開祖が高星丸(たかあきまる)、安倍貞任の息子ということで。それつながり。
というか、あれだけのページを更新しておいて前九年と関西の源氏関係しか終わってないのね。
平泉は観光地になっているだけあり、ひとつひとつの史跡が大物です。
中尊寺、毛越寺、観世在王院跡、伽羅の御所跡、義経堂、柳御所跡、無量光院跡…
この字面を見ての感想は この説明書くめんどくせー (大物すぎて…)
はい。それで前九年で終わったんですよ…
いやだって自分で中尊寺の説明書くと考えてみ?人に読ませるためにページ作ると考えてみ?
メジャー過ぎてやりづらい!(笑)
…。
………。
……………頑張ってやります。ハイ。
作ったページを見て行こうと思ってくれる人がいるかもしれないし。
何より大好きな県だし。岩手。
岩手で括ると、何度も行っているのに本当に史跡はほったらかしなんで、気にはなっているんです。
まともに書いてるのって前九年関係と米内光政だけ。
何年か前は原敬記念館のページもあったのですが、気に入らなかったので下げてそのままだ。
原敬、斎藤実、後藤新平、新渡戸稲造、宮沢賢治…はいいか文学だし。高野長英もだなー。
水沢地区の方は本当に触りたいぞ。
でもこの人達もメジャー過ぎて(以下ry それを言いだすと終わらない。笑。
米内しゃまは盛岡にあるお墓にも参っているので、そういう写真もあるんだぜ!
早く出せよっつー話ですよね。そうですよね。
いっそ「ここなら行ったから書ける」という表を出して更新希望アンケートでも取った方が良いのか。笑。

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ぶっちゃけると広瀬武夫のイメージは室伏広治選手でした。
カッコ良くない?すごくカッコ良くない?室伏選手(*^^*
身体能力がガチすぎて勝負にならんため、SASUKE?筋肉番付?に呼ばれなくなったと聞いた。金メダル!すごー!
※gooブログメンテナンスのため以下の時間が利用不可の事
2011年8月31日(水)午前1:00 〜 午前8:00(7時間)
えー1ヶ月ほど前に山本五十六が映画化だって!という話を書きましたが、ウェブ拍手で衝撃のキャストを教えて頂きまして、急いでググりました。
五十六を海軍中央から遠ざけるために聯合艦隊司令長官に任命する海軍大臣・米内光政に柄本明、
五十六や米内と共に三国同盟阻止に尽力した軍務局長・井上成美に柳葉敏郎、
五十六と同じく反戦を唱える数少ない海軍司令官の一人である山口多聞に阿部寛。
そして、五十六のそばで半生を見届ける三宅義勇作戦参謀に吉田栄作、
五十六の懐刀としてたぐい稀な才能を発揮する黒島亀人先任参謀に椎名桔平、
戦争はやってみなければわからないという考えを持つ軍令部総長・永野修身に伊武雅刀、
零戦パイロット・牧野幸一に五十嵐隼士がふんする。
また、五十六の姉・高橋嘉寿子を宮本信子、妻の禮子を原田美枝子、
五十六の唯一無二の親友で元海軍中将の堀悌吉を坂東三津五郎が演じる。
そのほか、第一航空艦隊司令長官・南雲忠一を中原丈雄が、聯合艦隊参謀長・宇垣纏を中村育二が演じる。
(ソース:シネマトゥデイ 丸刈りの役所広司主演『聯合艦隊司令長官 山本五十六』に超豪華キャスト続々決定!)
>米内光政に柄本明
>井上成美に柳葉敏郎
>山口多聞に阿部寛
………………orz
このキャストで見る気が半分くらい失せたって言ったら怒りますか…
特に米内しゃまと山口てーとく…
別にこの俳優さんたちが嫌いとか気に食わないとか、そんな事はないんです。
ないんだけど顔も見た事ない江戸時代の人物とかじゃないんだから、もう少しイメージも大事にして欲しい…
名前を見ていると実力派俳優で選んだんだなとは思うけど。
山口てーとく(※大好きな提督)が秋山兄ィみたいになるのかと思うと、正直…うん…(言葉少な
いや、あの兄ィがどうこうと言うんじゃなくて、うん…ちょっとイメージ違うけどあれはあれでいいと思うし。
というか阿部寛がてーとくするならもう少し太って欲しい。ガリガリな山口多聞なんて。でも太った阿部寛は想像できない(どっち)
丸刈りで第二種軍装(ステキ夏服)の役所さんにはそれほど違和感を持たなかったので、実際に動く姿を見たら『良かった』にシフトチェンジする可能性も高いですが。
堀さんと南雲中将は結構合うんじゃないかなあ。
伊武雅刀は結構いいんじゃない。似てる気がする。
てゆーか三宅義勇って誰だよ(笑) 三和義勇じゃないのか。誤記?(笑)
(※追記:三宅義勇←三和をモデルにした架空の人物のようです)
というか、私が勉強していたのは1920年代ごろまでの政軍関係(主に陸軍)だったので、戦争そのものはノータッチなんですよね。
大きな流れはばさーっと掴むけど、個々の話は分からない。
日露戦争の辺りと比べるとすごく複雑だし、戦域も格段に広いし、よう覚えられん。
それに山本も米内も名将愚将で意見分かれていますし…
時代が近いだけに人物の評価もまだ難しい。
私はどちらも好きだけど、どう判断するかっていうのはもっと勉強しないとできないなあ。
そんなレベルだから映画を見ても史実と照らしてここがこうとか、ここは良くできてた、とかそういうのは言えないですな。
この頃について詳しい方は、映画化についてどうおもわれるのかとか、映画を御覧になったらどんな感想をもたれるのかな、とか、そういう所には興味があるかな〜
でも、去年の『半次郎』にしてもそうでしたが(内容はどうあれ…)、今まで一般的ではなかった所に光が当たるのはいいことだと思います。
ただそうだなあ…
海軍三羽烏に光を当てるあまり、その比較として陸軍を必要以上のヒールにしないで欲しいというのはあります。
海軍だって結構ずるい事してる。
バランスのとれた映画になっている事を祈ります。山本が主人公だったら難しいかな…

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おー!先日更新した「日食〜天文と麻田剛立」に間違いが!
…訂正したのを更新しないままアップロードしたようです。申し訳無い。
そこ間違いすぎ!と自分でも突っ込む所をそのままにしていました。orz
閏月の調整に関する部分、陰暦と陽暦では何年で何日ずれるという表記の所です。
ご指摘頂いたMVさん、ありがとうございました!気付かずに放置する所でした。
ジゴロウさんよりコメントを頂きましたが、この麻田剛立(ごうりゅう、号です)という人物、高橋至時(よしとき)の先生になります。
寛政の改暦の際、江戸にはそれをできる人物がおらず、そこで幕府がヘッドハントしたのが大阪にいた麻田でした。
しかし麻田は江戸に行く気がなく、その弟子の高橋至時(大阪の同心)と間重富(町人、質屋)を推薦します。
両者とも才有り、そのまま採用されて改暦事業に参加している。
間は町人なので姓がないのですが、この改暦の功績を認められ姓を名乗る事を許されています。
で、この高橋の弟子が伊能忠敬になります。
伊能忠敬は千葉県佐原の大名主。
齢50歳にして隠居し、江戸に出て息子ほどの歳の高橋に弟子入り。
当時天文方でホットな話題が「地球の大きさはどれくらい?」というものだったそうです(日食月食を正確に予測するため)。
そこで伊能は江戸のあっちからこっちの距離を計って計算するのですが(地上の距離と星の高さを見る。天文地理ですなあ…)、
「計測距離が短すぎてそのデータじゃちょっと使えへんなあ」
と師匠には笑われたものの、
「せめて江戸から蝦夷までの距離を測れば測ればもう少し正確性があがるんちゃう?」
と言われ、蝦夷地を測量することにした。
自費。
いや、確か幕府の補助が出ていたように記憶していますけれども。
しかしこれが個人の道楽ちゅうんですからすごい。
情熱がすごい。好きじゃないとできない。
伊能は数年かけて測量し、地図を作り、完成後はそれが若年寄、老中、将軍へと次々と上覧されていきます。
地図の精巧さに驚いた幕府はこの地図作成を公的な事業としました。国防という理由もあったかと思います。
随分端折っていますが、これが全国の地図がつくられるようになった切欠の話。
大日本沿海輿地全図は余りに精巧で、正確でした。
当時、どの程度正確だったかどうかというのは正直な所分からなかったと思いますが…
まあ、近代になって参謀本部が地図を作る時にこの伊能図を骨子としているんですよね。
それを考えると当時では驚異的な地図だったんではなかろうか。
そういう事もあって、幕府はこの伊能図を秘蔵します。
紅葉山文庫(将軍の図書館)に入れた。
以前サイトで更新した「お奉行様!」で、シーボルト事件の話に触れました。
これが大きな問題になったのは、この伊能図のコピーがシーボルトの手に渡っていたためです。
そして渡していたのが高橋至時の息子、図書奉行兼天文方であった高橋景保であった。
この話は今度更新する「お奉行様!」に記載していますのでそちらに任せますが、なんというか、なんともいえない巡り合わせだなあと思います。
うん…
ほんと、不幸な事件だよね…
そう言えば上記お奉行様のページにも書いたのですが、シーボルト事件の創作は結構ショックでした。笑。
ハウトマン号事件ですね。
長崎から出港したオランダ船が嵐で座礁して、それを見聞したお役人が破れた船底からご禁制の品々をわんさか見つけてシーボルト事件となったという、あれ。
実際はそんな事はなく、創作だったという話ですが。
えー…おいおい… ほんと、私信じてたよ…頼むよ…
しかもここ数年の研究の成果ではなく10年程前には分かっていた事というのが更にショックだった。
鳴滝紀要掲載という事で論文を確かめたかったんですが、大阪府立図書館にも該当号なかったんで諦めました。
明治関係ならまだしもシーボルトにそれ以上の情熱を割く気にはなれん(`・ω・´)キリッ (結構酷い)
江戸を見るにしてもシーボルトをメインとしては見てないもんな…
言い訳すると、何と言うか、参考文献が古い。この時代に関する本って2・30年前とかザラ。
ここ数年で結構新しいのも出て来ていますが、偶々そんな中で引っかけた本を見て「なんやとー!」と思ったんです。
お奉行様サイトに載せる前に気がついてよかった。
「高橋景保一件 ― 幕府天文方書物奉行」という高橋の伝記小説がありますが(結構面白い)、これもハウトマン号事件そのまま書いてた。
うん。何と言うか…うん…
情報が更新されていないと結構悲劇だよね…

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この1・2週間ほど異様に閲覧数が多いです。何これ怖い(チキン)
土方歳三辞世に新説 「鉾とりて月見るごとに…」
新撰組副長・土方歳三(1835〜69)と最後まで行動を共にした隊士・島田魁(1828〜1900)がまとめたとされる和歌集の巻頭歌が、土方の辞世と考えられるとの説を、幕末研究で知られる霊山歴史館の木村幸比古・学芸課長が打ち出した。
「従来、辞世とされてきた歌は詠んだ日時の推定が難しいが、巻頭歌は間近に迫る死を覚悟した内容で、亡くなる前日に詠んだ可能性が高い」
としている。
歌は
「鉾とりて月見るごとにおもふ哉 あすはかばねの上に照かと(鉾を手に取って月を見るたびに思う。あすはしかばねの上に照るのかと)」。
島田家に伝わる和歌集の冒頭に土方の名で記され、和歌集は26年前に同館に寄贈されていた。
木村課長が今年、修復にあわせて、ほかに名のある30人を調査、大半が新撰組隊士や幕府側の藩士らで、戊辰戦争(1868〜69)で降伏し、長く生きたことがわかった。
自然のはかなさを詠んだ歌が多く、維新後に隊士らが作り、島田がまとめたと判断した。
土方は、旧幕府軍の指揮官として戊辰戦争に加わり、新政府軍の総攻撃を受け、銃弾に倒れた。
生き残った藩士らの証言などによると、その前夜、旧幕府軍幹部らが惜別の宴を開いていた。
木村課長は「歌には悲壮な決意が示されており、土方が明日の死を予期しながらこの席で詠み、島田が大切に記録していたのでは」と話す。
(ソース:読売新聞 2011/6/15)
へー…
歳さんの辞世って たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらん かと思っていたんですが。
あらまあ。
26年ほど前に寄贈されてたという事で、もしかして島田からしたら何を今更?(笑)
というか、これでは亡くなる前日に読まれたのかどうかってわからないような気がするんだけれども…まあ可能性という事ですか。
新選組が私の興味の対象から外れてはや幾歳という感じですので、最近の定説とかがどうなっているのか、全くもって分かりません。
覚えている事のうち、変わった事も随分あるんだろうなあ。
なんかねえ。
今新選組好きっていうと、うん。エネーチケータイガーとか薄○鬼とかそっち系のファンかと思われるのが嫌でね…。好きな人には申し訳ないですが(別に非難もしてませんのであしからず)。
これならまだ「とってもひじかた君」の方が好きなんである。というかこの土方くんは私大好きだった。
まあそれはどーでもいいんですが、私も歳さん好きで京都の新選組関連は大体回ったし、日野の生家も見て来たし(周り土方さんばっか!)、(台風で青森から帰れなくなるというアクシデントのため)函館にも行ったので、全く無関心という訳でもないんですが、もはや「へー…」という程の言葉しかでない。そんな自分にちょっとびっくりですわ…orz
いやあぶっちゃけ私新選組では幹部より島田魁と中島登が好きだったんですよね!(笑)
魁君がね!大好きだったんですよね!(しつこい) 京都にいた時用もないのに西本願寺に行ったりしたよ!
まだ中村彰彦の「いつの日か還る」は読んでないんですが、今更なあという気がちょっとしないでもないというか。
あれ。歳さん何処行った。
…いや、うん。
こんな私ですが司馬遼太郎の本で一番好きなのは『燃えよ剣』なんです。
意外?ふふふ(笑)
『坂の上の雲』でも『翔ぶが如く』でもないんだなこれが。
あとは『国取り物語』と『世に棲む日日』。
でも思うんだけど『燃えよ剣』といい『翔ぶが如く』といい、何であんな下ネタから始まるんだ。笑。
『侍はこわい』の近藤勇(当時は勝太君である)の話も、うん…この話には笑った。
何故見せる。(読んだ人だけに分かるネタ)
※追記
歳さんのご子孫さまのブログを見ると、霊山からは連絡がなくご存じなかったそうで。
……辞世?そうなの?という感じでした。

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病院行ったら腸に炎症が。そらー腹も痛かろうorz そらー熱も出るわな…
ついでに頭も痛い。どうよこれ
「聯合艦隊司令長官 山本五十六」が今年の12月23日に封切りになるそうです。
驚いた。
主演が役所公司だそうで、や、役所さんが56するのか…
なんかイメージ違うなあ(←ファン歴22年でもそういう所は包み隠さない)。
でも実際に見るとまた違うもんかな、と思うので。まあどうなるかな。
ていうか、またどうして今56なんだろう。素朴な疑問。
三船敏郎のリメイクなのかな?と思ったのですが、どうもちょっと違う様子…?
様々な資料を元にこれまで知られていなかった姿を書き出したいというのがあるそうです。
確かに日米戦争に反対していたっていうのはもっと知られてもいいよね。結構知られている事だとは思うけど。
先日クランクインした所だそうなので、またしばらくしたら続報も流れて来るかなーと。
図書館でいつかの歴史読本を斜め読みしてたんですが、藤原兼家がどういうラブレターで才女を落としたかという話が載ってた。
兼家は藤原道長のパパです。そしてこの才女は『蜻蛉日記』の著者、藤原道綱母。
兼家は随分イレギュラーな方法でアプローチしたらしい。
手紙を使いに渡さず、自分で馬に乗って直接届けに行ったりして。
まず道綱母に渡った手紙がひどい。ラブレターに使うような紙じゃなかった。
なんだろう…今で言うと便せんじゃなくて何かの裏紙とかに書かれてたような感じなのかなあ…
しかも「至らざる所ない」という評判の筆跡なのに、「あらじとおぼゆるほどあしければ」、ないわーと思うほど酷かった。
ラブレターなのにな!いや、わざとなんですが(笑)
しかしながら酷い紙にこれはないと思うほど汚い字で認められていた和歌が良かったらしく、イレギュラー尽くしの行動でこの和歌が一際光った、云々。…ギャップ萌え?(なんか違う)
いや、『あらじとおぼゆるほどあしければ』、頭の中で現代語に変換していて、この1文に思わず笑ってしまっただけで特にオチはないんです^^ゞ
道綱母の『蜻蛉日記』と言えば、なんてーか、恨みの書というか^^ゞ
その内兼家の足が遠のいてしまって(当時は通い婚なので…)、出す手紙には淋しいですとか逢いたいですとか書くものの、実際にやってきたら不満や嫌みのオンパレード。
嫉妬に潰れそうな道綱母、可哀想だと思うけど、それじゃ兼家も堪らんわ…orz

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お詫びのお詫びみたいになってます。
前回の記事ですね、更に訂正が入りました(笑)
西郷さん、隆盛とは名乗っていなかったようです。自分ではちゃんと「西郷吉之助」と名乗っていたとのこと。
MVさん、重ね重ねありがとうございます。
なんであの時点で西郷隆盛と名乗るのが不適当なのかというと、理由はふたつあります。
ひとつは、諱は普通人前で名乗らない。
諱、いみなと読みます。
これは随分昔に触れたことがありますが、簡単に言うと本名なんです。
例えば、
坂本龍馬直柔の直柔(なおなり)とか、
高杉晋作春風の春風(はるかぜ)とか、
これが彼らの正式な名前になる。
龍馬とか晋作というのは通称になります。
本名が変わることはあまりないですが、通称は割合ころころ変わる。変わらない人もいただろうけど。
高杉なんかは東一という通称を使っていた時期もありました。
通称の中で一番有名なのが晋作です。
で、西郷さんで言うと、西郷吉之助隆盛、となる筈ですね。
吉之助が通称になる。
諱というのは中国から来ている文化で、日本では忌み名とも書きます。
で、他人が諱、つまり本名を呼ぶ事は一種タブーなんです。
諱は人に言うものじゃないし、また呼ぶのは大変失礼なことであった。
ついでですので。
三国志をテーマにした小説や漫画なんかでは 諸葛亮孔明とか、曹操孟徳と表記されますし、登場人物らも曹操、夏侯惇といった風に呼び合っていますが、実際にはこれ、もっての外なんです。
曹・操・孟徳…姓・諱・字 /諸葛・亮・孔明…姓・諱・字
このふたりの場合だと、操と亮が諱になる。
彼らに向かい、曹操、諸葛亮と呼びかけちゃダメなんです。笑
呼び掛ける際は曹丞相、諸葛丞相、という姓+役職名が適当。
若しくは曹孟徳、諸葛孔明の姓+字です。
でも曹操って書かないと分かりにくい、実際。
諱を呼んでいいのは親とか絶対的目上の人。天子様とか。
もう絶対絶命俺この戦で死ぬの決定だけどタダで死ぬのは嫌せめて一矢報いたい、そう言う時は言葉と力の限りを尽くして相手を諱で呼んで罵倒し倒します。
※但し八つ裂きにされる覚悟がある場合に限る
漫画なんかでは本名が分かれば呪術をかけられる、とかいうシーンがありますが、平安時代なんかだとそういう思想もあったんだと思います。詳しくは知らん。
流石に幕末で呪術云々は現実味がないでしょうし、絶対にダメ、と言うほどストリクトでも無かったと思いますが、やはり自己紹介する時に諱を名乗るのはちょっと…と言う感じがします。
なので(大島云々は置いておくと)、西郷吉之助、と名乗るのが適当になります。
うん。
で、ふたつめなんですが、西郷さんの諱、隆盛じゃないんです。笑。
有名な話かと思いますが、実際には隆永ですね。なので禁門の変の際は
西郷吉之助隆永
になる。
まーでも西郷隆永や言われても誰か分からんわ(笑)
これがなんで西郷隆盛になったかと言いますと、隆盛というのは西郷さんのお父さんの諱なんです。
明治維新後、名前を統一せよ、というお達しがありまして、皆さん自分が使う名前を届け出ます。
これは通称、諱、何でもよかったようですね。
自分が好きな名前をお上に届け出る事になった。
伊藤博文は諱ですし、江藤新平なんかは通称です。
で、西郷さんはその際に、友達が間違って父親の諱で届け出た。
ついでに言えば、西郷さんの弟、西郷信吾。信吾ちゃん。
維新後は西郷従道と言いますが、彼の諱は隆興でした。
リューコーって口頭で伝えたら、訛りがきつくて担当官が聞き取れず、ジュードーに変換されたらしいよ。
まさかの役所の登録ミス。
全くこの兄弟は!(笑)
訂正しろよ!(笑)

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>MVさん
ありがとうございました。深みに、というより墓穴を掘りました。笑。
>Sさん
いやーマジで美味しかったです!マジで!(2回言う)好評でした(笑)
フェイスブックですか…会員でないと中は覗けないみたいですねえ…ちょっと本名+写真には抵抗がありまして…^^ゞ
す、スイマセン…orz
■ サイト更新 江戸:お奉行様!4〜6
今回のテーマは、アヘン戦争、蘭学、蘭学を学ぶ人々 になります。
あれ?お奉行…様…
遠山景元(金四郎)の生きた時代を知るためのバックボーンとして始めた話だったのですが、これは引き際を完全に間違えました。笑。
お奉行様かんけーねーなーと思われそうですが、あの時代の雰囲気が分かればいいなと思います。
先日大塩平八郎の乱の話に触れましたが、大体同時代の話になります。
大塩平八郎の乱は天保8年、アヘン戦争は天保11年。
「いやよアヘン」と言うことでアヘン戦争が起きたのが1840年になります。
明治維新(1868)のおおよそ30年ほど前の話になる。
日本史的に見ると、
天保8/1837年 大塩平八郎の乱
天保10/1839年 モリソン号事件、蛮社の獄
天保11/1840年 アヘン戦争、遠山景元北町奉行に就任
天保12/1841年 天保の改革
こうした感じになります。
この天保年間は、近代に繋がるひとつの転換期だったのではないかと思います。
どうかな。
天保期は飢饉に悩まされ(天保の大飢饉)、外からは度重なる外国船の到来に悩まされ。
この時代は評して「内憂外患」と言われますが、全くその通り。
幕府だけの話だけではなく、諸藩も飢饉対策や失政の付け等、借財で首が回らないところまで来ている所が結構あります。
この時代に諸藩で藩政改革が行われているのは決して偶然ではない。
例えば薩摩では調所笑左衛門が、長州では村田清風が財政改革を断行しています。
両者は一応の成功を見る訳ですが、この時の財政改革の成功が明治への飛躍に繋がったとする研究者もいます。
そして藩の大変さというのは結局個々の藩士の苦しさに繋がっていく。
ちょっと例は違うんですが、個人レベルでの大変さと言うのは先年映画になった『武士の家計簿』からも分かります。
映画を見ていないのですが、本は本当に面白かった。
この家計簿も丁度天保13年から始まっている。大体時期は同じですな。
まあそれは良いんですが、アヘン戦争。
こちらは特に説明もいらないと思います。日本史でも世界史でも絶対に習うもんね。
日本にとっては隣国で起きたといっていい戦争ですが、
これはペリー来航と同じく幕府にとっては驚天動地だったと言われる事が多いです(一般的に)。
いやー… 情報に対して驚きはしても、どうも驚天動地とまではいかなかったみたい。
戦争が起きた翌月には日本に情報入っているのですが、
この一報が入った時はちょうど蛮社の獄で投獄された渡辺崋山の取調べの最中で、他国の戦争どころじゃなかったみたいですね。
また「戦争」というものの、情報が入ってきた当時はまだ両国は交戦もしていない時、林則徐がアヘンを没収したとか、どうもそういう話だったようです。
ここから2年に及ぶ戦争となり、またそれが東アジアでどういう意味を持つようになるかというのを、
この時に、鎖国下、少ない情報、という状況の中で正確に判断できたとは、ちょっと思えない。
この後も続々と情報は入っていたとは思いますが…
『江戸の海外情報ネットワーク』では情報が入ってきた時に、ことの重要性が理解できていなかったらしいとあったのですが(ちょっとうろ覚え)、それは仕方ないんじゃないかなあ…^^ゞ
ただ、イギリスはこの時から15〜20年ほど前日本でも上陸騒ぎなどを度々起こしていますから、この辺り、幕府がどう見たかなというのは興味がある話ではあります。
アヘン戦争に関しては水野忠邦が情報統制をしていて、当初この話を知っているのは職務上知らざるを得ないお役人の他、基本的に幕府中枢に近い人物だけだったようです。
それが色んなところからポロポロと情報が断片に洩れていて、
…なんか様子が変じゃない?何か起きてるの?と。
西国大名や情報通などはこの辺り、個人的なツテを辿って国外で何が起きているのかを探っていく。
一般的に隣でドえらい事が起っていると騒ぎになり出したのはどうやら清国が大敗した天保13年頃かららしい。
あとペリーの話ですが、浦賀に黒船がやって来た時、そら驚いたでしょう。
たった四杯(隻)で夜も眠れなかったんですよ、庶民は。
ペリー来航もね、1年ほど前に幕閣は知っているんです。
ただ話半分に聞いていて(というか嘘だと思ってた)、本当に来るとは思っていなかった(笑)
驚いたと思います。
驚いただろうけど、それは多分「まさか本当に来るとは」という方だったと思うよ。
吉村昭が言っていてなるほど、と思ったのですが、
「教科書ではそれまで為政者目線での記述が、ここでいきなり庶民目線に転換する」
私も昔は黒船見て幕府びっくりしたと思ってた!(笑)
でも本読んでるとペリー来る事知ってるし、そんなにびっくりしてないし(笑)
なんでこんな書き方になるんだろうと思ってたんですよねえ。言われてみればそうだよね。納得…
教科書的にはびっくりしてくれないと話が進まないんだろうか。
それに、これは昔書きましたが、黒船は「鉄の船が浮かんでいる!」とか漫画やアニメやドラマなんかでたまーに言われたりしますが実際には鉄骨木皮。
つまり木造船なんですよ。
それを腐食止めのために黒いタールを塗っている。
なんか色々と誤解が多いよね。
サイトでは蘭学や蘭学に関わった人達の話についても触れています。
最近ブログで名前を見る人々がちらりほらり…
いやーあっしの大好きな世界っす!(笑)
お時間のあります方、ぜひお付き合いください^^

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