醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  582号  昼顔に米搗き涼むあはれなり(芭蕉)  白井一道

2017-11-30 13:00:03 | 日記

 昼顔に米搗き涼むあはれなり  芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』「瓜作る君があれなと夕涼み」の次は「昼顔に米搗き涼むあはれなり」の句である。
華女 「米搗き涼む」とは、どんな意味なのかしら。
句郎 「米搗き」とは、動詞ではなく、名詞なんだ。米搗きに雇われた出稼ぎの農民のことを意味しているんだ。
華女 出稼ぎ農民が三百年前から江戸にはいたの?
句郎 当時、江戸は世界屈指の人口の多い都市だった。日本全国から舟に積まれたお米が江戸に集まって来たからね。そのお米を船から降ろす仕事を求めて出稼ぎ人が集まった。それからお酒かな。関西の酒処から江戸に新酒が集まった。千石船に積み込まれた下り酒が樽に入れられ、河岸にあげられる。当時はすべて人力で荷を上げなければならなかったから、出稼ぎ人が集まったんだ。
華女 江戸の下町が出稼ぎ人の居住地だったのね。
句郎 田舎に帰ることができなくなった人々の居住地が「太陽のない街」裏長屋だった。
華女 貧民街ね。江戸時代にすでにスラム街が形成され始めているのね
句郎 自分の労賃だけで生活する人々が江戸時代に生まれてきているということなんじゃないのかな。
華女 高校の頃、世界史の授業で教わったような気がするわ。「資本の原始的蓄積」ということだったかしら。都市にスラム街が出現する。これが労働者の出現ということだったように思うわ。
句郎 へぇー、そんなことを覚えているんだ。貧しく、哀れな労働者たちは賃仕事を求めて信州や各地の農村から奉公の口を求めて江戸に集まってきた。
華女 米搗きも奉公の一種だったのね。米搗きというのは精米のことよね。
句郎 そうそう、精米とは籾から玄米を取り出し、玄米から糠を取り除き、白米にすることかな。
華女 川の流れに水車小屋のある農村では、そこで精米作業が行われていたのよね。
句郎 江戸では、そのような水車小屋がなかったので人力で精米作業、米搗きが行われていたんだろうね。低賃金の力作業だからね。生きていくの精一杯だったんじゃないのかな。
華女 哀れな存在だったのね。江戸の奉公人は。
句郎 昼顔の花って、何となく哀れな花だよね。誰からも大事にされることなく雑草として片付けられてしまう花なのかな。
華女 朝顔に似ているにもかかわらず、大事にされないのよね。どこにでもありふれている花だからかもしれないわ。
句郎 昼顔と江戸時代の米搗き人夫の取り合わせ、はかなさと哀れさ、芭蕉の米搗き人夫への優しい眼差しを思わせる句なんじゃないかと思う。
華女 そうね。芭蕉自身も俳諧文芸の中心地、京都へは行かずに江戸に下ったのよね。江戸には仕事あると考えてのことだったのかしら。
句郎 もともと芭蕉も身分は農民だったようだから。江戸に出た出稼ぎ人の一人だったんだろうからね。
華女 口減らしだったのかしら。
句郎 伊賀上野での生活が困窮し、やむを得ず江戸に出たと考えた方が良いんじゃないかと思っているんだ。だから同じ出稼ぎ人への同情があった。

醸楽庵だより 581号 瓜作る君があれなと夕涼み(芭蕉)  白井一道

2017-11-29 13:39:01 | 日記

 瓜作る君があれなと夕涼み また「涼し」を詠んだ芭蕉の句

句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』には貞享四年に詠まれた句として「酔て寝むなでしこ咲ける石の上」の次に掲載されている句が「瓜作る君があれなと夕涼み」である。
華女 「君があれなと」とは、どんな意味なのかしら。
句郎 「住みける人外に隠れて、葎生ひ繁る古跡を訪ひて」と前詞があるから、君がいてくれたらなぁーという意味なんじゃないのかな。
華女 夏の夕べ、芭蕉は瓜を作る友人の家を訪ねたら夏草が生い茂り、誰もいなかった。やむを得ず、独りで夕涼みしたという句なのね。
句郎 夏草を眺め、友人を偲ぶ夕涼みを詠んでいる。
華女 深川あたりの家を訪ねたのかしらね。
句郎 訪ねた家は農家じゃないと思うんだけどね。
華女 貞享四年というと翌年が元禄元年よね。江戸時代が全盛期を迎えようとしている頃よね。
句郎 そんな時代にあっても江戸の下層庶民の生活は厳しいものだったのかもしれないな。
華女 一か所に定住することが難しかったということなのかしら。
句郎 そうなんじゃないのかな。そんな世相をこの句は表現しているかもしれないと想像しているんだけどね。
華女 家庭菜園で瓜を作っていた友人の家を訪ねた無常観を詠んでいるともいえるのね。
句郎 「涼し」を詠んだ芭蕉の句の中で気に入っている句は「命なりわづかの笠の下涼み」。佐夜の中山で詠んだ句かな。うまいなぁーと思った。真夏の行脚の経験者には分かってもらえる句だと思う。
華女 延宝四年一六七六年芭蕉三三歳の時の句のようね。
句郎 餞別吟「忘れずば小夜の中山にて涼め」という句がある。
華女 貞享元年の句ね。
句郎 「川風や薄柿着たる夕涼み」京都四条河原で詠んだ句がある。現代の俳人が詠んでもちっとも古びていない句がある。
華女 「絽(ろ)」とか「紗(しゃ)」の単衣の着物を着た女性が見えてくるような句よね。この句は元禄三年の句ね。
句郎 「唐破風の入日や薄き夕涼み」。この句はどうかな。
華女 今日と大寺院の屋根に射す日が柔らかににる夕暮れが見えて来るわ。
句郎 元禄五年の句かな。芭蕉四九才。芭蕉の生活の豊かさのようなものを感じるね。
華女 実際、『おくのほそ道』の旅を終えて生活は良くなっていたんじゃないのかしら。
句郎 芭蕉晩年元禄七年五一歳の時には「皿鉢もほのかに闇の宵涼み」と詠んでいる。豪華な宴の後の寂莫感が表現されているよね。
華女 芭蕉の晩年は豊だったのね。終わりよければすべてよし。そのような人生を芭蕉は歩んだのよね。そのことをこの句は表現しているように思うわ。そうでしょう。
句郎 『芭蕉俳句集』には、年次不詳の句として「楽しさや青田に涼む水の音」の句が掲載されている。明るい句でしょ。夢見る芭蕉の句かな。
華女 そうよ。死を間近にした芭蕉は夢を見ているのよ。小川の流れる水の音が聞こえるのよ。涼しい風に身が包まれているのよ。私は青田に涼んでいるような人生だったと。

醸楽庵だより  576号 さざれ蟹足這ひのぼる清水哉(芭蕉) 白井一道

2017-11-28 13:37:46 | 日記

 さざれ蟹足這ひのぼる清水哉  芭蕉
 酔て寝むなでしこ咲ける石の上 芭蕉 

句郎 「さざれ蟹足這ひのぼる清水哉」。貞享4年、芭蕉44歳の時の句。
華女 「さざれ蟹(かに)」とは、どんな蟹を言うのかしら。
句郎 「さざれ」とは、接頭語。小さいを意味するようだよ。「さざれ石」と言ったら「小石」と言う意味になる。だから『君が代』は「君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりて」と詠っているんじゃない。「小石が巌になって」という意味なんじゃないの。
華女 「さざれ蟹」とは、小さな蟹ということなのね。分かったわ。沢の清水に足を浸していると小蟹が足を這い登ってきたということね。
句郎 夏の爽やかさを詠んだんじゃないの。
華女 そうね。爽やかさね。
句郎 それだけの句なんじゃないの。
華女 私もそう思うわ。
句郎 「酔て寝むなでしこ咲ける石の上」。この句が岩波文庫『芭蕉俳句集』には「さざれ蟹足這ひのぼる清水哉」の句の後に載せてある。
華女 芭蕉はお酒が好きだったのね。ほろ酔い気分が好きだったんじゃないかしら。
句郎 芭蕉はお酒を飲んでいないのじゃないのかなと思っているんだけれどね。ただお酒を飲んで撫子の咲くそばの冷えた石の上で涼みたいものだというかなわぬ願いを詠ったものじゃないかと考えているんだけれどね。
華女 そうよね。「鰹売りいかなる人を酔はすらん」なんていう句も鰹売りの行商人を見て、今宵はあの鰹を肴に誰がお酒を楽しむんだろうと想像している句よね。芭蕉はお酒を飲んでいないのよね。
句郎 「酒のめばいとど寝られぬ夜の雪」なんていう句もあるけどね。
華女 芭蕉の酒は賑やかなお酒ではなかったんじゃないかしらね。
句郎 そうなのかもしれないな。「あら何ともなや昨日は過ぎて河豚汁」なんていう句があるよね。この句は酒を飲み、気持ちよく起きた朝の心の景色を詠んだものだと私は高校生の頃、国語教師から教わった記憶があるれど。
華女 でもその句を詠んだ時のお酒は饒舌なお酒の席だったのじゃないの。
句郎 「氷苦く偃鼠が喉をうるほせり」。この句は大酒を飲んだ次の日の朝の水の旨さを詠んだ句のようだ。だから芭蕉は若かった頃は賑やかな楽しいお酒が好きだったんだろうと思う。しかし徐々に静かなお酒、牧水が詠んだ「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに
飲むべかりけり」のようなお酒を嗜むようになっていったんじゃないのかな。
華女 『笈の小文』だったわよ。「二日にもぬかりはせじな花の春」の句の前詞に「宵のとし、空の名残おしまむと、酒のみ夜ふかして、元日寝わすれたれば」として句を詠んでいるのよ。芭蕉45歳の年よ。
句郎 大晦日には深酒したんだろうね。しかし、若かった頃は「二日酔ひものかは花のあるあひだ」と詠んで花見にいそいそ出かけた句を詠んでいるからね。
華女 「「酔て寝むなでしこ咲ける石の上」。この句、「なでしこ」の花は女性を意味しているようおもわない?。
句郎 ほろ酔い気分で女性と睦合いたいと詠っているということなのかな。

醸楽庵だより  575号  いでや我よき布着たり蝉衣(芭蕉)  白井一道

2017-11-27 12:27:46 | 日記

 いでや我よききぬ着たり蝉の聲  芭蕉 


句郎 「いでや我よき布着たり蝉衣」。「門人杉風子、夏の料とて帷子を調じ送りけるに」と前詞を書きこの句を詠んでいる。また別の句集には「人に帷子をもらひて」と書き「いでや我能(よき)布着たり蝉の声」とも詠んでいる。さらに「杉風生、夏衣いと清らかに調じて送りけるを」と前書きして「いでや我よききぬ着たり蝉の聲」と詠んでいる。貞享4年、芭蕉44歳の時の句。
華女 私は三番目の句が良いと思うわ。夏の単衣を着て喜んでいる芭蕉の姿が目に浮ぶわ。一番目の句は「蝉衣」という言葉が渋滞する感じがするわ。
句郎 いや、スケスケルックの夏の衣服を蝉衣(せみごろも)というらしいよ。スケスケルックの蝉の羽に譬えていうらしい。
華女 そんな日本語があったのね。
句郎 「蟬衣」より「蝉の聲」が確かにいいよね。
華女 初夏の空気を感じるのかしら。
句郎 そうなんだ。軽快さがある。
華女 二番目の句の中七「我能(よき)布着たり」の漢字が重いのよ。ここは三番目の句の中七「よききぬ着たり」のひらがなが軽くて良いのよね。下五の「蝉の聲」が落ち着きを感じさせるのよ。
句郎 夏になると夏の衣服を差し入れてくれる門人が芭蕉にはいた。これは芭蕉の人徳というものだったんだろうね。
華女 杉風さんへの令状として挨拶吟として句を贈っているのね。
句郎 当時、俳句というものは人間関係を作っていく技のようなものだったのかな。
華女 きっと今でも句が詠める人にとっては挨拶になることがあるんじゃないのかしらね。
句郎 まず、俳句は挨拶ということなのかもしれないね。
華女 今日はいい天気ね。この挨拶の言葉が日本の挨拶よね。このような挨拶の言葉が定着したのは、もしかしたら俳句文化の影響があるのかもしれないわね。
句郎 そうなのかもしれないな。若者は挨拶ができない。若い子は挨拶ができない。こんな言葉を会社の上司の人が言うのを聞いたことがあるな。
華女 そうよ。挨拶が大事よ。そう教えられて出勤した時、上司に「おはようございます」と挨拶したら「はい」と返事され、「頭に来た」という話を聞いたことがあるわ。
句郎 挨拶をわきまえない人が今増えているのかもはれないな。
華女 人間関係において挨拶が大事だと言うことを今教えてくれるものがもしかしたら俳句なのかもしれないわよ。
句郎 芭蕉は感謝の気持ちを相手に伝えるためにはどのような言葉が良いのか推敲している。自分の気持ちを相手に伝える。この言葉の働きを簡潔に伝える方法を探求する営みが俳句を詠むということなんじゃないのかな。
華女 俳句を詠むということは、実は実用性があるということなのね。
句郎 きっとそうなんだろうね。だから今でも俳句人気は続いているんじゃないのかな。
華女 コミュニケーション能力を身に付ける方法の一つに俳句はいいのかもしれないわね。
句郎 俳句はコミュニケーション。その楽しさが俳句なんだろう。

醸楽庵だより  574号 鰹売りいかなる人を酔はすらん(芭蕉)  白井一道

2017-11-26 13:24:03 | 日記

 鰹売りいかなる人を酔はすらん  芭蕉

句郎 「鰹売りいかなる人を酔はすらん」。貞享4年、芭蕉44歳の時の句。
華女 芭蕉はお酒が好きだったかしら?
句郎 好きだったんじゃないのかな。
華女 お酒とくれば、後は女ね。女の方も好きだったの。
句郎 もちろん好きだったんじゃないの。
華女 清貧に生きた詩人というイメージとは違っているのね。
句郎 そんなところが芭蕉の魅力じゃないかと私は考えているんだけれど。
華女 でもお酒にも女にもだらしなかったということはなかったんでしょ。
句郎 当時は庶民は皆貧しかったからだらしなくしようがなかった。
華女 美しい女と美味しいお酒と肴が好きだったのね。
句郎 イタリアルネッサンスの巨匠たちは皆、人間の自然な欲望を積極的なものとして受け入れたようだよ。芸術家と言われる人々は皆、そうなんじゃないのかな。そうでなければ豊かな感性が磨かれるということはなかったんじゃないのかな。
華女 禁欲的な勤勉、清貧、粗食の中からは豊かな感性は生まれないと言うことなのかしらね。
句郎 そうだと思うね。マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読むと勤勉・禁欲・正直のような倫理観が資本主義の経済を造り出したということが説明されているけれども豊かな絵画や音楽、文学を生むことはなかった。
華女 カトリックの文化の中からルネサンス文化は生まれたということなの。
句郎 そう。ここで言うカトリックというのは、宗教改革前のカトリックかな。腐敗していたカトリックと言ってもいいのかな。
華女 教会の僧侶たちがお酒を楽しみ、教会の中に女性を招き入れ、楽しんだ。そんなカトリックの中からルネサンスが生まれてきたの。
句郎 人間の欲望を否定するのではなく、肯定する文化がルネサンス文化だからね。
華女 ルネサンスと宗教改革が近代社会の始まりだと高校生の頃、教わった記憶があるけど、全く異なる文化だったのね。
句郎 近代文化の始まりは堕落した中世文化の中から生まれて来たんだ。だから芭蕉もまた日本中世の堕落した文化、『古今和歌集』「俳諧歌」の中から談林派の俳諧が生まれ、その流れの上に芭蕉は存在している。
華女 歴史って面白いものね。不思議ですらあるわ。
句郎 私は芭蕉の俳諧の発句の中に近代文化が芽生えているという主張をもっているからね。
華女 芭蕉は関西文化圏の中で育っているわりに関東の江戸文化を受け入れているのね。だって鰹が食べたいなという気持ちをこの句は詠んでいるのよね。
句郎 鰹売りの声が聞こえた。今日は誰が鰹を肴に酒の楽しむのかなという句だからね。
華女 鰹は江戸文化の魚よ。関西人は鰹をあまり食べないわ。
句郎 鰹を詠むということは、新しい江戸文化の誕生を意味しているのかもしれないな。美食は文化だから。今までの美食になかった食べ物、鰹が美食の仲間に入ったんだからね。