醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  643号  行く春にわかの浦にて追付きたり(芭蕉)  白井一道

2018-02-12 13:18:46 | 日記


 行く春にわかの浦にて追付きたり  芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「行く春にわかの浦にて追付きたり」。芭蕉45歳の時の句。「和歌」と前詞がある。
華女 行く春に追いついたわよと、胸を張った句ね。俳句とは、具体的なものによって気持ちを詠むものなのね。
句郎 芭蕉は和歌の浦の暮春を見たいという強い気持ちがあったんじゃないのかな。
華女 「行く春」と「暮春」では、情緒が違ってくるわ。「行く春」は「行く春」なのよ。新古今和歌集の詠み人しらずの歌に「待
てといふに留らぬものと知りながら強ひてぞ惜しき春の別は」があるのよ。待てというのに止まってくれないものが「行く春」よ。春の別れとはそのようなものよ。その春の別れの情緒を詠まなければ、句にはならないのよ。
句郎 止まってくれない行く春にわかの浦にて追い付いたということなんだ。
華女 行く春に追いついたという気持ちよ。その気持ちが詠まれているということね。
句郎 わかの浦は万葉の時代から歌に詠まれている所だから、行ってみたかったんじゃないのかな。
華女 「若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る」という歌を山部赤人が詠んでいるわね。
句郎 わかの浦が満潮になると干潟がなくなり、鶴が啼き声をあげて蘆辺を目指して飛んでいく景色を芭蕉は瞼に浮かべていたのかな。
華女 実際はどっだったのか、分からないけれども、気持ちとしてはそうだったんじゃないのかしら。
句郎 行く春の情緒は湿っぽくないのかな。無常観に薄い緑色が付いた感じかな。
華女 芭蕉と杜国は高野山から降りて来てわかの浦に出てきたのよね。山の上の春はたけなわだったんでしよう。山を下るに従って春は行ってしまう状況だったのよね。
句郎 そんな状況の中でわかの浦に出て「行く春」に出会えた喜びの句なんだろうね。
華女 私たちの読み方によっては、もっと深い読みができるような句ではないかと思うわ。
句郎 『徒然草』の名言かな。「春暮れてのち夏になり、夏はてて秋の来るにはあらず」。155段にある言葉でよかったかな。
華女 当たり前のことよね。行く春は夏になる。夏、果てて秋になる。吉田兼好法師はそうじゃないと言っているのよね。
句郎 そうそう、春の内に夏はすでに始まっているということなんだよね。同じように夏の間に秋は始まっているんだということを兼好法師は言っている。
華女 当たり前のことよね。でもその当たり前なことがあたりまえでないような事態があるということよね。
句郎 春たけなわの高野山では「行く春」を感じることができないということなんだと思う。
華女 若い頃は年取ったことを感じることって一度もなかったわ。
句郎 芭蕉はわかの浦に出て、初めて行く春に出会い、行く春に気付いたということなんだろうな。無常観というものを実感した。無常観を具体的な句に詠んでいるのが、「行く春にわかの浦にて追付きたり」ということになるということかな。
華女 そうなんじゃないの。