醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

月雪とのさばりけらしとしの昏(くれ) 醸楽庵だより 573号 白井一道

2017-11-17 10:26:21 | 日記

 月雪とのさばりけらしとしの昏(くれ)  芭蕉


句郎 「月雪とのさばりけらし年の暮」。岩波文庫『芭蕉俳句集』では貞享3年、芭蕉43歳の時の句として掲載されている。
華女 「月」「雪」と風流三昧の生活だったと自分を笑っているのね。
句郎 愚か者、どうしてこんなことに夢中になっているんだと反省もしているんじゃないのかな。
華女 でも芭蕉は生活者として破滅型の詩人じゃなかったのよね。
句郎 そうだよね。山頭火や尾崎放哉のような破滅型の詩人じゃなかった。
華女 長谷川櫂氏は芭蕉を俳句の神様だと言っているみたいだけど、芭蕉は天才型の詩人じゃなく、努力型の詩人だったんじゃないのかしら。
句郎 芭蕉は「月雪」と風流に生きることが楽しかったんじゃないのかな。生活能力の高かった人のようだからね。
華女 山頭火や放哉は生活能力がなかったのよ彼らにあったのは天才的な詩的センスなのよ。それだけだったのよ。だから惨めな人生になった。
句郎 芭蕉は違うんだよね。一般人として江戸時代に生きる生活能力を身に付けていた人だったんだろうね。
華女 江戸時代の俳諧師という身分がどれほどのものだったのか、分かりませんが、それほど地位が高いとは思えないでしょう。それにもかかわらず死の床には、弟子たちがたくさん集まり、その中には武士身分の門人たちもいたわけでしょう。
句郎 そうだよね。芭蕉はわがままにも亡骸は木曽塚に送ってほしいというようなことを大坂で死の床で述べ、その通りに木曽義仲に憧れた芭蕉の意思を尊重し、門人たちが義仲の墓の隣に葬ったんでしよう。
華女 大津からいくつめだったかしら、膳所で降りて歩いて行けるところに義仲寺はあるわ。
句郎 行ったことがあるの。
華女 こんなに手厚く葬られたということは、それだけの生活能力が芭蕉にはあったのよ。門人たちがお金を出し合い、大坂から義仲寺まで芭蕉の亡骸を運び、墓を建て、法要をしたんでしょ。それだけのお金を出したいと思う門人たちがいたのよ。
句郎 芭蕉と比べたら放哉などは、皆から嫌われ、死の床には身のまわりの世話をしてくれた近所の農婦が一人いただけだのようだからね。
華女 生活能力というのは人と仲良く取り結ぶ関係が築けるかどうかということなのよ。
句郎 山頭火は放哉ほど人間関係が破綻することはなかったようだけれどね。飲んべえでだらしなかったようだ。
華女 芭蕉もお酒は好きだったみたいだけど、山頭火ほど、お酒にだらしなかったということはないんでしょ。
句郎 そうなんだろうね。
華女 芭蕉は女にはどうだったのかしら。放哉や山頭火の場合は女が近づかなかったんじゃないの。生活力がなかったから。
句郎 芭蕉は女性にはストイックだったんじゃないのかな。寿貞を詠んだ句「数ならぬ身とな思ひそ玉祭」などを見るととても優しかった。「白菊の目に立て見る塵もなし」園女を詠った句だといわれている。芭蕉の恋した女性だと言われている。プラトニックな少年の恋を芭蕉は生涯持ち続けたのかもしれない。

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1 コメント

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じねん数の本性 (数哲句(「草枕」三))
2023-11-18 21:50:14
 「数ならぬ身とな思ひそ玉祭」
から、回忌とお盆の時間軸を想う・・・

 数ならぬ一な思ひそ魂祭

         さん
 魂祭ヒフミヨ廻す△仏

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