反貧困運動とやらを精力的に行っているらしい、雨宮処凛(あまみやかりん) 『排除の空気に唾を吐け』(講談社現代新書)を読む。
講談社現代新書って、この程度の非論理的な文章を、いつから平気で新書化するようになったんだ…??というのが率直な感想だ。いくら「出版不況」だからと言って、このレベルの文章をホイホイ新書化してたら、「新書」という存在への読者の信頼が、こっぱみじんに壊れていくだろうに。
そしてまた、自分で自分の首を絞めていく。こういう本をポンポン出した結果として、講談社の本が売れなくなったとしても、それを「自己責任」ではなく(笑)、政府のせいにでもするつもりなのだろうか?全く、自己責任否定論とは便利なものだよ。
貧すれば鈍するとは講談社のことか。不況だからこそ、「自分の頭で考え、己の道を『自己責任』で『自己判断する』助けになる本」を出版しなければならないだろうに。単価が安い新書ならなおさらである。そしてそのような本は、少なくとも論理的でなければならないだろうに。
本屋で手にとって、タイトルと著者を見て、裏表紙を見て、まず素で笑ったのがこの写真。
「日本は悪い国」って…この筆者は、貧困層の自己責任を否定し、政府や富裕層にこそ貧困救済の責任があると訴えたいのではないのか?筆者の認識している日本が「悪い国」であるのなら、そんな国にどんな貧困救済が期待できるのだろうか???
さらに、キャプションに「<逃亡の想像力を手放さない>ことを渋谷・原宿のサウンドデモで訴える」とある。「逃亡の想像力」とは、逃亡することは悪くないのだ!自分や世界に絶望する前に、逃亡を選択肢として考えよう!ということを訴えたいのだと思うのだが…
それと、「日本は悪い国」って、どう関係あるんだ???
単に反日デモでもやりたかったのだろうが、その反日デモが、<逃亡の想像力を手放さない>こととどう関係あるのだろう。全く、1%もわからない。これでは、何でも言いたいことを感情的に(=非論理的に)ぶちまけて、結論は「政府が悪い。大企業が悪い」に持っていく、頭の悪い、それだけに他人の話が耳に入らないことだけは筋金入りの、「紋切型の頭の悪いサヨク」に他ならないではないか(笑)。
この本が、タイトルから推測できる通り「弱者を排除しようとする雰囲気にあらがえ!」ということを訴えたいのであれば、「日本は悪い国」というプラカードが、どのように「弱者を排除しようとする雰囲気にあらがう」ことの助けになるのか、論理的に説明していただきたいものだ。できるならね。本文にも、そういう説明は全くない。
本文もこの調子である。やや長いかも知れないが、論理性を検証するために引用しよう。
「正論」のふりをした「暴力」(本書p.44)
秋葉原の無差別殺人事件を受けて、読売新聞は以下のように述べた。
「世の中が嫌になったのならば自分ひとりが世を去ればいいものを、『容疑者』という型通りの一語を添える気にもならない」(読売新聞「編集手帳」08年6月10日)
この言葉は、私の周りの自殺志願者たちに大きな衝撃を与えた。「やっぱり私のような人間は黙って死ぬべきなんですね」。ある人は寂しそうに咳いた。別に読売新聞のコラムだけじゃない。こういった「正論」のふりをした「暴力」が、この国には溢れている。
「お前の努力が足りないからだ」
「能力がないから悪いんだ」
「同じ境遇でも歯を食いしばって頑張っている人がいるじゃないか」
「それなのにお前は」
どれもある意味「正しい」言い分だ。その「正しさ」がわかるからこそ、人は黙り込んでしまう。そしてそんな言葉を、常に100倍くらいにして自分に投げかけているのは他ならぬ自分自身だったりする。しかし、その「正しさ」には圧倒的に何かが欠けている。反論しようとすると、「正しさ」をふりかざす人は自分自身の苦労体験を語ったりする。しかし、それは多くの場合、「成功物語」だ。そんな苦労をして今の俺がある、という自慢話だ。そして「そんなに頑張ってきた自分を認めろ」というような浅ましい欲望にも満ちている。目の前の厳しい状況にある人の境遇を「本人のせい」ということにしておかないと、自分自身のそれまでの人生が何か否定された気になるのだろう。よくフリーターに説教するオヤジなどがいるが、そういう人の前では、バブル期の就職内定率と03年度の就職内定率が30パーセントも違うことなどは「なかった」ことになる。私たちは、「年長者の承認欲求」=意味のない説教などに付き合う必要はない。それは時として、私たちの命さえ脅かすのだから。
>どれもある意味「正しい」言い分だ。
飲み屋の雑談でないのなら、「ある意味」という言葉を使った以上は、どの意味では正しく、どの意味では正しくないのか、自分の文章で説明しなければならない。それこそが「論理的な文章」の必要条件だと私は思うのだが、間違ってないよね?
>しかし、その「正しさ」には圧倒的に何かが欠けている。
>反論しようとすると、「正しさ」をふりかざす人は自分自身の苦労体験を語ったりする。
「語ったりする」という「いくつかの具体例」に霧消させるのではなく、「こういう場合なら、必然的にどう正しくなくなるのか」ということを説明するのが論理的な文章だと私は思うのだが。これも間違ってないよね?
>しかし、それは多くの場合、「成功物語」だ。
>そんな苦労をして今の俺がある、という自慢話だ。
ゆえに、「だからお前も『努力しろ』」という説教を振りかざすだろうことは推測できるが、その「ある意味での正論」が、「どう正しくないか」が全く説明できていない。
>そして「そんなに頑張ってきた自分を認めろ」というような浅ましい欲望にも満ちている。
「話し手に浅ましい欲望があるかどうか」は、「オレは努力して成功したんだからお前も努力しろ」という主張に対する反論には、何一つならない。話し手に浅ましい欲望があっても、その人の主張が正論(=論理的に反論できない)なら、納得するしかなかろうに。
平たく言えば、話し相手の性格が悪くても、こちらが反論できないのなら、相手が「正論」を言っているということ。ただそれだけのことだ。
というわけで、ここでも必要なのは「反論」なのだが、雨宮はまだわかっていない。
まあ、この辺の持って行き方は、よく2chでバカがやっている、「反論できなくなると発言者を誹謗中傷する」というステップを踏んでいるだけである。この技術をわざとやっているのであれば、論理的な議論ができないアホをうまく引きつけようとしているという意味ではなかなかお見事であるとは思うが、「反論」にはなっていない点は変わらない。
>目の前の厳しい状況にある人の境遇を「本人のせい」ということにしておかないと、自分自身のそれまでの人生が何か否定された気になるのだろう。
で、「目の前の、厳しい状況にある人の境遇は、本人のせいではない」ということを、雨宮は、ここまででも、全く説明していないのだが…。何か反論した気になっているの?
>よくフリーターに説教するオヤジなどがいるが、そういう人の前では、バブル期の就職内定率と03年度の就職内定率が30パーセントも違うことなどは「なかった」ことになる。
ようやく、「バブル期の就職内定率と03年度の就職内定率が30パーセントも違うこと」が、「お前と同じだけの努力をしたとしてもお前と同じだけのものが得られないかも知れない」という意味で、論理的な「努力しろ論」の否定になっている。
しかしながら、新卒時に就職内定が取れなかった「非正規社員」が、全員、どれだけ努力しても正社員になれない、または、正社員と同等以上の待遇を受けることができないなどということはない。
ちなみに私も非正規労働者であるが、「努力してもダメだ」などとは決して思わない。
おそらく雨宮は、こういう発言に対しても、「自慢乙」などと言って、反論したつもりで「リセット」したがるのだろう。引用部分を何度読み返しても、そうとしか判断のしようがない。
しかしながら、まさにここが弱者論のキモで、新卒時に就職内定が取れないと、その後の就職活動がいかに厳しいかを論理的に展開することができれば、「努力だけではどうしようもないことがある」ことの、力強い根拠を示すことができるのだが…この場合にも、以前のエントリーで説明したように、「自己責任論の程度問題」に踏み込まなければならない。しかし、雨宮は、予想通りというか何というか、本書の後半で自己責任を全否定してすましている。
>私たちは、「年長者の承認欲求」=意味のない説教などに付き合う必要はない。
>それは時として、私たちの命さえ脅かすのだから。
かくして、年長者の説教がどのように正しくないか=意味がないかを論理的に説明しないまま、「年長者の説教は意味がない」を「努力しろという説教は苦しんでいる私たちには意味がない」とずらし、さらにそれを中間結論として
「努力しろ」なんて私たちには無意味な言葉
というメッセージを繰り返す。
…どういう努力をしてもダメだったのかを語れないまま、「努力しろと我々に言うな!」と繰り返すのは、年少者がダダをこねているのと同じであって、雨宮の言うところの、年長者の意味のない説教と、少なくとも同程度には意味がない発言であると言わざるを得ない。声が大きいだけだ。
私も論理的にこの文章を批判したいので、読者にわかりやすくするために、もう一度簡単にまとめておこう。「個々の努力だけではこの貧困は免れなかった」と主張したければ、
・どういう努力をしてきたのか
・どのように、その努力は無駄になったのか
を説明できなければ、「私という人間は、公的にサポートする必要のある人間だ」とは主張できないだろうに。なぜそんな厳密な条件が必要化って?そういう条件を設定しなければ、誰も働かなくなるからだよ。生活保護の申請時に必要なくらいの説明は必要であろう。それが不要であると言いたいのならば、胸を張ってベーシックインカム論あたりを振りかざせばよい。しかし雨宮はそんなことも言っていない。
地味でも、論理的に言葉をつないで行くのなら、主張が異なっていてもそれは傾聴・拝読に値すると思っていろいろ文章を読んでいるのだが、上の文章は
「こういうことを言うヤツはアホなんだ」
という、人格面に対する誹謗・中傷を「反論」と勘違いして文章を進める。申し訳ないが、極めて頭の悪い、2ch的な文章レベルとしか言いようがないのである。読者層が2ch的であれば、一時的な連帯感が作れるかも知れないが、反論に対し、論理的に反論しかえせない限りは、その連帯感は内輪ウケ程度にとどまり、あとはしぼんでいくだけなのである。この人は、そんなことにも気づけないのだろうか。
だとしたら、こういう人が「悩める人よ、孤立するな」と叫び、「事件・犯罪の背景には『社会の病』がある」と世の中を斬った気になり(どちらも表紙の帯)、反貧困ネットワークの副代表や週間金曜日の編集委員にもなり、貧困層、またはプレカリアートの代弁者としてさまざまな場で発言を行っているって…。この人は、本当に貧困層の力になりたいと思っているのだろうか?(あら、マガジン9条うんちゃらにも関係してるのですか…)
くどいが、もしそうであるならば、私のような、「努力と自己責任が大切だ」と主張する人間を論理的に反論できるような、論理武装(理論武装ではない)がまず大切だということに気づいてほしい。本当に貧困層の力になりたいと思っているのならの話だが。
講談社さん、こういう角度からの原稿チェックを行わないまま、この本の新書出版を実行したのですか?読者をバカにするのもいい加減にしていただきたい。
読ませて頂きました。
主張以前に
「ミニスカ右翼」とか
「ゴスロリ活動家」とかいう時点で
ただのイロモノでしょうに…
世間の人はよく騙されてくれますね。