きぼう屋

生きているから生きている

相撲という「道」と朝青龍という「異邦人」

2010年02月05日 | 「生きる」こと
朝青龍さんの引退劇からいろいろ考えております。

わたしは相撲は「道」であると考えています。
柔道や剣道、合気道などと同じです。

ならば道とは?。

わたしは「道」とは、人間の自然性あるいは本性ではどうもよろしくない!ということの発見から起こされていると思います。
つまり人間の自然性あるいは本性に逆らうものとして「道」が生まれると考えます。

しかもとりわけ人間のもつ暴力的な本性に逆らっています。

相撲、柔道、剣道、合気道などは、
直接相手と戦うという行為をしつつ、しかしそれに逆らうという大きなねじれをもつという点が
実は一番大切なところだと思います。
このねじれこそが「道」の意味です。

人間の本性
と、
平和のためにそれを許さない「道」
との
ねじれを、

なにしろわかりやすく人々に教えるのが格闘関係の「道」だと思います。

「道」はねじれ、矛盾を持ってこそ「道」です。
格闘技はあえてその矛盾を持っているに違いありません。
だからこそ人の深いところで共鳴するものがあるわけです。

人は矛盾とねじれの中でしか生きられず、
しかしそれを表に出すことはできず、
しかしそれをどこかで響かせておかねばならず、
ゆえに「道」が必要ともなってきます。

ゆえに勝つことを喜びとして表現しないこと、
負けた相手を最大限に敬う、
という礼儀はどんなに厳格であってもいいと思います。

キリスト教信仰で言ったらこれは律法です。
平和のために過剰にせねばならないことってあるんです。

ただ、
「道」は開かれているものであり、閉じたところに「道」はありません。

その点、相撲界全体が閉じているのは気になります。
「道」は実は文化や伝統ではくくられることのできない、もっと深く広いものです。

文化や伝統は精神の領域で語られますが、
「道」は信仰あるいは宗教の領域で語られます。

無論
伝統、文化で語られる宗教はすでに自ら宗教を放棄しています。

精神は自分を保つためにあります。
それは本性とぶつかる必要を持ちません。

「道」は本性と、つまり自分自身とぶつかるものです。
したがって「道」を進むには自分を捨てるという献身が必要となります。

そこで相撲界の不思議なところですが、

理事はなぜ無給でないのでしょう?。
横綱審議委員はなぜ無給でないのでしょう?。

献身する姿が見えないのが不思議です。

実は
現役力士以上に
そういう人々の「道」に対する姿勢が実は崩壊しているというのが相撲界の問題なのだなあと思いました。

まただからこそ
相撲を「道」でなく
伝統や文化で片付けてしまうのかもしれません。

さらに品格ということばで片付けてしまうと
問題の本質にたどり着けないような気がします。

また相撲「道」と
日本という国家の伝統を
同じ土俵で語ることも実はできないと思います。


さてさて
朝青龍さんに関しましては
異邦の地で生きるということについて
実は議論されねばならないだろうと思います。

彼は日本のとりわけ相撲界においては明らかに異邦人です。
異邦人は孤立します。
いいえ
孤立させられます。

この事実はこれまでの外国人力士がみんな口を揃えていることです。

あるいは日本人メジャーリーガーも言っています。
外国でプレーするサッカー選手も言っています。

しかし野球やサッカーならそれでもいいですが

相撲が相撲であるならば

異邦人と共生する開かれた「道」について時間を割いて議論せねばならないと思います。
そして異邦人にも開かれてこそ
相撲界はさらに深い世界となります。


たとえば海外で生活した事のある人
留学した事のある人
は、
経験していると思うのですが、

なぜかよくわからないけれども
身体と精神全体で受ける孤独感からくるストレスによる
普段と異なる行動と言動が生まれてしまう

というのは普遍的な人の行為だと思います

異邦人と共に生きる場合
彼らのそのような行為をその社会の常識から判断するのではなく
状況から丁寧に判断せねばならないと思います

そしてそのようないわばおかしな行動、言動は
異邦の地で血縁を超えた家族を本当に獲得したときに
自然となくなっていくものだと思います。
わたしの経験だと
だいたいそこにたどり着くまでに10年ほどかかると思います。

すると
本当は朝青龍さんはこれから変化するのだろうなあ
とも思わされました。

相撲はそういう家族を大切にしているわけですから
今後さらに外国人力士が増えるなかで
こういう事柄はしっかり議論したらいいのにと思いました。

また血縁を超えた家族ということで
昨今日本では地域共同体の再構が叫ばれておりますが
地域がホームとなることと
相撲におけるホームも
質が違います。

地域は国家と同質の伝統から解放され得ません。
相撲は解放されているし、解放を目指すゆえにもっと真理性を持っています。

地域はどうがんばっても最終的に閉じます。
相撲は開かれる可能性があります。


さてさて
わたしの経験とはなにかと申しますと
私にとっては都は異邦の地であるという経験です。

別に海外だけでなく
身体感覚の異なる地はすべて異邦となると思います。

東京から京都に来て11年

私はようやく京都の地に「ホーム」を獲得できた状態だと思います。


異邦人との交わり
異邦の地でのホームの獲得は
10年の準備を経てようやく
スタートするのだと思っております。

そこで
わたしはこういう風に今のところ結論づけております。

異邦人と異邦人を迎える共同体は
どちらも
それぞれの行為におかしさを覚えつつも
そこにでなく
端的に互いの存在を肯定し受容することのみを行うこと
それは端的に同じ時間同じ空間に長く居るということ

しかも粘り強く
つまり
異邦人も去らない
迎える共同体もかかわりを浅くしない

すると

そこで獲得できるものは言葉で表現できないほどに
豊かで優れたものであること


もういいかげん長くなってしまったので
ここらへんにしときます