![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/9a/5ea9c30ceae5a61f0ae6ab6a01759da2.jpg)
幕末の奥医師には、松本良順のほかにも優れた医師がいた。
まず、浅田宗伯(1815~94)は腰背の激痛で苦しんだフランス公
使ロッシュを漢方薬と鍼治療で快癒させ、皇帝ナポレオン3世から
時計などを授与され“名医”を受け、その後、“御目見医師”から
“奥医師”に昇進する。また、遠田澄庵(1819~89)は、食事療法
による先駆的な脚気治療で知られている。
この二人は明治維新後も医師として活躍し、宗伯は後進の教育と
著述に励み、澄庵は官立脚気病院に勤務したのち、自分の病院を立
ち上げている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/5b/44/bdd7725f85719d1db48aa61663e3d61b_s.jpg)
展示資料は、幕末の奥医師の名前の一覧で、本道(内科)、同小児
科、眼科、外科、口内科(歯科)、鍼科の医師29名(うち1名は見習)
の名が記されており、文久2年(1862)のものと推定。
名簿の中の大膳亮章庵は本道とあるが、正しくは“本道婦人科”
だ。また、大坂の適塾で大村益次郎や大鳥圭介、福沢諭吉など多く
の人材を育成し、種痘の普及にも尽力した蘭学者で医師の緒方洪庵
(1810~63)の名前もある。
(NAJ 千代田区北の丸公園3-2)
まず、浅田宗伯(1815~94)は腰背の激痛で苦しんだフランス公
使ロッシュを漢方薬と鍼治療で快癒させ、皇帝ナポレオン3世から
時計などを授与され“名医”を受け、その後、“御目見医師”から
“奥医師”に昇進する。また、遠田澄庵(1819~89)は、食事療法
による先駆的な脚気治療で知られている。
この二人は明治維新後も医師として活躍し、宗伯は後進の教育と
著述に励み、澄庵は官立脚気病院に勤務したのち、自分の病院を立
ち上げている。
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展示資料は、幕末の奥医師の名前の一覧で、本道(内科)、同小児
科、眼科、外科、口内科(歯科)、鍼科の医師29名(うち1名は見習)
の名が記されており、文久2年(1862)のものと推定。
名簿の中の大膳亮章庵は本道とあるが、正しくは“本道婦人科”
だ。また、大坂の適塾で大村益次郎や大鳥圭介、福沢諭吉など多く
の人材を育成し、種痘の普及にも尽力した蘭学者で医師の緒方洪庵
(1810~63)の名前もある。
(NAJ 千代田区北の丸公園3-2)