渡辺玄英「シンゴジラへの道」全4回

2016年12月から2017年3月第4土曜日の4回渡辺玄英「シンゴジラへの道」を掲載いたします。

煮込まれてゆく言葉たち 門脇 篤史

2017-03-29 10:38:10 | 日記
 真夜中に突然何かを煮込みたくなることがある。
 牛すじでも、豚バラブロックでも、カレーでも、ある程度時間を要するものであれば煮込む対象物はなんでもいい。でも、できれば肉類の方がいい。脂が溶け出し、筋繊維の一本一本がほぐれていくのにあわせて、自分の中に澱んでいた諸々が溶け出す、そんな感覚がある。
 精神的に苦しいとき、豚バラの塊を買ってきて、一時間以上かけてチャーシューをこしらえる。圧力鍋を使っては意味がない。水からゆっくりと煮込む。時々、鍋をのぞき込んでは、透明だった水が白濁していくのを確認し、火がとおり切ったら醤油だれに移してまたしばらく煮る。豚肉が褐色になり、醤油だれの表面が肉から溶け出した脂で覆われるころには、少しだけ身体が軽くなった、ような気がする。
 これを第三者に理解してもらうのはとても難しい。そもそも、自分でも何が起きているのかよくわからない。結婚する前は誰かに説明する必要なんてなかったのだが、夜更けにいそいそと夫が獣肉を煮込み始めると、妻は当然に驚くので、なんとなく説明をする必要が生じた。少し考えて抽象的な説明を試みるがうまくいかない。妻は納得しないし、私もいまいち納得できない。そのうち妻は説明を求めなくなったが、それでも、この感覚を伝えられないもやもやは澱のように残る。
 短歌に出会ったとき、これかも知れないと思った。短歌には、この感覚を誰かに伝える可能性があるのではないか。論理を超えて、もっと直接的に言葉が語りかける可能性があるのではないか。

ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は 
穂村弘『シンジケート』

サラリーマン向きではないと思ひをりみーんな思ひをり赤い月見て
田村元『北二十二条西七丁目』

たはむれに美香と名づけし街路樹はガス工事ゆゑ殺されてゐた
荻原裕幸『甘藍派宣言』

あけがたは耳さむく聴く雨だれのポル・ポトいふ名を持つをとこ
大辻󠄀隆弘『抱擁韻』

 
 短歌との出会いと前後して知ったこれらの歌から、前述の可能性のようなものを感じた。「冷蔵庫の玉子置き場」というあまりに限定された場所に落ちていく涙も、呻きのような述懐を照らす「赤い月」も、「美香と名付けた街路樹」の死に対する狂気寸前の悲しみも、序詞に導き出されて滑らかにあらわれる独裁者も、意味情報とは別に、もっと深いところに降りきて私を揺さぶった。最初は自分がなにに感動しているのかよくわからなかったが、先人の歌を読んでいく中で、定型に言葉を圧縮する過程で醸成されるものがあるんだろうと、なんとなく納得した。
 これらの歌について、その感動の源泉を明らかにしようと試みた文章を目にしたり、あるいは先輩歌人から聞いたりすることがある。その都度、その言説に対して、納得したり、反発を覚えたりする。畢竟、特定の歌についての言説は歌から享受したなにかを伝えようとする試みに他ならず、論理的に説明しようとすると言葉にできない部分から離れてしまい、言葉にできない部分に近づきすぎると、多義的かつ抽象的な言葉を用いることになり、客観性を欠くことになる。作者の自解であったとしても事情は変わらない。それでも、歌の根源にある本質的ななにかを伝えるために言葉を尽くす営為に対して、心から感動するし、どれだけ言葉を尽くしても十全に語ることができない三一文字に対してある種の畏怖のようなものを感じる。
 短歌を作り始めて幾年か経ったが、結局最初に述べた感覚を他者に伝えることはできていないと思う。けれども、日常の中の言語化できない領域を少しだけ照らすことができたときに、「ああ、近づいているな」という感覚が自分の中に薄くともる。私の場合、文語の方が、旧かなの方が「近づいている」気がする。それは、文語や旧かなが内包しているものがあまりに豊かだからだろう。口語新かなでできた日常を、文語旧かなという非日常的なものに変換する過程で生まれるなにかに私は賭けているのかも知れない。その過程でこぼれ落ちるものはたくさんあるが、それを捨象することを今は恐れない。
 今夜も私は堅牢な牛すね肉を煮込み、カレーを作る。肉から脂が溶け出し、固くこわばった赤身の肉がほぐれていく時間にひたりながら、一首の歌をなにとはなしに紡ぐのだ。そこに、私が意図した以上のものがともることを祈りながら、ガスコンロの前にちいさな椅子を置いて、じっとしている。


連載エッセー シン・ゴジラへの道 最終回 ゴジラとは何者だったのか 渡辺 玄英

2017-03-18 13:41:29 | 日記
 東日本大震災から六年が過ぎた。この文章の初回に、『シン・ゴジラ』でのゴジラの出現日「11月3日」が、震災発生日「3月11日」を反転させたものであり、かなり直接的にこの大震災を意識して作品が成立していると書いた。描写には津波被害を連想させるところが随所にあったばかりでなく、シン・ゴジラの最終上陸後の進行ルートは「フクシマ」を目指した直線的なものだったと指摘した。
 その文章で「ゴジラは、太田区から東京駅方向への直線的に進行」という部分に間違いがあったのでここで訂正するが、シン・ゴジラの最初の上陸が大田区で、最終上陸は鎌倉から東京駅へのルートを進んでいる。従って「ゴジラは、鎌倉に上陸して東京駅方向へ、フクシマを目指してほぼ直線的に進行」が正しいので改めておきたい。
 いずれにせよ、上陸後、東京駅付近に至ったところで映画は終わるが、この進行ルート自体に「フクシマを目指す」という意図があったことは間違いないだろう。さらに指摘しておきたいのは、最終上陸を開始する相模湾(鎌倉沖)は関東大震災の震源地であることだ。つまり、『シン・ゴジラ』のゴジラの最終上陸進路は、「関東大震災の震源地」から進行し、ほぼ直線的に「東日本大震災のフクシマ」を目指している。このことから、二つの巨大震災を結ぶ意図を読み取ることが出来る。大震災と原発メルトダウンという、日本が未来にわたって背負い続けねばならない問題の軸線上を、ゴジラは進行したのだった。
 また、もうひとつ指摘し忘れていたが、『シン・ゴジラ』のゴジラ出現日「11月3日」は、『ゴジラ』が封切られた日でもあった。1954年11月3日に初代『ゴジラ』は公開されたのだった。初代作を『シン・ゴジラ』が踏まえていることはこのことからも理解できる。

 2016年の『シン・ゴジラ』は、初代『ゴジラ』(1954年)への強いリスペクトと東日本大震災であらわになったものが背景にある。一方、1954年の初代『ゴジラ』は、前回までの考察で、戦後日本の当時の状況と科学文明への強い懐疑から成立したことを明らかにした。加えて、日本文化の総体を濃く反映していると、前稿の最後で指摘をした。今回は引き続き、初代のゴジラとは何者だったのかを考察したい。
 まず、前回述べていることだが、〈ゴジラは核被害の喩〉だった。これは第五福竜丸事件の影響下での映画製作、ヒロシマナガサキの原爆被害への作品内での言及から了解できる。
 次に〈大東亜戦争(太平洋戦争)の傷の喩〉という点についても前回に芹沢博士の背負うものに焦点を当てて考察した。むろん、空襲被害や戦争未亡人らしき人物の描写からも〈戦争の傷の喩〉は補強できる。しかしそればかりではない。もうすこし細やかに戦争との関連を見ていくといくつかの重要な要素が指摘できる。
 まず、ゴジラは南洋の〈戦死者たちの喩〉であろうということが、これまでも多く指摘されてきた。大東亜戦争(太平洋戦争)において傷ついた、あるいは死亡した兵士たちが、日本を目指したというのだ。従って、ゴジラは東京、そして戦争を指導した者たちが集った国会議事堂を必然的に目指した。次に当然のように皇居を目指そうとするが、なぜか皇居は迂回して海(東京湾)に帰っていく。
 なぜ皇居を破壊しなかったのかという問題にはこれまでも多くの議論があるが、最も単純な意見は、映画の中であっても皇居破壊は心理的タブーとしてタッチできなかったに違いない、というもの。当時の人々、特に戦前教育を受けた世代にとって、皇居=天皇は不可侵だったことは間違いない。当然、映画会社はそれを忖度するだろうし、戦前教育を受けた製作者たちにとってもタブーだったに違いない。対して穿った見方としては、すでに当時は〈人間天皇〉となっていたために、ゴジラは空白の神=天皇の皇居を迂回せざるを得なかったというもの。あるいは、復讐心をもつゴジラ=戦死者でさえ、皇居は踏み込めない禁忌領域なのだという考え方もある。いずれにせよ、皇居=天皇が、日本にとって特殊な領域であることは窺い知ることができる。
 もうひとつ〈戦死者たちの喩〉を補強する重要な事実がある。それは、映画におけるゴジラの出現日が「8月13日」であることだ。この「8月13日」にゴジラが現れることは作品本編での海上保安庁のオペレーションの台詞で確認することができる。この件については、これまで論じられた文章を知らないので、ことさらここで指摘しておきたいが、日本の宗教慣習としては、「8月13日」は太陽暦での盂蘭盆会の入り、御招待霊(おしょうれい、或いは、おしょうらい)の日である。つまり、お盆のお迎えのことで、言うまでもなく、死者の霊があの世から帰ってくる日なのだ。これほど戦死者たちがゴジラとなって帰ってくるにふさわしい日はないではないか。
 しかも、このゴジラに関わっていく主人公のひとり、尾形秀人(宝田昭扮する)の所属する会社は「南海サルベージ」というのだ。「サルベージ」=沈んだものを引き揚げること、という名称からも、容易に太平洋の死者たちの引き揚げが連想できる。これらからゴジラは大東亜戦争(太平洋戦争)での〈戦死者たちの喩〉であることが確認できるのである。
 ゴジラは日本文化の総体を濃く反映していると前述した理由に、この仏教慣習からの影響を指摘したが、そればかりではない。
 そもそもゴジラの名称自体が、映画内では最初の舞台になる小笠原諸島の大戸島に祀られている神(祟り神)「呉爾羅」に由来している。大戸島でのエピソードでは、呉爾羅が恐ろしい怪物で、神として崇め、祟りを鎮めるために神楽が奉納される印象的なシーンが描かれている。このことから、ゴジラとは〈祟り神〉であり、鎮められるべき存在だと示されている。この発想自体が、日本文化の深層に根差しているといえるのではないだろうか。
 つまり、ゴジラは〈戦死者たちの喩〉であることと〈いにしえの祟り神の喩〉であることから、二重の意味で鎮められねばならなかったのである。
最後に、ゴジラは〈災害の喩〉、とりわけ映画では〈颱風の喩〉になっていることも指摘しておきたい。颱風災害は日本列島の住まう人々にとって大昔から切実な問題だったはずだ。映画におけるゴジラの最初の上陸は、大戸島の嵐(颱風)の夜である。颱風と同時にゴジラが上陸したことからも、〈ゴジラ=災害(颱風)〉が容易に理解できる喩になっている。
 このゴジラが天災であるという初代作品での意識は、列島におけるおそらく古代からの人々の意識に根差している。この部分は、本稿初回で比較した『キング・コング』(1933年)と大きく異なるところだ。キング・コングは科学と対極の自然の喩であった。映画においてキング・コングは科学文明に征服される対象として位置づけられたが、初代のゴジラは天災でそもそも根絶は不可能であり、征服されるべき対象ではなかったのである。
キング・コングは、西洋科学文明にとって倒すべき、征服すべき敵(自然)であった。初代ゴジラは、〈自然=災害の喩〉であり、〈戦死者たちの喩〉であり、〈核被害の喩〉である。従って、どれほど荒ぶろうとも、日本人にとっては鎮めなければならない対象なのである。
 そのため作品中では、ゴジラを殺すことに躊躇が表明されもするし、芹沢博士(平田昭彦扮する)という責任を取るかのように死を選ぶ人物も配される。劇中の音楽は、いずれも哀調を帯びるものであり、決して勇壮なものではない。初代ゴジラでは、人々はどこかゴジラに対して同情的であり、みずからがこの災厄(ゴジラ)の責任の一端を引き受けているかのように伺えてならないのだ。それはこれまで考察してきたように、ゴジラが〈自然=災害の喩〉であり、〈戦死者たちの喩〉であり、〈核被害の喩〉であり、いわば〈まつろわぬ神の喩〉なのであり、鎮められるべきものだったからにほかならない。この鎮める意識の根底にあるのは、鎮めるべき対象との共生観と考えていいだろう。そこに日本文化の総体の濃い反映を見るのである。
 ゴジラとは何者かという問いは、ひとまずゴジラそのものがここに指摘してきた重層的な喩であって、日本文化の総体に根差していることの確認はできた。さらに『シン・ゴジラ』と初代『ゴジラ』との比較検討などに、指摘可能な領域が残されているがそれは他稿に引継いでいきたい。
(了)


連載エッセー シン・ゴジラへの道 第3回 ゴジラという戦後 渡辺 玄英

2017-02-14 08:25:42 | 日記
 1970年、カンヌ国際映画祭でパルムドール賞を『MASH』(ロバート・アルトマン監督)が受賞する。朝鮮戦争でのアメリカ陸軍野戦病院を舞台にしたブラックコメディだ。凄惨な戦争の現実は、狂った悪ふざけでしか中和できないことが観客に伝わってくる名作だった。当時アメリカはベトナム戦争のさ中であり、本作は朝鮮戦争に材をとったベトナム戦争反戦映画と解釈できる。カンヌでは、この後の十年間に、『タクシー・ドライバー』と『地獄の黙示録』もパルムドールを受賞するが、ベトナム戦争の狂気に染まるこの二作品と『MASH』を見るだけでも、当時のアメリカが如何にベトナム戦争の傷を深く受けていたか理解できるだろう。
 話を朝鮮戦争の時代に戻そう。北朝鮮軍は1950年6月に侵攻を開始し、8月には半島の大部分を勢力下に収める。韓国軍と米軍は釜山に追い詰められてしまい、朝鮮半島から撤退するか、釜山を死守するかの局面(釜山橋頭保の戦い)になっており、そのころには日本においても厳しい戦況が新聞等で報道されていた。
 この状況が、当時の占領下の日本に影響を及ぼさないわけがなく、1950年8月に現在の自衛隊のルーツにあたる〈警察予備隊〉が設置されている。つまり、朝鮮戦争のために占領していた米軍の大半が半島に移動し、また日本にも飛び火しかねない情勢が、警察予備隊、ひいては自衛隊を生んだのである。さらに、翌年51年にはサンフランシスコ講和条約が結ばれ、52年4月に日本は占領下から抜け出すことになる。また、朝鮮戦争による特需が、戦後日本の高度経済成長の切っ掛けになったわけであり、朝鮮戦争という出来事がなければ、敗戦後の日本の歴史は別のコースを辿っていたかもしれない。

 映画『ゴジラ』はこうした時代に誕生した。1954年11月に封切られると、一番館(封切館)だけで900万人を超える観客動員を記録する異例の大ヒットになる。説明するまでもなく、日本の怪獣映画の原型であり、2016年の『シン・ゴジラ』への道のりの始まりであった。
 この作品の切っ掛けは、1954年3月の〈第五福竜丸事件〉だった。ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験のため、近海で操業していた第五福竜丸は死の灰を浴び、乗員たちが被曝した。かれらは無線を絶ち、気取られないように日本を目指したという。もし自分たちが被曝したことをアメリカに知られると、証拠封じのために船諸共沈められることを恐れたのだった。日本に帰還したかれらはこの事実を報告し、水爆実験の巻き起こした悲劇が世界的に知られることになった。その後、乗員の一名がこの被曝により死亡している。広島長崎に続く核の犠牲者だった。
 3月の第五福竜丸事件を切っ掛けに、初代の『ゴジラ』(本多猪四郎監督、円谷英二特技監督、1954年東宝映画)が企画される。まだ占領が終わって、二年余り。同じ年の7月に自衛隊が発足したばかりのためか、映画の劇中では、軍事組織の名称が安定しておらず、防衛隊と呼ばれている。そして何より注意したいのは、大東亜戦争(太平洋戦争)の大敗北から九年しか経っていないのである。想像してもらいたい。ほとんどの日本人が悲惨な戦争の体験者なのだ。傷を負い、死線をくぐり、友人や家族を失った人たちばかり。空襲を経験し、夜空にB29爆撃機を見あげ、火に追われ、焼野原と焼死体を知っている人たち。戦後の混乱と食糧難、衣食住を確保する苦労を経験し、闇市を当たり前の風景として知っていた人たち。朝鮮戦争が始まったとき、また戦争になるのではと恐れた人たち。こうした人たちが、初代の『ゴジラ』を作ったのだった。わたしたちはその事実を忘れてはならない。それを前提にしなくては『ゴジラ』の理解は困難に違いないのだ。戦争の惨禍を経験し、やっと復興の手ごたえを人々が感じていた時期に生まれた『ゴジラ』は、間違いなく時代の落とし子なのだった。
 初代『ゴジラ』には、こうした戦争の傷跡が随所に見られる。具体的なシーンとしては、国電の車内でゴジラを話題にする男女が、長崎で原爆を逃れたのに今度は水爆の影響で現れたゴジラに怯えなくてはならないと愚痴をこぼす場面の「折角、長崎の原爆から、命びろいしてきた大切な、身体なんだもの」という台詞や、ゴジラが破壊する銀座のビル街で、おそらくは戦争未亡人の母親が娘を抱きしめながら「お父ちゃまの処へ行くのよ、ね、もうすぐもうすぐお父ちゃまの処へ行くのよ」と語る場面がある。そして、ゴジラを屠る〈オキシジェン・デストロイヤー〉の開発者、芹沢大助博士は戦争で右目を失っている。
 芹沢博士は『ゴジラ』の真の主人公といえる重要な人物だ。表層的には尾形秀人(宝田昭)と山根恵美子(河内桃子)、その父親の山根博士(志村喬)の露出が多く、とりわけ恋人同士である尾形と山根恵美子の二人を軸に物語は進んでいくが、芹沢(平田昭彦)が担ういくつもの葛藤こそがドラマに深い陰影を与えている。
 敗戦後の日本という時代背景から『ゴジラ』を読み解く場合、本作が〈戦争の傷〉をどのように描こうとしたかは重要な問題になる。芹沢は、劇中において最も心身に戦争の傷を負った人物であり、戦時中の軍事研究の罪悪感に苛まれ、科学の可能性と危険性に引き裂かれる人物であり、ゴジラという一種の神、あるいは怒れる自然、あるいは核が引き起こした惨禍を、我が身をもって鎮める役割を引き受けた存在なのだ。
 芹沢の婚約者だった山根恵美子は、いまや尾形と恋仲であり、恋愛においても芹沢は傷を負っている。映画の最後に芹沢は、恵美子と尾形という戦争禍を感じさせない新時代の恋人たちに「幸福に暮らせ」と言い残して死を選ぶ。旧時代(戦争の責任)に自分なりの決着をつけて、新時代に希望を託して滅んでいった(滅びるほかなかった)、とも解釈できる。
 前稿では、映画『キング・コング』が当時のアメリカの文化状況を反映し、白人西洋文明と科学至上主義の視点から成立した作品であると指摘した。一方、『ゴジラ』は日本の戦後状況と科学文明への懐疑から成立した時代の落とし子と言えるだろう。加えて、当然ながら日本文化の総体から深い影響を受けている。第三回の本稿では、まず『ゴジラ』と敗戦後の世相との関係から考察してみた。次回では『ゴジラ』とは何者なのかをさらに考えてみたい。
(第三回 了)


連載エッセー シン・ゴジラへの道 第2回 誰がキング・コングを殺したのか 渡辺 玄英

2017-02-06 20:35:03 | 日記
 有名なネス湖のネッシーは、映画『キング・コング』(1933年)の世界的ヒットによって幻視されたものではないか、と前回ふれた。この世には近代文明社会の知らない生き物がまだ存在しているのではないか、という当時の人々の畏れを、皮肉なことに近代の産物である映画が誘発したのだ。〈怪獣〉は未知であり、反文明であり、自然の喩であり、いわば近代文明社会を光とするならば、光が生み出した闇に相当するものが〈怪獣〉だった。
 とりわけ、「キング・コング」は当時のアメリカ社会が生み出した〈怪獣〉だった。近代文明・科学文明のアンチの喩であるばかりでなく、制作時期を考えれば大恐慌後の資本主義社会の不安の喩でもあっただろう。また、よく指摘されることではあるが、キング・コングは白人中心社会における差別的な黒人の喩でもあった。
 映画『キング・コング』では、白人の主人公たちが訪れる「髑髏島」の原住民が、当時の感覚で表現するならば、半裸で羽飾りの〈南洋の土人の典型〉として描かれている。そして、この原住民以外には非白人は映画に登場しない。物語の後半、アメリカ本土が舞台になり、コングがマンハッタンで暴れる展開になるが、そのシーンの登場人物は群衆までもが白人ばかりだ。つまり、白人中心社会から見た異物が「キング・コング」であり、その顔は黒く表現されていることもあって、黒人の喩と容易に分かる構図になっている。

 ここで映画の後半のあらすじを説明しよう。「髑髏島」で捕らえられた「キング・コング」はNYで見世物にされる。記者のカメラフラッシュに興奮したコングは暴れだし、マンハッタンのビル街を逃走し、パニックを引き起こす。ついには「髑髏島」での出会いから執着していた女性をさらって、当時世界一の高さを誇ったエンパイアステートビルをよじ登り、その屋上で軍の飛行機の攻撃を受けて転落して死亡する。さらわれた女性は無事救われる一方、地上に横たわる「キング・コング」に対して、男が「飛行機に殺されたんじゃない。美女に殺されたんだよ」とうそぶいて映画は終わる。
 このあらすじから、反文明=自然の喩として「キング・コング」像が浮かび上がる。南洋の未開の島のジャングルの王者であり、神と畏れられる怪獣という、最も近代科学西洋文明から遠い存在がコングだった。そのコングを白人社会は、映画では実際に〈鎖でつなぎ〉見世物にするのである。今日の視点からすれば、いかにも白人の西洋文明中心の傲慢ともとれる価値観が見て取れる。また、異文明の神がコングであることに注意するならば、ここにキリスト教の異神への容赦ない攻撃性を見ることもできるだろう。
 そもそも、近代における見世物には、近代化から取り残された未知、あるいは影を、陽の光の下で人々が覗き見るという性格があったのではないか。例えば〈動物園〉という見世物も、この範疇に入るはずなのだ。動物を分類し檻に閉じ込める行為は、自然を飼いならし見世物にすることに他ならない。そういえば、1933年のこの映画から遡ること約半世紀以前から、西洋文明社会では〈人間動物園〉と呼ばれるものが存在していた。万国博覧会をはじめ様々な博覧会に、諸未開民族の人間と風俗がごく普通に展示展覧されていたのである。有名な〈人間動物園〉としては、1889年のフランスのパリでの万国博覧会のそれが挙げられる。こうしたパビリオンの展示は形を変えつつ1950年代まで続けられる。そうしてみると「キング・コング」を支配する価値観は、当時ならばそれほど違和感なく受け入れられるものだったと言えるだろう。とりわけ西洋文明圏に顕著に。

 さて、特に重要な部分は、「キング・コング」が反科学文明の喩という点だろう。そしてさらに重要なのは、科学文明に征服される存在だという点である。
見世物のコングがカメラのフラシュが切っ掛けで暴れだすシーンが象徴的だが、科学文明の生み出す〈光〉が野生=自然の〈闇〉を照らしだすという構図により、コングの存在は未開の自然の喩なのだと語っている。コングが暴れだして、マンハッタンという世界最大の都市、西洋文明の極致の都市が搔き乱される。たいへん分かりやすい、文明と野生の対比が成立している。そしてついには、野生は科学文明に射殺される結末を迎える。
 映画『キング・コング』の1933年当時、世界最先端の近代兵器は〈飛行機〉だった。現在とは比較にならない性能のプロペラ機の戦闘機だが、当時としては最高の科学兵器であった。怪獣「キング・コング」は、あわれにも白人の女性に恋慕し、追われて近代都市の摩天楼に登り、その頂上で科学兵器に殺されるのである。
 西洋白人文明の視座からすれば、野生=自然は科学に征服されるべきものなのだ、ということだろう。西洋文明に抗するもの、あるいは異質なものは、科学文明によって制圧される。また、このような見方もできる。白人の女性は至高の美であり、それに異人たちは羨望するだろうが、異人が手を出せば罰せられるべきである、と。いずれにせよ、怪獣「キング・コング」を取り巻く物語は、白人西洋文明が至上とされる世界観が生み出した歪みが幾重にも取り巻くものであった。しかしひとまずひかえめに擁護するならば、『キング・コング』は当時のハリウッド社会にとっては当然すぎる価値観の成果だったと言えるだろうし、また世界的にヒットしたわけなのでエンタテインメントとして成功したことは間違いないのである。

 最後に重要な点として、映画ラストの台詞「飛行機に殺されたんじゃない。美女に殺されたんだよ」に注目したい。ここには、科学兵器に無残に殺されたコングに対して一欠片の同情もない。あるのは、侮蔑的な態度である。考えてもみてほしい。コングは南洋の孤島の神だったものを無理やり拉致され、NYで鎖に繋がれ見世物にされ、逃げ出したところを追い回され、追い詰められて撃ち殺されたのである。責められる要素はどこにもないばかりか、コングの方は被害者にすぎない。この哀れな存在に、一欠片の同情の言葉もかけることなく映画は幕を閉じるである。この異神への不寛容を、キリスト教原理主義の傲慢ととらえてもいいだろう。また、他者他文明との共感の欠如を、当時の西洋文明の限界ととらえてもいいだろう。こうした要素は、初代『ゴジラ』を見つめるうえでたいへん大事な補助線となってくるはずなのでここで指摘しておきたい。
 次回は、この『キング・コング』と1954年の初代『ゴジラ』との比較から話を始めたい。
(第二回 了)

連載エッセー シン・ゴジラへの道 第1回キング・コングの価値 渡辺 玄英

2017-02-06 20:28:52 | 日記
 『シン・ゴジラ』は単純におもしろいというだけでなく、観る者に多くを喚起させる作品だった。現代状況の反映と、それへの批評的な眼差し。物語から提出されたのは、表層においては〈希望〉と〈絶望〉がセットになったひとつの形態だったかもしれないが、結論めかしていうならば、〈死んだ希望の形〉と〈保留された絶望の形〉であり、あるいは〈死んだ未来〉と〈生きながらえた過去〉の混淆だったと思っている。
 本作は当然ながら、これまでの「ゴジラ・シリーズ」からの引用や様々なオマージュに満ちている。とりわけ初代と比較すると多くのことが語れるだろう。
 むろん、この2016年の作品には、2011年の東日本大震災の強い影響下にあり、その映像のあり方は地震と津波を彷彿させ、ゴジラ自体が原発の喩になっている。それは作中、本作ゴジラの出現日「11月3日」が、震災発生日「3月11日」を反転させたものであることからも分かる。さらに、ゴジラの上陸進路からも、東日本大震災を強烈に意識していることが分かる。ゴジラは、太田区から東京駅方向への直線的に進行しており、この直線を延々と伸ばしていくと、ほぼ福島原発に到達する。つまり本作の「ゴジラ」は「フクシマ」への軸線上にあったわけで、ドラマ内での終末カウントダウンのみならず、フクシマへのカウントも刻んでいたのである。

 『シン・ゴジラ』(庵野秀明総監督、樋口真嗣監督、2016年)と東日本大震災の問題は改めて触れることになるだろうが、このエッセーでは時代をさかのぼって、初代の『ゴジラ』(本多猪四郎監督、円谷英二特技監督、1954年)と、それから初代ゴジラが多大な影響を受けたはずの『キング・コング』(1933年アメリカ映画)について、まず押さえておきたい。
 1933年、メリアン・C・クーパーとアーネスト・B・シェードザックが監督した本作は、異界の怪獣が文明社会の中で暴れるというものであり、世界的にヒットしたためその後の作品に大きな影響を及ぼしている。また、『ゴジラ』の特撮を担当した円谷英二が、『キング・コング』に感動してその道を志したということもあり、初代『ゴジラ』の重要な先行作品として位置づけられる。
 『キング・コング』が大ヒットし、当時の人々が熱狂した様は、この巨大な猿の怪獣は実際にいるものなのか、といったたくさんの問い合わせが映画会社に寄せられたことや、その後のシリーズ化、そして怪獣映画というコンテンツの隆盛からも想像できる。
 また、興味深い事実としては、非常に有名なUMA(未確認生物)の〈ネス湖のネッシー〉が、現代史の上で最初に目撃されたのが1933年ということだ。つまりこう推測できないだろうか。まず当時『キング・コング』の世界的ヒットがあり、大衆はこの世界にはまだ秘境があって、未知の怪獣が生息しているのではないか、という思いに強く囚われた。そのためスコットランドの当時は片田舎で自然豊かな湖に、怪獣の幻想を見てしまったのではないだろうか。そう考えなくては、映画がヒットした1933年を境にいきなり多くの目撃者が現れるのは不自然なことだ。いわば『キング・コング』が〈ネッシー〉という怪物を作ったのである。
 このことは、1933年当時、まだ人類には現在とは比較にならないほど広大な秘境や未知が残されていた、ということでもあるだろう。つまり、当時の人々が「キング・コング」、「ネッシー」にリアリティを感じることが出来たのは、怪獣が未知の世界、反文明=秘境・自然の喩として成立したからだ。このことはその後の怪獣映画を考えるうえで重要な要素になる。例えば、「ゴジラ」をはじめ日本の【怪獣】映画(TV作品も含む)が1950年代から1960年代にかけて多作され、1970年代から(正確には1972年の『仮面ライダー』の登場をもって)その主役の座を【怪人】に奪われていくのは、怪獣=未知=反文明=自然といった視点で考えなくては説明が難しい。
ともあれ、次回のこのエッセーでは、映画『キング・コング』の成立について、怪獣=未知=反文明=自然という視点から見てみることにしたい。
(第一回 了)