真夜中に突然何かを煮込みたくなることがある。
牛すじでも、豚バラブロックでも、カレーでも、ある程度時間を要するものであれば煮込む対象物はなんでもいい。でも、できれば肉類の方がいい。脂が溶け出し、筋繊維の一本一本がほぐれていくのにあわせて、自分の中に澱んでいた諸々が溶け出す、そんな感覚がある。
精神的に苦しいとき、豚バラの塊を買ってきて、一時間以上かけてチャーシューをこしらえる。圧力鍋を使っては意味がない。水からゆっくりと煮込む。時々、鍋をのぞき込んでは、透明だった水が白濁していくのを確認し、火がとおり切ったら醤油だれに移してまたしばらく煮る。豚肉が褐色になり、醤油だれの表面が肉から溶け出した脂で覆われるころには、少しだけ身体が軽くなった、ような気がする。
これを第三者に理解してもらうのはとても難しい。そもそも、自分でも何が起きているのかよくわからない。結婚する前は誰かに説明する必要なんてなかったのだが、夜更けにいそいそと夫が獣肉を煮込み始めると、妻は当然に驚くので、なんとなく説明をする必要が生じた。少し考えて抽象的な説明を試みるがうまくいかない。妻は納得しないし、私もいまいち納得できない。そのうち妻は説明を求めなくなったが、それでも、この感覚を伝えられないもやもやは澱のように残る。
短歌に出会ったとき、これかも知れないと思った。短歌には、この感覚を誰かに伝える可能性があるのではないか。論理を超えて、もっと直接的に言葉が語りかける可能性があるのではないか。
ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は
サラリーマン向きではないと思ひをりみーんな思ひをり赤い月見て
たはむれに美香と名づけし街路樹はガス工事ゆゑ殺されてゐた
あけがたは耳さむく聴く雨だれのポル・ポトいふ名を持つをとこ
短歌との出会いと前後して知ったこれらの歌から、前述の可能性のようなものを感じた。「冷蔵庫の玉子置き場」というあまりに限定された場所に落ちていく涙も、呻きのような述懐を照らす「赤い月」も、「美香と名付けた街路樹」の死に対する狂気寸前の悲しみも、序詞に導き出されて滑らかにあらわれる独裁者も、意味情報とは別に、もっと深いところに降りきて私を揺さぶった。最初は自分がなにに感動しているのかよくわからなかったが、先人の歌を読んでいく中で、定型に言葉を圧縮する過程で醸成されるものがあるんだろうと、なんとなく納得した。
これらの歌について、その感動の源泉を明らかにしようと試みた文章を目にしたり、あるいは先輩歌人から聞いたりすることがある。その都度、その言説に対して、納得したり、反発を覚えたりする。畢竟、特定の歌についての言説は歌から享受したなにかを伝えようとする試みに他ならず、論理的に説明しようとすると言葉にできない部分から離れてしまい、言葉にできない部分に近づきすぎると、多義的かつ抽象的な言葉を用いることになり、客観性を欠くことになる。作者の自解であったとしても事情は変わらない。それでも、歌の根源にある本質的ななにかを伝えるために言葉を尽くす営為に対して、心から感動するし、どれだけ言葉を尽くしても十全に語ることができない三一文字に対してある種の畏怖のようなものを感じる。
短歌を作り始めて幾年か経ったが、結局最初に述べた感覚を他者に伝えることはできていないと思う。けれども、日常の中の言語化できない領域を少しだけ照らすことができたときに、「ああ、近づいているな」という感覚が自分の中に薄くともる。私の場合、文語の方が、旧かなの方が「近づいている」気がする。それは、文語や旧かなが内包しているものがあまりに豊かだからだろう。口語新かなでできた日常を、文語旧かなという非日常的なものに変換する過程で生まれるなにかに私は賭けているのかも知れない。その過程でこぼれ落ちるものはたくさんあるが、それを捨象することを今は恐れない。
今夜も私は堅牢な牛すね肉を煮込み、カレーを作る。肉から脂が溶け出し、固くこわばった赤身の肉がほぐれていく時間にひたりながら、一首の歌をなにとはなしに紡ぐのだ。そこに、私が意図した以上のものがともることを祈りながら、ガスコンロの前にちいさな椅子を置いて、じっとしている。
牛すじでも、豚バラブロックでも、カレーでも、ある程度時間を要するものであれば煮込む対象物はなんでもいい。でも、できれば肉類の方がいい。脂が溶け出し、筋繊維の一本一本がほぐれていくのにあわせて、自分の中に澱んでいた諸々が溶け出す、そんな感覚がある。
精神的に苦しいとき、豚バラの塊を買ってきて、一時間以上かけてチャーシューをこしらえる。圧力鍋を使っては意味がない。水からゆっくりと煮込む。時々、鍋をのぞき込んでは、透明だった水が白濁していくのを確認し、火がとおり切ったら醤油だれに移してまたしばらく煮る。豚肉が褐色になり、醤油だれの表面が肉から溶け出した脂で覆われるころには、少しだけ身体が軽くなった、ような気がする。
これを第三者に理解してもらうのはとても難しい。そもそも、自分でも何が起きているのかよくわからない。結婚する前は誰かに説明する必要なんてなかったのだが、夜更けにいそいそと夫が獣肉を煮込み始めると、妻は当然に驚くので、なんとなく説明をする必要が生じた。少し考えて抽象的な説明を試みるがうまくいかない。妻は納得しないし、私もいまいち納得できない。そのうち妻は説明を求めなくなったが、それでも、この感覚を伝えられないもやもやは澱のように残る。
短歌に出会ったとき、これかも知れないと思った。短歌には、この感覚を誰かに伝える可能性があるのではないか。論理を超えて、もっと直接的に言葉が語りかける可能性があるのではないか。
ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は
穂村弘『シンジケート』
サラリーマン向きではないと思ひをりみーんな思ひをり赤い月見て
田村元『北二十二条西七丁目』
たはむれに美香と名づけし街路樹はガス工事ゆゑ殺されてゐた
荻原裕幸『甘藍派宣言』
あけがたは耳さむく聴く雨だれのポル・ポトいふ名を持つをとこ
大辻󠄀隆弘『抱擁韻』
短歌との出会いと前後して知ったこれらの歌から、前述の可能性のようなものを感じた。「冷蔵庫の玉子置き場」というあまりに限定された場所に落ちていく涙も、呻きのような述懐を照らす「赤い月」も、「美香と名付けた街路樹」の死に対する狂気寸前の悲しみも、序詞に導き出されて滑らかにあらわれる独裁者も、意味情報とは別に、もっと深いところに降りきて私を揺さぶった。最初は自分がなにに感動しているのかよくわからなかったが、先人の歌を読んでいく中で、定型に言葉を圧縮する過程で醸成されるものがあるんだろうと、なんとなく納得した。
これらの歌について、その感動の源泉を明らかにしようと試みた文章を目にしたり、あるいは先輩歌人から聞いたりすることがある。その都度、その言説に対して、納得したり、反発を覚えたりする。畢竟、特定の歌についての言説は歌から享受したなにかを伝えようとする試みに他ならず、論理的に説明しようとすると言葉にできない部分から離れてしまい、言葉にできない部分に近づきすぎると、多義的かつ抽象的な言葉を用いることになり、客観性を欠くことになる。作者の自解であったとしても事情は変わらない。それでも、歌の根源にある本質的ななにかを伝えるために言葉を尽くす営為に対して、心から感動するし、どれだけ言葉を尽くしても十全に語ることができない三一文字に対してある種の畏怖のようなものを感じる。
短歌を作り始めて幾年か経ったが、結局最初に述べた感覚を他者に伝えることはできていないと思う。けれども、日常の中の言語化できない領域を少しだけ照らすことができたときに、「ああ、近づいているな」という感覚が自分の中に薄くともる。私の場合、文語の方が、旧かなの方が「近づいている」気がする。それは、文語や旧かなが内包しているものがあまりに豊かだからだろう。口語新かなでできた日常を、文語旧かなという非日常的なものに変換する過程で生まれるなにかに私は賭けているのかも知れない。その過程でこぼれ落ちるものはたくさんあるが、それを捨象することを今は恐れない。
今夜も私は堅牢な牛すね肉を煮込み、カレーを作る。肉から脂が溶け出し、固くこわばった赤身の肉がほぐれていく時間にひたりながら、一首の歌をなにとはなしに紡ぐのだ。そこに、私が意図した以上のものがともることを祈りながら、ガスコンロの前にちいさな椅子を置いて、じっとしている。