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八百長問題

2011年04月05日 | スポーツ
震災の影響で隠れていた大相撲の八百長問題。

完全にトカゲの尻尾切りのような形で着地点をみた感じがぬぐいきれないのは
僕だけじゃないはずだ。
不服ながらも引退届を出した力士たちは口を揃えて「生活のため」という。
退職金がもらえるかもらえないか、これがひとつの分かれ目になったようだ。

ここ最近の相撲の一連の騒動によっていろんな声が出ていた。
“国技”というのをやめてしまえとか、
「貴乃花親方をコミッショナーにして新しい角界」を旗揚げしろとか、
「いっそのこと、エンターテイメント宣言してはどうか?」等々、
有識者と言われる人がそれぞれの言い分を言っていた。

野球の独立リーグのような旗揚げ説の流れで、力士プロレスというのはどうか?
ということを思ってみた。

僕はプロレスが大好きだし、相撲界にも行司をやっている知り合いがいるので、
どちらも元気で人気あるものになって欲しいというのが前提で思ったりした。

せっかく体の大きい力士たちがそのまま引退するのはもったいない。
かつて高杉晋作が挙兵した時に、伊藤博文率いる力士隊というのが活躍した。

力士というのには誰もがなれるわけではないと思う。
しかも引退の理由が理由だ。
胸につかえたものもあるだろう。
簡単に気持ちは切り替わらないかも知れないが、同じ体を張ったジャンルの世界に
いくのもひとつの手ではないかと思うのだ。

そこで、プロレスと相撲のことを非常にうまく書いてある記事を転載したいと思う。
いつの号だったか忘れたが、いつか書くだろうという直感がして切り取っておいたもの。
『週刊プロレス』の編集長が書いた記事だったと思う。
少し長いが読んで頂ければ幸いです。


以下。



プロレス界は宿命的に「八百長」という3文字と向き合うことを課せられてきた。
以前、編集後記にも記したが、プロレスとは「真剣勝負」か「八百長」かという
短絡的な二元論で片付けられるほど底の浅いジャンルではない。
「底が丸見えの底なし沼」。
だからこそ、プロレスを見る人には、人の心を察する感受性や言葉の裏を読む
想像力が必要とされる。

プロレスというジャンルに特有の「ルール」として、受け身と反則カウントがある。
なぜダメージを受けるのをわかっていて相手の技を受けるのか。
反則カウントは4まで許されて、なぜ5ではダメなのか。

そこには、人間が生きていく上で大切な教訓が詰まっている。
たとえば、「受け身とは思いやりだよ」と、かつて武藤敬司は言った。
自分が主張するだけなら、人間関係は成り立たない。受け身を取ることは、
相手の言い分に耳を貸すことでもあるのだ。
それによって人間関係を円滑に進めることができる。

また反則カウントについては、アントニオ猪木はレスラーの披露宴のスピーチで、
夫婦円満の秘訣として“反則カウント”理論を持ち出す。
つまり、何でもかんでもパートナーを縛るのではなく、カウント4までは許して
あげなさい、ということだ。
世の中では無差別殺人のような異常な犯罪が起こったことがあったが、
カウント4とカウント5の境目、やっていいこととやってはいけないことを
犯人が認識していれば、起こりようがなかったと思う。

もうひとつプロレスほど再生の利くジャンルはない。
その例として曙のケースを挙げてみよう。

曙は2001年に横綱として現役を引退すると、K-1へと転向。
80年代以降に限って言うと、輪島にしても北尾光司にしても元横綱の
相撲以外の「再就職先」はプロレス界と相場が決まっていた。
しかし、当時のマット界の経済事情が曙にプロレスよりK-1を選ばせたのだろう。
では、K-1が曙を生かせたかというと、そうではなかった。
03年大みそか(対ボブ・サップ)の視聴率戦争のコマとして利用されただけで、
初陣のボブ・サップ戦を皮切りに、連戦連敗。
気がつけば、格闘界における曙の商品価値はすっかり下落していた。
格闘技は勝つか、負けるかのどちらでしか評価されない。

しかし、プロレスは違う。
勝敗はもちろん大事だが、それ以上に、「這い上がる」姿を表現できるジャンル
である。実際に、曙は全日本マットで曙なりに輝きを放っている。
これがプロレスの持つ魅力である。

プロレスは人間をつぶすのではない。
生かすのだ。