渡辺玄英「シンゴジラへの道」全4回

2016年12月から2017年3月第4土曜日の4回渡辺玄英「シンゴジラへの道」を掲載いたします。

連載エッセー シン・ゴジラへの道 最終回 ゴジラとは何者だったのか 渡辺 玄英

2017-03-18 13:41:29 | 日記
 東日本大震災から六年が過ぎた。この文章の初回に、『シン・ゴジラ』でのゴジラの出現日「11月3日」が、震災発生日「3月11日」を反転させたものであり、かなり直接的にこの大震災を意識して作品が成立していると書いた。描写には津波被害を連想させるところが随所にあったばかりでなく、シン・ゴジラの最終上陸後の進行ルートは「フクシマ」を目指した直線的なものだったと指摘した。
 その文章で「ゴジラは、太田区から東京駅方向への直線的に進行」という部分に間違いがあったのでここで訂正するが、シン・ゴジラの最初の上陸が大田区で、最終上陸は鎌倉から東京駅へのルートを進んでいる。従って「ゴジラは、鎌倉に上陸して東京駅方向へ、フクシマを目指してほぼ直線的に進行」が正しいので改めておきたい。
 いずれにせよ、上陸後、東京駅付近に至ったところで映画は終わるが、この進行ルート自体に「フクシマを目指す」という意図があったことは間違いないだろう。さらに指摘しておきたいのは、最終上陸を開始する相模湾(鎌倉沖)は関東大震災の震源地であることだ。つまり、『シン・ゴジラ』のゴジラの最終上陸進路は、「関東大震災の震源地」から進行し、ほぼ直線的に「東日本大震災のフクシマ」を目指している。このことから、二つの巨大震災を結ぶ意図を読み取ることが出来る。大震災と原発メルトダウンという、日本が未来にわたって背負い続けねばならない問題の軸線上を、ゴジラは進行したのだった。
 また、もうひとつ指摘し忘れていたが、『シン・ゴジラ』のゴジラ出現日「11月3日」は、『ゴジラ』が封切られた日でもあった。1954年11月3日に初代『ゴジラ』は公開されたのだった。初代作を『シン・ゴジラ』が踏まえていることはこのことからも理解できる。

 2016年の『シン・ゴジラ』は、初代『ゴジラ』(1954年)への強いリスペクトと東日本大震災であらわになったものが背景にある。一方、1954年の初代『ゴジラ』は、前回までの考察で、戦後日本の当時の状況と科学文明への強い懐疑から成立したことを明らかにした。加えて、日本文化の総体を濃く反映していると、前稿の最後で指摘をした。今回は引き続き、初代のゴジラとは何者だったのかを考察したい。
 まず、前回述べていることだが、〈ゴジラは核被害の喩〉だった。これは第五福竜丸事件の影響下での映画製作、ヒロシマナガサキの原爆被害への作品内での言及から了解できる。
 次に〈大東亜戦争(太平洋戦争)の傷の喩〉という点についても前回に芹沢博士の背負うものに焦点を当てて考察した。むろん、空襲被害や戦争未亡人らしき人物の描写からも〈戦争の傷の喩〉は補強できる。しかしそればかりではない。もうすこし細やかに戦争との関連を見ていくといくつかの重要な要素が指摘できる。
 まず、ゴジラは南洋の〈戦死者たちの喩〉であろうということが、これまでも多く指摘されてきた。大東亜戦争(太平洋戦争)において傷ついた、あるいは死亡した兵士たちが、日本を目指したというのだ。従って、ゴジラは東京、そして戦争を指導した者たちが集った国会議事堂を必然的に目指した。次に当然のように皇居を目指そうとするが、なぜか皇居は迂回して海(東京湾)に帰っていく。
 なぜ皇居を破壊しなかったのかという問題にはこれまでも多くの議論があるが、最も単純な意見は、映画の中であっても皇居破壊は心理的タブーとしてタッチできなかったに違いない、というもの。当時の人々、特に戦前教育を受けた世代にとって、皇居=天皇は不可侵だったことは間違いない。当然、映画会社はそれを忖度するだろうし、戦前教育を受けた製作者たちにとってもタブーだったに違いない。対して穿った見方としては、すでに当時は〈人間天皇〉となっていたために、ゴジラは空白の神=天皇の皇居を迂回せざるを得なかったというもの。あるいは、復讐心をもつゴジラ=戦死者でさえ、皇居は踏み込めない禁忌領域なのだという考え方もある。いずれにせよ、皇居=天皇が、日本にとって特殊な領域であることは窺い知ることができる。
 もうひとつ〈戦死者たちの喩〉を補強する重要な事実がある。それは、映画におけるゴジラの出現日が「8月13日」であることだ。この「8月13日」にゴジラが現れることは作品本編での海上保安庁のオペレーションの台詞で確認することができる。この件については、これまで論じられた文章を知らないので、ことさらここで指摘しておきたいが、日本の宗教慣習としては、「8月13日」は太陽暦での盂蘭盆会の入り、御招待霊(おしょうれい、或いは、おしょうらい)の日である。つまり、お盆のお迎えのことで、言うまでもなく、死者の霊があの世から帰ってくる日なのだ。これほど戦死者たちがゴジラとなって帰ってくるにふさわしい日はないではないか。
 しかも、このゴジラに関わっていく主人公のひとり、尾形秀人(宝田昭扮する)の所属する会社は「南海サルベージ」というのだ。「サルベージ」=沈んだものを引き揚げること、という名称からも、容易に太平洋の死者たちの引き揚げが連想できる。これらからゴジラは大東亜戦争(太平洋戦争)での〈戦死者たちの喩〉であることが確認できるのである。
 ゴジラは日本文化の総体を濃く反映していると前述した理由に、この仏教慣習からの影響を指摘したが、そればかりではない。
 そもそもゴジラの名称自体が、映画内では最初の舞台になる小笠原諸島の大戸島に祀られている神(祟り神)「呉爾羅」に由来している。大戸島でのエピソードでは、呉爾羅が恐ろしい怪物で、神として崇め、祟りを鎮めるために神楽が奉納される印象的なシーンが描かれている。このことから、ゴジラとは〈祟り神〉であり、鎮められるべき存在だと示されている。この発想自体が、日本文化の深層に根差しているといえるのではないだろうか。
 つまり、ゴジラは〈戦死者たちの喩〉であることと〈いにしえの祟り神の喩〉であることから、二重の意味で鎮められねばならなかったのである。
最後に、ゴジラは〈災害の喩〉、とりわけ映画では〈颱風の喩〉になっていることも指摘しておきたい。颱風災害は日本列島の住まう人々にとって大昔から切実な問題だったはずだ。映画におけるゴジラの最初の上陸は、大戸島の嵐(颱風)の夜である。颱風と同時にゴジラが上陸したことからも、〈ゴジラ=災害(颱風)〉が容易に理解できる喩になっている。
 このゴジラが天災であるという初代作品での意識は、列島におけるおそらく古代からの人々の意識に根差している。この部分は、本稿初回で比較した『キング・コング』(1933年)と大きく異なるところだ。キング・コングは科学と対極の自然の喩であった。映画においてキング・コングは科学文明に征服される対象として位置づけられたが、初代のゴジラは天災でそもそも根絶は不可能であり、征服されるべき対象ではなかったのである。
キング・コングは、西洋科学文明にとって倒すべき、征服すべき敵(自然)であった。初代ゴジラは、〈自然=災害の喩〉であり、〈戦死者たちの喩〉であり、〈核被害の喩〉である。従って、どれほど荒ぶろうとも、日本人にとっては鎮めなければならない対象なのである。
 そのため作品中では、ゴジラを殺すことに躊躇が表明されもするし、芹沢博士(平田昭彦扮する)という責任を取るかのように死を選ぶ人物も配される。劇中の音楽は、いずれも哀調を帯びるものであり、決して勇壮なものではない。初代ゴジラでは、人々はどこかゴジラに対して同情的であり、みずからがこの災厄(ゴジラ)の責任の一端を引き受けているかのように伺えてならないのだ。それはこれまで考察してきたように、ゴジラが〈自然=災害の喩〉であり、〈戦死者たちの喩〉であり、〈核被害の喩〉であり、いわば〈まつろわぬ神の喩〉なのであり、鎮められるべきものだったからにほかならない。この鎮める意識の根底にあるのは、鎮めるべき対象との共生観と考えていいだろう。そこに日本文化の総体の濃い反映を見るのである。
 ゴジラとは何者かという問いは、ひとまずゴジラそのものがここに指摘してきた重層的な喩であって、日本文化の総体に根差していることの確認はできた。さらに『シン・ゴジラ』と初代『ゴジラ』との比較検討などに、指摘可能な領域が残されているがそれは他稿に引継いでいきたい。
(了)


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