有名なネス湖のネッシーは、映画『キング・コング』(1933年)の世界的ヒットによって幻視されたものではないか、と前回ふれた。この世には近代文明社会の知らない生き物がまだ存在しているのではないか、という当時の人々の畏れを、皮肉なことに近代の産物である映画が誘発したのだ。〈怪獣〉は未知であり、反文明であり、自然の喩であり、いわば近代文明社会を光とするならば、光が生み出した闇に相当するものが〈怪獣〉だった。
とりわけ、「キング・コング」は当時のアメリカ社会が生み出した〈怪獣〉だった。近代文明・科学文明のアンチの喩であるばかりでなく、制作時期を考えれば大恐慌後の資本主義社会の不安の喩でもあっただろう。また、よく指摘されることではあるが、キング・コングは白人中心社会における差別的な黒人の喩でもあった。
映画『キング・コング』では、白人の主人公たちが訪れる「髑髏島」の原住民が、当時の感覚で表現するならば、半裸で羽飾りの〈南洋の土人の典型〉として描かれている。そして、この原住民以外には非白人は映画に登場しない。物語の後半、アメリカ本土が舞台になり、コングがマンハッタンで暴れる展開になるが、そのシーンの登場人物は群衆までもが白人ばかりだ。つまり、白人中心社会から見た異物が「キング・コング」であり、その顔は黒く表現されていることもあって、黒人の喩と容易に分かる構図になっている。
ここで映画の後半のあらすじを説明しよう。「髑髏島」で捕らえられた「キング・コング」はNYで見世物にされる。記者のカメラフラッシュに興奮したコングは暴れだし、マンハッタンのビル街を逃走し、パニックを引き起こす。ついには「髑髏島」での出会いから執着していた女性をさらって、当時世界一の高さを誇ったエンパイアステートビルをよじ登り、その屋上で軍の飛行機の攻撃を受けて転落して死亡する。さらわれた女性は無事救われる一方、地上に横たわる「キング・コング」に対して、男が「飛行機に殺されたんじゃない。美女に殺されたんだよ」とうそぶいて映画は終わる。
このあらすじから、反文明=自然の喩として「キング・コング」像が浮かび上がる。南洋の未開の島のジャングルの王者であり、神と畏れられる怪獣という、最も近代科学西洋文明から遠い存在がコングだった。そのコングを白人社会は、映画では実際に〈鎖でつなぎ〉見世物にするのである。今日の視点からすれば、いかにも白人の西洋文明中心の傲慢ともとれる価値観が見て取れる。また、異文明の神がコングであることに注意するならば、ここにキリスト教の異神への容赦ない攻撃性を見ることもできるだろう。
そもそも、近代における見世物には、近代化から取り残された未知、あるいは影を、陽の光の下で人々が覗き見るという性格があったのではないか。例えば〈動物園〉という見世物も、この範疇に入るはずなのだ。動物を分類し檻に閉じ込める行為は、自然を飼いならし見世物にすることに他ならない。そういえば、1933年のこの映画から遡ること約半世紀以前から、西洋文明社会では〈人間動物園〉と呼ばれるものが存在していた。万国博覧会をはじめ様々な博覧会に、諸未開民族の人間と風俗がごく普通に展示展覧されていたのである。有名な〈人間動物園〉としては、1889年のフランスのパリでの万国博覧会のそれが挙げられる。こうしたパビリオンの展示は形を変えつつ1950年代まで続けられる。そうしてみると「キング・コング」を支配する価値観は、当時ならばそれほど違和感なく受け入れられるものだったと言えるだろう。とりわけ西洋文明圏に顕著に。
さて、特に重要な部分は、「キング・コング」が反科学文明の喩という点だろう。そしてさらに重要なのは、科学文明に征服される存在だという点である。
見世物のコングがカメラのフラシュが切っ掛けで暴れだすシーンが象徴的だが、科学文明の生み出す〈光〉が野生=自然の〈闇〉を照らしだすという構図により、コングの存在は未開の自然の喩なのだと語っている。コングが暴れだして、マンハッタンという世界最大の都市、西洋文明の極致の都市が搔き乱される。たいへん分かりやすい、文明と野生の対比が成立している。そしてついには、野生は科学文明に射殺される結末を迎える。
映画『キング・コング』の1933年当時、世界最先端の近代兵器は〈飛行機〉だった。現在とは比較にならない性能のプロペラ機の戦闘機だが、当時としては最高の科学兵器であった。怪獣「キング・コング」は、あわれにも白人の女性に恋慕し、追われて近代都市の摩天楼に登り、その頂上で科学兵器に殺されるのである。
西洋白人文明の視座からすれば、野生=自然は科学に征服されるべきものなのだ、ということだろう。西洋文明に抗するもの、あるいは異質なものは、科学文明によって制圧される。また、このような見方もできる。白人の女性は至高の美であり、それに異人たちは羨望するだろうが、異人が手を出せば罰せられるべきである、と。いずれにせよ、怪獣「キング・コング」を取り巻く物語は、白人西洋文明が至上とされる世界観が生み出した歪みが幾重にも取り巻くものであった。しかしひとまずひかえめに擁護するならば、『キング・コング』は当時のハリウッド社会にとっては当然すぎる価値観の成果だったと言えるだろうし、また世界的にヒットしたわけなのでエンタテインメントとして成功したことは間違いないのである。
最後に重要な点として、映画ラストの台詞「飛行機に殺されたんじゃない。美女に殺されたんだよ」に注目したい。ここには、科学兵器に無残に殺されたコングに対して一欠片の同情もない。あるのは、侮蔑的な態度である。考えてもみてほしい。コングは南洋の孤島の神だったものを無理やり拉致され、NYで鎖に繋がれ見世物にされ、逃げ出したところを追い回され、追い詰められて撃ち殺されたのである。責められる要素はどこにもないばかりか、コングの方は被害者にすぎない。この哀れな存在に、一欠片の同情の言葉もかけることなく映画は幕を閉じるである。この異神への不寛容を、キリスト教原理主義の傲慢ととらえてもいいだろう。また、他者他文明との共感の欠如を、当時の西洋文明の限界ととらえてもいいだろう。こうした要素は、初代『ゴジラ』を見つめるうえでたいへん大事な補助線となってくるはずなのでここで指摘しておきたい。
次回は、この『キング・コング』と1954年の初代『ゴジラ』との比較から話を始めたい。
とりわけ、「キング・コング」は当時のアメリカ社会が生み出した〈怪獣〉だった。近代文明・科学文明のアンチの喩であるばかりでなく、制作時期を考えれば大恐慌後の資本主義社会の不安の喩でもあっただろう。また、よく指摘されることではあるが、キング・コングは白人中心社会における差別的な黒人の喩でもあった。
映画『キング・コング』では、白人の主人公たちが訪れる「髑髏島」の原住民が、当時の感覚で表現するならば、半裸で羽飾りの〈南洋の土人の典型〉として描かれている。そして、この原住民以外には非白人は映画に登場しない。物語の後半、アメリカ本土が舞台になり、コングがマンハッタンで暴れる展開になるが、そのシーンの登場人物は群衆までもが白人ばかりだ。つまり、白人中心社会から見た異物が「キング・コング」であり、その顔は黒く表現されていることもあって、黒人の喩と容易に分かる構図になっている。
ここで映画の後半のあらすじを説明しよう。「髑髏島」で捕らえられた「キング・コング」はNYで見世物にされる。記者のカメラフラッシュに興奮したコングは暴れだし、マンハッタンのビル街を逃走し、パニックを引き起こす。ついには「髑髏島」での出会いから執着していた女性をさらって、当時世界一の高さを誇ったエンパイアステートビルをよじ登り、その屋上で軍の飛行機の攻撃を受けて転落して死亡する。さらわれた女性は無事救われる一方、地上に横たわる「キング・コング」に対して、男が「飛行機に殺されたんじゃない。美女に殺されたんだよ」とうそぶいて映画は終わる。
このあらすじから、反文明=自然の喩として「キング・コング」像が浮かび上がる。南洋の未開の島のジャングルの王者であり、神と畏れられる怪獣という、最も近代科学西洋文明から遠い存在がコングだった。そのコングを白人社会は、映画では実際に〈鎖でつなぎ〉見世物にするのである。今日の視点からすれば、いかにも白人の西洋文明中心の傲慢ともとれる価値観が見て取れる。また、異文明の神がコングであることに注意するならば、ここにキリスト教の異神への容赦ない攻撃性を見ることもできるだろう。
そもそも、近代における見世物には、近代化から取り残された未知、あるいは影を、陽の光の下で人々が覗き見るという性格があったのではないか。例えば〈動物園〉という見世物も、この範疇に入るはずなのだ。動物を分類し檻に閉じ込める行為は、自然を飼いならし見世物にすることに他ならない。そういえば、1933年のこの映画から遡ること約半世紀以前から、西洋文明社会では〈人間動物園〉と呼ばれるものが存在していた。万国博覧会をはじめ様々な博覧会に、諸未開民族の人間と風俗がごく普通に展示展覧されていたのである。有名な〈人間動物園〉としては、1889年のフランスのパリでの万国博覧会のそれが挙げられる。こうしたパビリオンの展示は形を変えつつ1950年代まで続けられる。そうしてみると「キング・コング」を支配する価値観は、当時ならばそれほど違和感なく受け入れられるものだったと言えるだろう。とりわけ西洋文明圏に顕著に。
さて、特に重要な部分は、「キング・コング」が反科学文明の喩という点だろう。そしてさらに重要なのは、科学文明に征服される存在だという点である。
見世物のコングがカメラのフラシュが切っ掛けで暴れだすシーンが象徴的だが、科学文明の生み出す〈光〉が野生=自然の〈闇〉を照らしだすという構図により、コングの存在は未開の自然の喩なのだと語っている。コングが暴れだして、マンハッタンという世界最大の都市、西洋文明の極致の都市が搔き乱される。たいへん分かりやすい、文明と野生の対比が成立している。そしてついには、野生は科学文明に射殺される結末を迎える。
映画『キング・コング』の1933年当時、世界最先端の近代兵器は〈飛行機〉だった。現在とは比較にならない性能のプロペラ機の戦闘機だが、当時としては最高の科学兵器であった。怪獣「キング・コング」は、あわれにも白人の女性に恋慕し、追われて近代都市の摩天楼に登り、その頂上で科学兵器に殺されるのである。
西洋白人文明の視座からすれば、野生=自然は科学に征服されるべきものなのだ、ということだろう。西洋文明に抗するもの、あるいは異質なものは、科学文明によって制圧される。また、このような見方もできる。白人の女性は至高の美であり、それに異人たちは羨望するだろうが、異人が手を出せば罰せられるべきである、と。いずれにせよ、怪獣「キング・コング」を取り巻く物語は、白人西洋文明が至上とされる世界観が生み出した歪みが幾重にも取り巻くものであった。しかしひとまずひかえめに擁護するならば、『キング・コング』は当時のハリウッド社会にとっては当然すぎる価値観の成果だったと言えるだろうし、また世界的にヒットしたわけなのでエンタテインメントとして成功したことは間違いないのである。
最後に重要な点として、映画ラストの台詞「飛行機に殺されたんじゃない。美女に殺されたんだよ」に注目したい。ここには、科学兵器に無残に殺されたコングに対して一欠片の同情もない。あるのは、侮蔑的な態度である。考えてもみてほしい。コングは南洋の孤島の神だったものを無理やり拉致され、NYで鎖に繋がれ見世物にされ、逃げ出したところを追い回され、追い詰められて撃ち殺されたのである。責められる要素はどこにもないばかりか、コングの方は被害者にすぎない。この哀れな存在に、一欠片の同情の言葉もかけることなく映画は幕を閉じるである。この異神への不寛容を、キリスト教原理主義の傲慢ととらえてもいいだろう。また、他者他文明との共感の欠如を、当時の西洋文明の限界ととらえてもいいだろう。こうした要素は、初代『ゴジラ』を見つめるうえでたいへん大事な補助線となってくるはずなのでここで指摘しておきたい。
次回は、この『キング・コング』と1954年の初代『ゴジラ』との比較から話を始めたい。
(第二回 了)
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