森元志乃 shino morimoto

ヴァイオリン弾きの吐息

凛として 破壊者であれ

2008-05-30 17:44:07 | Weblog
織田信長 とか 戦国時代 とか 書いていたら

戦争モノ好きですか? と 聞かれちゃった。


大っ嫌いです。

ああ でも 戦記は 相当 読みました。

この 宇宙規模の矛盾を背負って 語っております。


こちらに長い方は ご存知でしょうが

広島生まれ

被爆2世 びっちり 原爆教育受けて 育っております。

断言します。平和主義者です。

見ていない方 ぜひ 広島の原爆資料館(広島平和記念館)へ行って

心の目で見てきて下さい。

政治家のみなさん 見ていない人 いないですよね。

教師の方々 勉強していらっしゃいますよね。

え? 見てない?


わしらが みにいけ ゆうとんじゃけ わりゃ みにいかんかい!



…失礼しました。

CSIだの ボーンズだの 死体満載のドラマが好き って言っておいて

何が違うのよ!と 詰め寄られそうですが

ドキュンドキュンバキュンバキュン 血飛び散りまくり的 映画

絶対 ダメです。

見ていると 胸が痛くなります。ドキドキしてきて 不整脈が出ます。

007のシリーズですら ダメです。

そんなに簡単に 人を殺さないでよっ!と 叫びたくなります。


以前 織田信長が好きなんだ って 語ったとき

「おまえ 比叡山延暦寺の焼き討ち 知ってて 言ってるのか?」と聞かれ

「うん」と 答えると

「相当 危ない奴だな」と コメントを 述べられちゃいました。


誰も 大量殺人 肯定してないっちゅーに。


 
だから(どう だからなんだ?笑) ガンダム エヴァ

なんか 苦手なんです。

ハーロック とかの方が いいんです。(子どもっぽいですが)


ウルトラマンシリーズや 仮面ライダーシリーズは なんか 許せるのに

戦隊ものは ダメなんです。

5人掛かりで 一人をやっつけるのかよ! みたいな(笑)。

対マンで行けよ 男だろ! みたいな。


やっぱり 矛盾はありますね。

認めます。

でも やはり 斬新であれ! 奇抜であれ! 酔狂であれ!

なんて 思っちゃう訳です。


だって 楽しいもの。



かつて愛したものの今

2008-05-30 09:24:37 | Weblog
先日 息子を東京に送った帰り

なぜだか どうしても 本物を見たい! という 欲求に駆られ

閉館寸前の 山種美術館に 駆け込んだ。


山種美術館は 幼い頃から 見て歩いた中で

東洋陶磁美術館と並び 人生を変えたといっても過言でない

私にとって とても大切な 美術館だ。


しかし 東京に根付いて いつでも行ける という 気持ちでいると

なかなか 足が向かず すっかり ご無沙汰だった。

その間に 縮小移転が行われていたことは知っていたが…


速水御舟との出会いは まさに 鉈で頭を殴られたような

そんな ものだった。

そこで 自分の中に隠れていたものを 発見した。

自分の中から 未知のものが 湧き上がってくる。

そういう感覚を 体験した。

そうして

学生の身分で 大枚はたいて 速水御舟の画集を買った。

自分で買った 初めての画集だった。







今回 大正から昭和へ という タイトルで 

佐伯祐三の絵もある というので 勇んで出かけたのだが


なんだろう。


佐伯祐三のクラマールはよかった

御舟のスケッチもよかった


しかし 昔の あの 静かで 落ち着いた

墨や 絵の具の声が 聞こえてくるような

そんな雰囲気はなく

大好きな 御舟の絵に至っては

ライティングのせいか 自分の影が 絵に映り込んでしまい

どういう角度で見ても ちゃんと 見えず

近くに行っても タッチも見えず


結局 差し引き ややマイナスという 

残念な状況で 帰宅せざるを得ず

すっきりしないままでは 帰る気になれず  

美容院に行って 髪を切ってきた。 



「昔 真剣に愛した人に数十年ぶりに会って その凋落に愕然とする」の図。



結構 ショックを 引き摺っている。
 
ヴァイオリンも 買い手を選べない。

昔 そんな記事 書いたな。


もったいない どころか

大切なものを 大切にできない 

そんな 世の中であって いいはずがない。


生きとし生けるもの すべての命を 私たちは 慈しまねばならぬけれど

人が命を尽くしたものも 慈しまねば

つまるところ 自分自身を貶めることになると。


本物には 程遠いが 

それを見れば イメージが浮かび 心穏やかになる。

ということで

御舟の「炎舞」のクリアファイルを ゲット。

自分で自分の心を慰める。
 

後方支援に燃える 熱い日

2008-05-26 21:14:07 | Weblog
全寮制の学校に入った息子が

久し振りに帰ってきて

コックピット型のガンダムのゲームがやりたいと。

何よりも あの音量に いつも まいってしまうのだけど

息抜きに付き合うかと ゲームセンターに。


あの手の アニメを見たり コミックを読んだり 映画を見たり 本を読んだり

それが どんな形のものにせよ 

向き合ったときに 自覚するのは

心の しかも かなり 表層にある 攻撃性 だ。

奥に眠っている という 感じでないことに 時折 ぞっとする。



ストーリーが見える範囲内に 心があるときは

戦うとは? 闘うとは? なんて思考に 持っていきようもあるけれど

実際に戦闘シーンに入ると 敵を打破することにのみ

精神を持っていかれる。



思うのである。

そういう 攻撃性を持たない人も いるかもしれない。

でも 生き延びる という 本能が 潜在しているのならば

闘うことは 必須である。

(それがいつも 相手を倒すこと とは 限らないけれど)


ところが 今の 子どもの教育現場では

そういうものを 根こそぎ 取り上げている 

…ように思える(と 嫌味に 曖昧にしておこう)


勉強は点数ではないと。

運動会でも勝ち負けは関係ないと。


点数主義も成果主義も 単体では大嫌いだが


自分が 人より秀でているものが 何なのか

自分が 何でなら この社会で 勝ち残っていけるのか

自分を認めることができるとしたら それは何があるからなのか

自分の存在意義は どこにあるのか


子どもにそれを 絶対評価で理解しろというのは

とても 難しいのではないだろうか?


そして 何より 闘争本能を満たし

それを 外に向けず 裡に向ける能力をつけていく 場や時間がない 

そういう 子どもたちが

いずれ 社会に出たときに 

 脆く 崩れるか

 激しく 爆発するか

どちらかになってしまう可能性が大であること 

それが

今 もう すでに 見えてきている 現在なのでは と 思うのである。


いじめも 殺傷も 

闘争本能を 優位に立つという 最上の形で 満たすものであると。

そこには 別に お金がほしいといった理由は 必要ない。

あくまでも 自己中心的な 精神的な満足感があるから。 



心の闇 なんて 多分 人が当たり前に持っているものだろうし

そんなもの 理解できるはずがない。

できないから 闇なのだし。(別に投げている訳ではない) 

生育環境が 影響を及ぼすことは 理解の範囲内にあるけれど

同じ環境にあっても 誰もが同じ行為に及ぶとは限らない。


何かと 闘う場を

作ってやるのが 親の仕事で

敵の盾になるのが 親の仕事ではないと

闘う場から子どもを遠ざけることが 親の仕事ではないと


結果 分かってくれればよい 闘う相手が 自分自身だと。



ガンダムのゲームに没頭する息子を見ながら

そこだ! 行け! 撃て! とか 思っている自分を

敵を撃破すると やった! とか 喜んでいる自分を

情けなく思いながら


やはり 前世 戦国時代にいた と 確信する



夏日の一日だった。







二子玉川はまたも雨だった。

2008-05-20 21:37:44 | Weblog
少々(かなり?)ヴァイオリンが ご機嫌斜めだったので

病院へ 行ってきた。

ここが… あれ? ここも。 う~ん ここも?

なんて 状態で

これじゃ 機嫌も悪くなるわなぁ。

ごめんよ ヴァイオリンくん。


虫歯の治療せず 中耳炎そのまま 合わない靴を履かせてる

それじゃ 子どもだって いじけもするね。


という訳で 

掛かりつけ医の いつにも増して 冴えた腕で 大変身。


それにしても

ヴァイオリンは 面白い。

こんなに 変わるかねえ。


さて こうなると 後は 誰かの腕 ということになる。

「あれ また 鳴らなくなりましたね」なんて 言われるのは

ちょー悔しいし

また 腕を 研かなくちゃいけなくなった。


まあ たいしたことを やってきていないんだから

仕方ないといえば 仕方ないんだけど

歳も 歳だしなあ。


ふう。

ったく いつになったら これでいい このへんでいい

というところに いきつくんだろう。

ま いきつかないから 人生 面白いんだけど。


それにしても

いつも 二子玉川は 雨だ。

掛かりつけ医は にっこり笑って

「日頃の行いですよ」と のたまった。

くぅ。

反論できず。

悔しいじゃないか。

忌々しい 雨め。

ありがとうございました。

2008-05-18 23:55:45 | Weblog
お礼が ワンテンポ 遅れてしまいました。


銀座ワークショップ 無事 終りました。

たくさんの方に来て頂いて 

本当に楽しく 時間が過ごせました。

少しでも お役に立てていたらいいなって 思っています。


メールもありがとうございます。

励みになります☆


ヤマハのスタッフの方々 素敵な方ばかりなんです。

こちらの無茶振りにも 完璧に対応して下さって

感謝しています。



みなさんから いっぱい 刺激を頂きました。

これを活かして また 勉強して お返しできるよう

がんばります☆ 

勉強になりました。

2008-05-16 21:24:12 | Weblog
上手な買い物 なんて テーマで 

スーパー関係者の方が お話していて


空腹状態で買い物をしない なんて 原則から始まって

ポップの内容を読み取る その方法から

棚の見方やら なんやら

ふむふむ 結構 私 主婦やっているかも

なんて 思いながらも


利き腕にカゴを持つ  なるほど!

レジ前で一品返すことを考える   ほっほー!


新ネタ 仕入れました。


確かになあ。 

節約節約 なんて 呟きながら

つい 好きなお菓子が 安売りされていたりすると

思わずカゴに…


レジ前で じっとカゴ見る 無駄戻す


ってかぁ!

ゴルゴ13と 虎の穴と 大リーグ養成ギブス

2008-05-15 09:55:31 | Weblog
余生 という言葉が 好きである。

余った生 ではなく 余りある生 である。


そこには たくさんの 何かが 溢れている。


人生 ひと仕事 終えた 人々が
 
生きていること 生かされていることへの 感謝を胸に

喧騒に塗れた外界から 一歩退き

ゆったり 内向きに 過ごすことのできる

最高に 素敵な時間だと 思うのである。

そうあるべきだと 思うのである。



かつて 人の命は短く 

子育てや仕事に翻弄され それに区切りが付く頃には 生を閉じていた。

たまに 神が 「もう少しだけだよ」 と プレゼントを下さる。

それが 余生だと ずっと 思っていた。


だから 個人的には

どうして こんなに 長寿になってしまったんだろうと。 

プレゼント多過ぎ!

なんて 思ったりもする。

プレゼントは ほどほどがよい。



それでも 両親が 生きていてくれるのは 嬉しい。

両親は 心身ともいろいろあれど

よい余生を送っている 送ってくれていると 思う。

「未だに珍道中」と笑う父母の生活は もちろん厳しい現実の中にあるが

そこに流れている時間は 静かで 穏やかだ。


余生は もしかすると 本人たちのためでなく

周りの人間への プレゼントなのかもしれない。


それはもう ときどき 

いらいらしてしまうようなお年寄りとの 出会いもあるが

自分も後 十年二十年経って 確実に「お年寄り」の仲間になったとき

自分をどの位コントロールできるんだろう と 考えると

年配の方への 尊敬の念と 穏やかに接することのできる心の余裕を

忘れてはならない と 戒める。


だから やっぱり

お年寄りや障害のある方に負担を負わせるようなものは

なくしてほしい と 思う。

(いや 払える方は ぜひ 払って頂きたいが)

若くて がんばれるうちに 少しでも多く 払おうよと。

(そのためには もちろん 悪い奴はすべて 正義の味方にやっつけてもらおう)


あ もう一つ

字は 大きくね。

あ もう一つ

内容は 分かりやすくね。


どうも 作る人はみな 頭がよくて 若くて 元気な人らしい。

いや それは 大切なことだから よいんだ。

問題はね

うん 思いやりの心?

その人の身になって考える そういう気持ち

つい 人間だから 自己中になっちゃうけど 

ぶんぶん首を振って よい音楽聴いて 美味しい紅茶でも飲んで

人間変える練習。


ヴァイオリンの練習をするように

人間らしくあるための日々の練習。

テクニックは 日々精進しないと 進むどころか 保つことも難しい。

肉体がそうであるように

心も日々鍛えないと 絶対 衰えていくんだ。 


衰え 実感している。

つい 逃げたくなる。

若い頃とは 別な意味で。

子どもたちが がんばっているんだ。

みんな がんばっているんだ。


よし。

日本語の変なアナウンサー

2008-05-14 00:00:55 | Weblog
中国の地震 ひどい。

子どもたちが…。

ミャンマーのサイクロンも…。


ニュースは 

もっと 深刻で 真剣で 

もっと 持続的で しつこくて

それで よいのではと 思う。


暗い重いニュースばかり流せ とは言わないけれど


やれ 芸能人の交際だとか

やれ どこそこの美味しいもの特集だとか

それは 別のところでよいのでは と 思ってしまう今日この頃。


頭の固い人間である。 かっちかちやぞ!


この間やっていた あのニュース

結果がどうなったかを知りたいのだけど

なんてこと 多々。


コメンテーターも もう少し 選んでほしいな。

テロップも それはないだろう的ミスが多いし


編集に偏りが出たりするのは 致し方のないことだけど



そう ここのところ

殺人事件の(特に未解決の)ニュースで

被害者のお子さん達の 

写真や ブログや 会話や 

在りし日の日常が 垂れ流し的に 報道されていることに

ひどく 抵抗を感じる。


お花を捧げている人に 向けられている マイクの多さと

たまにカメラが引いたときに映る 報道陣の多さを

異様だと感じる …それは おかしいことなのだろうか。



政治家に 医者に 教師に 理想を追求してほしいと思うように

メディアの力が大きい今 報道関係の諸氏にも 

強く 期待してしまう。 こうあってほしいと。


ん が 抜けた。

2008-05-13 16:45:29 | Weblog
昨日の記事のタイトルで お気付きかもしれないが

隠の王 好きである。

ストーリーも絵も まず好みであるが

タイトルと設定だけで 90%満たされている。


なばり とか しのび と 聞いただけで

ぞくぞくする。

昔の忍なら とうに 命を落として

二度くらい 転生していそうな 年齢にもなって

恥ずかしい限りである。


それにしても

織田信長であるとか忍者であるとか(目覚めたのは小学生だった)

本格推理であるとか(最近はファンとはいえない読書量だが)

フランスものであるとか(一応クラシックプレーヤーとして 笑)

バッグであるとか(幼少期 紙とハサミを持たせるとバッグを作りまくっていたらしい)

この 絶対的な嗜好というのは なんなんだろう と 思うのである。


小さき頃の刷り込み とか 遺伝子 とか …ふむ。


歴史好きは 父の嗜好から来ていると思われるが

父の興味の中心は 昭和だったような気がするし

フランス好きは 母がフランス語専攻で詩を原語で読んでいたりした影響?

でも 記憶に残る音楽は フェルトベングラーのブラームスのシンフォニーだし

推理小説といえば 信じられない位の蔵書量でジャンルは多岐に渡っていて

本格に限られていた訳ではないし



子どものことは 親が一番分かっています!と

たまに 先生に怒鳴り込む親を見ると

ふと 本当にそうだろうか? と 思ったりすることのある

そんな 自分だから

子どものこと どころか 自分が分からない自分 というのが

それはそれで 妙に 面白く

たまに じっと 手を見て

人間の手って 気持ち悪い 大っ嫌いな 鳥の脚のことなんて いえやしない

大体 生命の基本は

なんて 好奇心のスパイラルに陥って

医学自体が 生に反するものなんじゃないか とか

いつもの 思考のじたばたが 始まり



そうなんです。仕事が少々 煮詰まっています。

実に分かりやすい。うん。



やはり 忍者の修行をしてみたかった 

天命を知るどころか 不惑も越せていない 情けない中年である。



 

森羅万象を手に入れたい。

2008-05-12 17:43:14 | Weblog
テレビを見ているときは 比較的テンションの高い娘が

ある特集を見終わった後 ふぅっと 大きく息をついて 


「でも 結局 お金のある人しか 医学部に行けないんだよね…」

「お金なくも お医者さんになりたい人 いっぱい いるよね」

そういって 席を立ってしまった。



誰か 娘が納得できるような 説明をしてほしい。

医者になるためにはお金がないといけない その理由を。


「奨学金があるじゃない」

「教育ローンがあるじゃない」

なんて 見当違いの 説明は 受け付けない。


教育施設だのなんだの いろいろ お金が掛かるのであろうことは

それは 理解できない訳じゃない。


ただ ピュアに 人の命を救えたらと そのための研究ができたらと

そう思う すべての人たちに 門戸を開くのが 

特に 医学部という 学部のあるべき姿で

お金がないという理由で 最初の一歩をシャットアウトしてしまう

その在り方は どうなんだろう?


それでなくても

娘や息子の 中学受験を通して

これって 一種の選民思想だろう?と。

もちろん 友人達のお子さんの 高校受験の話を聞いても。


なりたいものになれない社会を作って

夢を持て なんて ちゃんちゃら おかしい。


みんな おかしい。

どこか 少しずつ おかしい。


でも

だから

子どもには ピュアでいてほしい。

そして その心のまま 生きていってほしい。

そうやって生きるのは とても 苦しいことだろうけれど。



何かを変える力のない 一「母」としては

子どもたちの夢が 明確なヴィジョンとなった時点で

そこに立ち向かっていける 

精神力や 体力や 学力の その基礎を持たせてやる

そのための努力しかしてやれない。

とても 無力である。

それは 悲しい。


こういうとき 力があれば と つい 思ってしまうのである。