市民大学院ブログ

京都大学名誉教授池上惇が代表となって、地域の固有価値を発見し、交流する場である市民大学院の活動を発信していきます。

智恵のクロスロード第46回「藤原三守と古川鉄治郎の教育に対する貢献」近藤太一

2016-03-08 16:52:37 | 市民大学院全般
 藤原三守(ただもり)(785~840)は、平安初期の公卿。藤原南家の祖である左大臣藤原武智麻呂(むちまろ)の曾孫(ひまご)。官僚として嵯峨天皇の傍(そば)で昇進する。淳和天皇在任中大納言に就任した。温和で慎み深い性格の一方、決断力もあった。天台・真言宗の熱心な後援者であり、最澄の大乗戒壇設立構想も藤原冬嗣らと尽力した。その結果弘仁14年(823)、初代延暦寺俗別当に任ぜられた。嵯峨天皇の信頼が深い空海が、私塾綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を建立(天長5年829)する際、空海に自分の邸宅を提供した。今の近鉄京都線東寺駅の周辺である。空海は、全学生・教師への給食制を完備し、全寮制にして、貧困者を救った。学習も儒教や道教・医学・工学も入れた総合大学を開校し、イタリア ボローニャ大学開校より2世紀早かった。
 この世界に誇る綜芸種智院は、藤原三守のドネーションがなかったら、開学できなかったのである。
 次に、古川鉄(ふるかわてつ)治郎(じろう)であるが、明治11年(1878)古川半六の次男として滋賀県犬(いぬ)神(がみ)郡豊郷(とよさと)町49院で生まれた。家は古くから油屋をやっていた。明治20年に「尋常科至塾学校」(豊郷尋常小学校の前身)を満9歳(当時小学校は4年生まで)で卒業した。鉄治郎は、明治22年、満11歳の時に叔父の初代伊藤忠兵衛のもとに書生(丁稚見習い)として預けられたが、「泊雲塾」に通わせてもらい、2年程勉学(漢籍・英語・簿記)し、伊藤本店の中年者(丁稚の上)として入店した。大正7年伊藤忠商事株式会社と㈱伊藤忠商店に分離独立し、大正10年株式会社丸紅商店が設立された時には、専務取締役(43歳)として引っ張って行った。古川鉄治郎は、「丸紅精神五カ条」を制定した。この五カ条は礼儀や正義、向上心の大切さを旨としており、「自己も利し、他人も利し、社会も利し、三方よし」の近江商人の真骨頂を礎(いしずえ)にしている。そして古川は、1920年代に船で外遊。欧米の科学技術の水準の高さを目の当たりにし、将来を担う子供たちの初等教育の重要性に目覚めた。滋賀県豊郷町に1937年白亜の建物を完成させた。古川自身の個人資産の3分の2、今の時価で十数億円相当を寄付し、同校舎を建設したという。米国人宣教師でもあったヴォーリス建築事務所へ発注し、鉄筋コンクリート製、水洗トイレや冷暖房設備まで完備、当事の世界最先端の技術を尽くしたものだ。地元の後継者を想う心が新校舎の建設であった。
 この二人の社会に対する貢献は、氷山の根底に行基の思想が隠れている。空海は、行基の行動を加速させた。仏国土の現実化である。また古川鉄治郎が生まれた豊郷町(とよさとちょう)49院は、行基がここに49番目の寺院を開基し、49院という寺院名であった。現在の浄土真宗唯(ゆい)念寺(ねんじ)がそれである。常に社会の要求しているものの実現であった。崇高さと緻密な人生構想力が滲み出ている。
              近鉄阿倍野百貨店ハルカス文化サロン講師 近藤太一