醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  746号  ホロコーストとナクバ ① 白井一道

2018-05-31 11:43:25 | 日記


 ホロコーストとナクバ ①


侘輔 ノミちゃん、「ナクバ」という出来事を知っているかい。
呑助 「ナクバ」ですか。それはどんな出来事なんですか。初めて聞く言葉ですよ。
侘助 ノミちゃんのように博学な人が知らないのかな。
呑助 そう人をおちょくっちゃいけませんよ。
侘助 日本人一般は知らないのが普通なのかもしれないな。
呑助 早く説明して下さいよ。そうもったいぶって物知り顔をするものじゃありませんよ。
侘助 ナクバの悲劇は今も続いているんだ。「ガザ」という地域がどこにあるのか、ノミちゃん知っているよね。
呑助 イスラエルのパレスチナ人自治区ですかね。
侘助 確かに日本の地図には点線でガザは囲まれている。この東京二三区のほぼ六割ぐらいの地域に200万人以上の人々が押し込まれている。
呑助 出入りは自由にできているんですよね。
侘助 コンクリート壁で囲まれ出入りは厳しく制限されているようだよ。
呑助 イスラエルという国は第二次大戦後国連決議によって成立した国じゃないんですか。
侘助 イスラエルという国の成立がアラブ人にもたらして悲劇をナクバと言っているんだ。
呑助 日本人にはあまり縁のないユダヤ人たちがヨーロッパ各地での差別を逃れてパレスチナの地にユダヤ人の国をと、いうことで建国されたんじゃないんですか。
侘助 ヨーロッパ中世以来のユダヤ人差別、ユダヤ人への偏見を政治的に利用して外国の豊かな資源を奪おうとした政治家たちいたんだ。そのような人々を帝国主義者と言うんだ。
呑助 イギリス人のセシル・ローズですか。
侘助 セシル・ローズは次のようなことを述べているんだ。「私は昨日ロンドンのイーストエンド(労働者地区)に行って、失業者大会を傍聴した。そして私が、そこで、パンを与えよとの絶叫にほかならない、いくつかのあらあらしい演説を聞いて帰宅したとき、私は帝国主義の重要さをいよいよ確信した。私の抱負は社会問題の解決である。イギリス帝国の4000万人の人民を血なまぐさい内乱から守るためには、私たち植民政治家は、過剰人口を収容するために新領土を開拓し、また彼らが工場や鉱山で生産する商品のために新しい販路をつくらねばならない。決定的な問題は、私がつねに言う事だが、胃の腑の問題である。彼らが内乱を欲しないならば、彼らは帝国主義者とならねばならない。(1895年)」。このようなことをね。
呑助 「胃の腑の問題」というのは、イギリス人が豊かな生活をするにはということですかね。
侘助 そのためには外国に侵出し、そこの富や土地を奪おうということだからね。戦争だよ。強盗の戦争だよ。
呑助 ユダヤ人迫害と関係あるんですか。
侘助 ユダヤ人は悪い人間だからユダヤ人の財産や土地を奪ったとしても悪くないんだという意識を植え付けていったんだ。
呑助 あぁー、こうしてユダヤ人の殺害や土地財産を奪っても悪の意識から解放したということですかね。
侘助 一九世紀後半の時代はイギリス、フランス、ロシア、ドイツといったヨーロッパの列強は帝国主義化していく。帝国主義というのは、他国の富や土地を奪う強盗の戦争をするということだからね。
呑助 泥棒や殺人というのは、嫌なことですよね。嫌というより犯罪ですね。
侘助 ロシアでは、帝国主義的な政治に反対する社会主義運動が起きて来ると社会主義運動はユダヤ人の運動だと言って弾圧したんだ。ユダヤ人の運動は悪いに決まっているでしょと、いうことで弾圧した。ツァーリズムはユダヤ人への偏見を利用して社会主義を弾圧した。が勿論社会主義者の中にはロシア人もいた。


醸楽庵だより  745号  荒海や佐渡に横たふ天の川(芭蕉)  白井一道

2018-05-30 11:56:43 | 日記


  荒海や佐渡に横たふ天の川  芭蕉


 
 
 旧暦の七月四日に芭蕉は新潟県出雲崎でこの句を詠んでいる。今の暦でいうと八月九日になる。暑い盛りである。曾良旅日記によると「快晴。風、三日同風也。辰ノ上刻、弥彦ヲ立」とあるから青空の下、快い風に吹かれて、午前八時頃、弥彦を出発した。その後、「寺泊リノ後也。壱リ有。同晩、申ノ上刻、出雲崎ニ着。宿ス。夜中、雨強降」とあるから寺泊を経て出雲崎に午後四時頃到着し、出雲崎で泊まった。その夜は強い雨が降った。弥彦から出雲崎までおよそ三十二キロを歩き通した。
 出雲崎に着いたのが申の上刻、午後四時のことであるから8月上旬ではまだ明るい。宿に着いた芭蕉は行水でも浴びた後、食事までの時間に浜辺から眺めた佐渡を思い起こし、「銀河の序」という文章を残している。
「北陸道に行脚して越後の国出雲崎といふ所に泊る。
かの佐渡がしまは海の面十八里、滄波を隔てて、東西三十五里によこほりふしたり、みねの瞼難谷の隅々までさすがに手にとるばりな
りあざやかに見わたさる
 むべ此の島はこがねおほく出でてあまねく世の宝となれば限りなき目出度き島にて侍るを大罪朝敵のたぐひ遠流せらるるによりてただおそろしき名の聞こえあるも本意なき事におもひて
窓押し開きて暫時の旅愁をいたはらむとするほど
日既に海に沈んで月ほのくらく銀河半天にかかりて星きらきらと冴えたるに、
沖のかたより波の音しばしばはこびてたましひけづるがごとくた腸ちぎれてそぞろにかなしびきれば草の枕
も定まらず、墨の袂なにゆ
えとはなくて、しぼるばかりになむ侍る
 あら海や佐渡に
横たふあまの川 」
 北陸道は現在の国道四〇二号線である。この街道を十月初旬にドライブした人の紀行文を読むとうっすらと佐渡島が見えたと書いている。十月より八月の方が景色は曇っている。それなのに芭蕉は「みねの瞼難谷の隅々までさすがに手にとるばりなりあざやかに見わたさる」と書いている。今から三百年前は空気が澄んでいたのかもしれい。
 浜辺に寄せる波音が枕元
に響いてくる。太陽が海に沈み、月がほの暗く銀河の半天にかかる。星がきらきら輝くのを見ながら佐渡島の歴史に芭蕉は思いをよせる。佐渡島は本来宝を産する目出度き島であるはすなのに時の政権に叛旗を翻した朝敵である大罪人を流刑にした島である。島流しにあった世阿弥や文覚上人のことを思うと哀しみに腸が千切れるような旅愁にかられた。
 「荒海や」、この言葉には本土から切り離された島に生きる人の哀しみが表現されている。その哀しみに生きる人に対する架け橋が「天の川」である。「天の川」に籠められた意味は肉親や友人・知人から切り離されて生きる人への思いになっている。
 荒海に佐渡が横たわっている。夜空には天の川がかかっている。「荒海に佐渡横たふや天の川」。この句は実景である。この実景の句を「荒海や佐渡に横たふ天の川」と捻った。「荒海に」を「荒海や」と変え、「佐渡横たふや」を「佐渡に横たふ」と変えた。このように捻ったことによって雄大な宇宙と歴史を表現することができたのだ。

醸楽庵だより  744号  むざんやな甲の下のキリギリス(芭蕉)  白井一道

2018-05-29 14:36:18 | 日記


  むざんやな甲の下のキリギリス  芭蕉


 石川県小松市にある多田神社で芭蕉が詠んだ句である。初めてこの句を読んだとき私は何も感じなかった。
何も感じない私に対して久富哲雄は「じつに痛ましいことであるよ。あの実盛が白髪染めの頭にかぶって奮戦したという兜をみるにつけ、往時がしのばれてならないが、今はその兜の下で、実盛の亡霊の化身かと思われるこうろぎが、か細い声で寂しく鳴き、秋のあわれを誘うことである。」とこのように鑑賞している。どうしたらこのような鑑賞ができるようになるのか、少し実盛について調べてみた。
「奥の細道」には「太田(ただ)の神社に詣(もうづ)。実盛が甲・錦の切(きれ)あり」とある。きっと芭蕉は実盛に思いを込めて詠んでいるに違いない。
 源平合戦中の篠原合戦に平氏側の将軍の一人として斉藤実盛は参戦している。対戦側の源氏の将軍は木曽義仲である。実盛は越前の人であった。初め、源義朝に仕え、骨肉相食む大蔵合戦では義朝の異母弟源義賢
を討った。義賢の血縁の者すべてを殺すよう命令されたが義賢の子、後の源義仲(木曽義仲)をまだ幼児であったため、不憫に思い木曽に実盛は逃がした。その後、保元・平治の乱で義朝が平氏側に敗れると実盛は平清盛の三男、宗盛に仕えるようになり、長井荘(熊谷・深谷の一部)の別当に任じられる。
 源義朝滅亡後、伊豆に流されていた義朝の三男、頼朝が兵を挙げ、源平合戦が再び始まと、実盛は平氏側に立って参戦する。倶利伽羅峠の戦いは圧倒的な強さ
を源氏側の木曽義仲軍はみせ、平氏側の軍勢は雪崩を打って散り散りとなってしまう。その後の篠原合戦では部下を失った将軍、実盛は将軍の出で立ち、龍頭を飾った兜を被り、錦の直垂を着け一人、源氏側の軍勢と向かい合った。実盛の故郷の地、篠原合戦に錦を飾ったのである。
 実盛は幼児であった義仲を救った人間であることを隠すため白髪染めをし、名を名乗れといわれても、名乗らず、組み伏せられて止めを刺される。実盛は平宗盛への忠義を尽くす。
 実盛は武士道を貫いた人として平家物語の中で物語られている。この物語は謡曲となり、元禄時代には広く江戸庶民の中に普及した。謡曲は「あなむざんやなー」と「実盛」を語り始める。元禄の頃の俳諧を嗜む人々にとっては「むざんやな」という言葉を聞くと謡曲「実盛」を思い浮かべた。「むざんやな甲の下のキリギリス」と読むとこの甲は実盛の甲、故郷に錦を飾った兜であると想像することができた。五百年前の兜が今に伝えられているのは命の恩人、実盛を討った木曽義仲が懇ろに葬れと部下に命令した願状があったればこそとは思うが、兜や錦の鎧の無惨な姿に芭蕉は心を痛めたのであろう。
 武士道の鑑(かがみ)として崇められている実盛の甲が野ざらしにうち捨てられてたように飾られている。その兜の下ではコオロギが鳴いているではないか。あー何と無惨なことであるかと、芭蕉は嘆いた。このコオロギが鳴く声は実盛の亡霊が泣く声のようだ。このように感じて詠んだ句なのだろう。この句は人生の無常を嘆いているのだ。
  

醸楽庵だより  743号  唎酒会出品酒  白井一道

2018-05-28 11:55:21 | 日記


 唎酒に遊ぶ 五月例会は初夏の日本酒を楽しむ



二〇一八年五月唎酒例会 出品酒   5/27

A、水芭蕉・純米大吟醸・おりがらみ生酒  720ml 1800円 
 群馬県川場村門前713 利根  永井酒造株式会社
 酒造米:山田錦(兵庫県産)  精米歩合:50%精米  アルコール度数:15%

B、美冨久・山廃純米にごり   720ml 1348円
 滋賀県甲賀市水口町西林口3-2  美冨久酒造株式会社
 夏の純米濁り酒

C、コールド・ミフク・期間限定の夏の冷酒  720ml 1348円
 滋賀県甲賀市水口町西林口3-2  美冨久酒造株式会社
 大正・昭和初期をイメージさせるレトロラベルに、飲みやすい度数が心地いい夏の人気商品。
ついついビールに手が出てしまう夏の夜に、少し大人な純米吟醸で一献いかがでしょうか。


D、福小町・純米芳香辛口  720ml 1050円
 秋田県湯沢市市田町 株式会社 木村酒造
 酒造米・秋田県産米  精米歩合・70%  アルコール分15.5度 
日本酒度 +8.0
 軽やかな果実香と旨味がしっかりとまとまった超辛口の純米酒。
 2013年7月、スイス・ローザンヌ2020年オリンピック招致委員会が開かれていました。元東京都知事猪瀬氏は日本ブースに福小町純米大吟醸新酒鑑評会金賞受賞酒を机の上に置き、IOC委員に振る舞っていました。そのテレビ映像が流れると一気に木村酒造の電話が鳴り始めた。一本一万円のお酒が一瞬にして売り切れてしまったという逸話が木村酒造にはあるそうですよ。


E、谷川岳・吟醸おりがらみ涼 720ml 898円  
 群馬県川場村門前713 利根  永井酒造株式会社
 精米歩合:60% 日本酒度:+3、アルコール度数:15%
 夏お薦めの吟醸酒です。

酒塾のしをり  第二七号
 今回は、夏の日本酒です。俳句には季節の詞、季語があります。夏を表現する的確な言葉が季語です。酒粕から造る甘酒は春夏秋冬、いつの季節を的確に表現する言葉なのかというと夏なんです。冬ではないんです。お間酒は冷やして飲んでこそ、甘酒の旨さが引き立つんです。このような話を名酒「力士」を醸す釜屋酒造の前社長から聞いた覚えがあります。
 夏、飲んでおいしいお酒は軽快な濁り酒なんです。夏、疲れた体に元気をもたらしてくれるお酒が冷やした濁り酒なんです。江戸時代以来、江戸の庶民に愛された夏のお酒が甘酒だったようです。その伝統が今蘇ってきているんです。それが軽快な「おりがらみ」のお酒のようです。
 さぁー、今日は全問正解できるチャンスです。濁りの度合いで当てることができますよ。今日こそ、全員正解で旨い酒を楽しみたいと思います。

 今回は「水芭蕉大吟醸・おりがらみ」が美味しかった。軽快、米の旨みを楽しむ。冷やした米のジュースだった。

醸楽庵だより  742号  『おくのほそ道』から「呉天に白髪の恨を重る」  白井一道

2018-05-26 12:43:26 | 日記


 「呉天に白髪の恨を重る」『おくのほそ道』から  


 「呉天に白髪の恨(うらみ)を重(かさ)ぬ」。このような文章が『おくのほそ道』、千住を旅立った後、このような言葉を芭蕉は書いている。芭蕉は何を言おうとしているのか、全然わからない。
「呉天に」という言葉だけで、「辺境をさすらって」という意味だということがわからなければ、意味が通じない。「白髪の恨を重ぬ」と言う言葉が「白髪になってしまうことを度々残念に思う」ということにならなければ意味が通じない。このように解釈するには「恨(うらみ)」という言葉の意味が今とは違っているということに気がつかなければならない。
 「うらむ」という言葉は大和言葉である。奈良時代からある「うらむ」という大和言葉に漢語の「恨」という漢字を充て、「ウラむ」と訓じた。「うらむ」という日本語の意味と中国語の「恨」という意味は共通するところがあるから「うらむ」という大和言葉に「恨」という漢字を充てた。「うらむ」という言葉を表現するには「恨」という漢字だけでは不十分であった。そのため「怨」の字も用いて「怨(うら)む」と訓じた。
 「恨」と「怨」では意味の違いがある。水俣病の患者たちは黒い幟旗に白抜きの「怨」の字を染め抜きチッソ本社へとデモ行進した。チッソ本社へ「怨」の字を持って憤りをぶつけた。これに対して「恨」は自分の心に向かって悔やむ。残念に思う。自分をなさけなく思う。このような違いが「恨」と「怨」にはある。この二つの大きな意味が「うらむ」という日本語の言葉にはある。
 「白髪の恨(うらみ)」を「怨」の意味にとると文章の意味が
通じなくなる。こんなところに古文を楽しむ難しさがある。
 更に「呉天に」という言葉から芭蕉は中国、唐時代の詩人、杜甫に私淑していたことに思いをいたさなければならない。唐王朝に仕えていた杜甫は藩(はん)鎮(ちん)、安禄山・史思明の反乱に巻き込まれ、黄河中流域、渭(い)水(すい)の畔にある都・長安から逃れ長江流域、呉の国を放浪し、そこで死を迎えた。その杜甫の悔恨は反乱軍に一時、
寝返ったことによるものである。そのため反乱軍が鎮圧されると杜甫は都に呼び戻されることはなかった。白髪になるまで放浪の旅をせざるを得なかった。このことを杜甫は悔やんでも悔やみきれなかったにちがいない。その気持ちを芭蕉は思いはかったのかもしれない。
 ちょっとした行きがかりで陸奥(みちのく)への旅を思い立ち、歩き始めてみたものの、止めておけばよかったという悔やみが、悔恨があった。その言葉が「呉天に白髪の恨を重ぬ」という文章なのだろう。生きて帰れるものなら帰りたい。そんな願いを神に祈っていると、ようやく草加の宿に着いた。
巻頭、芭蕉はたいそうなことを書いているが、実際は物の弾みで陸奥への旅は始まったのではないか。私はそう思う。
この部分を初めて読んだとき、芭蕉は草加で一泊したものとずっと勘違いしたままだった。
その後、曽良旅日記を読み、千住を出発し、粕壁で第一泊目を迎えたことを知った。悔恨の一泊目だったのかもしれない。