醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  644号  猶見たし花に明行神の顔(芭蕉)  白井一道 

2018-02-13 12:58:45 | 日記

 猶見たし花に明行神の顔  芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「猶見たし花に明行神の顔」。芭蕉45歳の時の句。「やまとの國を行脚して葛城山のふもとを過るに、よもの花はさかりにて、峰々かすみわたりたる明ぼののけしき、いとど艶なるに、彼の神のみかたちあししと、人の口さがなく世にいひつたへ侍れば」と前詞がある。
華女 この句に詠まれている神とは、何なの。
句郎 奈良県葛城に一言主神社が今でもあるからね。その神様だと思う。
華女 前詞にある「神のみかたちあしし」とは、容貌の醜かったということでいいのよね。
句郎 一言主神は役行者によって金峰山・葛城山の間に橋を架けるために働いた。一言主神は自らの顔の醜さを恥じて昼は働かず夜のみ働いたという説話が『今昔物語集』にあるそうなんだ。
華女 芭蕉は『今昔物語』の説話を知っていたのね。
句郎 そのような説話が大和の国葛城では信じられていたんじゃないのかな。
華女 元禄時代にあってはそのような伝説や言い伝えがその地域住民の心を支配していたのね。
句郎 地域住民から芭蕉は『今昔物語』にある説話を聞き、それでは、一言主神さんの顔を見てみたいものだと観想したんじゃないのかな。
華女 芭蕉は一言主神の顔が醜いという言い伝えを聞き、笑ったのね。笑った末に桜の花の咲く葛城の山が明けはじめたら一言主神の顔を見てみたいなぁーと冷やかしたのよね。
句郎 芭蕉は説話を信じていなかった。だからこのような諧謔の句を詠んだということなのかな。
華女 真面目に『今昔物語』の説話を信じていたら、このような句を芭蕉は詠まなかったと思うわ。
句郎 芭蕉には迷信のような説話や伝説を信じない近代的な精神が目覚め初めていたのかもしれないな。
華女 笑いというものには、そもそも近代精神の芽生えのようなものが初めからあるのじゃないかしらね。
句郎 確かにそんな気がするな。キリスト教世界にあっても、イエスは笑ったかということが大きな大きな問題になってきたようなことがあったみたいだからね。
華女 私、見たわ。映画『薔薇の名前』よね。アリストテレス『詩学』を禁書にした物語だったかしら。
句郎 アリストテレスの哲学でキリスト教の教理を体系化した中世キリスト教徒の神学者たちは古代ギリシアの喜劇を忌み嫌ったということだよね。
華女 アリストテレスの『形而上学』は良いのよね。ただ『詩学』は禁書。その中心は笑いなのよね。
句郎 笑いは人間的なものだからね。また同時にこの世のものでもあるから。
華女 この世のもの、世俗に汚れたものとして笑いをみなした中世的なものの見方から笑いは人間を解放する働きがあるということなのよね。
句郎 俳諧の笑いにもそのような働きがあったのじゃないのかな。日本の中世社会にあった冷たい価値観に縛られた人の心をほぐすような働きが俳諧にはあったのだと思うな。
華女 醜い神様の顔が見たい。これはまさに反逆的なことだと思うわ。醜い神は神じゃないわ。

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