日蓮正宗の信心修行以前に、世間一般では「礼儀」と「挨拶」は基本です。「礼儀」と「挨拶」は、人が生きていく上での常識で人間関係を円滑にします。
日蓮大聖人は『曽谷殿御返事』に、
「れいぎ(礼儀)たゞしければ、国中をさ(治)まるべしとをも(思)ふに」(御書1384)
と仰せのように、礼儀を重んじることで、国中が治まり安定することを御指南です。つまり、平和になることを意味し、日蓮大聖人の御精神である「立正安国」の実現は、礼儀が基本となります。礼儀とは挨拶であり、信心に関係なく知っている人に会えば、礼儀を重んじ挨拶することは当然です。
現在の風潮として、礼儀である挨拶がいい加減になり、特に若い年代に知らない人が多くいます。「主師親の三徳」が薄れる現代、親は子供に礼儀である挨拶を教えない人がいます。親に子供を教育するだけの「親徳」が具わっていない証拠であり邪宗教の害毒です。親は信心をして「親徳」を養うことです。
挨拶によって、人と人との関係が上手くいきます。故に人間関係を円滑にするには、礼儀を重んじ挨拶をきちんとすることです。
日蓮大聖人は礼儀を重んじる徳について『上野殿御消息』に、
「四徳とは、一には父母に孝あるべし、二には主に忠あるべし、三には友に合って礼あるべし、四には劣れるに逢ふて慈悲あれとなり」(御書921)
と御教示のように、四徳のなかで「三には友に合って礼あるべし」と仰せであります。人として、また信心をし成仏を目指す上では「礼」が大切です。決して軽んじてはいけません。軽視すれば、人間関係が拗れ、生活しにくい環境を自ら作ることになります。そこに、お互いの心の迷いとなる三毒や三惑を作り上げ、依正不二の原理によって更に悪循環を生みます。日蓮大聖人の「立正安国」の御精神から、逸脱する行為であり不幸になる原因です。
以上の点を学んでも、更に軽視し不満を感じる人は、すでに心が謗法の害毒に汚染されていることを自覚しましょう。信心をして勤行唱題で、心の汚れ三毒や三惑を払拭させることが必要です。普通に生活していく上で、自分の意識に関係なく、いつの間にか自分の心に汚れが付着するものです。
礼儀である挨拶は、相手の心の汚れ三毒や三惑を取り除く作用もあります。以外に知られていないことです。礼儀や挨拶を巧みに活用して、人間関係を豊かにし、生活を安穏にしていきます。挨拶はお金のかからないことですから、大いに利用しましょう。
挨拶は、仕事において営業などでは必要不可欠です。軽視し、挨拶をしない人は、仕事が上手くいかなくなります。外回りなど相手との交渉には、礼儀や挨拶が重要な意味を持ちます。相手の気持ちを和ませれば、仕事も捗(はかど)り、仕事が増え利益を上げることに繋がります。礼儀を重んじ挨拶をするかしないかで、仕事の経営に大きな影響をもたらします。
日蓮大聖人は、礼儀の深い意義について『上野殿御消息』に、
「三には友にあふて礼あれとは、友達の一日に十度二十度来たれる人なりとも、千里二千里来たれる人の如く思ふて、礼儀いさゝかをろか(疎略)に思ふべからず」(御書921)
と御指南であります。礼儀である挨拶は、形式ではなく身口意の三業から不軽菩薩の精神で行い、信心する私達は礼儀を重んじ挨拶をすることが大切です。