市民大学院ブログ

京都大学名誉教授池上惇が代表となって、地域の固有価値を発見し、交流する場である市民大学院の活動を発信していきます。

今日の話題「いま、地域再生を実践するー創造産業地域論事始め」(9)2014年10月29日

2014-10-29 22:02:43 | 市民大学院全般
「文化資本が生み出すもの=衣の文化資本」池上惇

{文化資本が生み出す有体財産(目に観える文化資本)―衣食住のうちから「衣」に関わるもの}

 これまでのご説明で次のことをあきらかにしてきました。
 「文化資本の本質は目に観えない無体財産であり、人間が自然や社会から学習する中で体得した‘心・智慧・技・術など職人能力’である。」と。
 この貴重な職人能力は、コミュニティにおける技・文化的伝統の市民による共有を土壌として、個々人の人生における経験と学習を通じて個性的に体得されました。
 この「無体財産」は、無体財産を持つ個人が「心・知・技」を働かせることによって自然の資源を生かし、他人との文化的伝統の共有・相互尊重を基礎とした‘信頼関係と協働’によって自分の身体で覚えたもの。体得した職人能力です。
 この職人能力は、一つの能力ではなくて、一つの能力に、もう一つ、もう一つと、積み重ねられてゆきます。例えば、かつて、日本人の多くが身につけていましたのは、「農」についての職人能力でした。その時代から「百姓」と呼ばれたように、農民は、手仕事して家内製造業を営み、絹や綿や麻を織り、山から木を伐りだして家をつくり、天秤棒で野菜などを担いで商人となりました。他の地域に出かけては、よいものを見つけて持ち帰り、他地域の農民から、技術を学びました。まさに、重層的な構造を持った職人能力の持ち主であったわけですね。「目に観える文化資本」を産み出します。
 いまでは、農民としての重層的な職人能力を持つ人々は、都市への移住が進む中で減少しましたが、現代では、都市で身につけた事業経営などの職人能力を基礎に、アイターンなどで、農村に赴き、そこで、経営能力に、農民から製造業者、商人、調理職人などの多様な能力を身につける方々が急増しています。
 このように、重層的な職人能力を持つ人々のもつ、文化資本は、身体で覚えたものですから、目には見えません。が、その人々が実践する仕事や生活を通じて、生み出された創造的な成果は「目に観える文化資本」を産み出します。
 前回は、衣食住に関わる「目に観える文化資本」として食文化を取り上げました。
 そこでは、次のように指摘されています。
 「農民は、地域固有の有機農法を継承しながら、体得された熟練・独創・技巧などを発揮して、コミュニティの智慧を集めて水を制御しつつ、よき土壌を産み出し、気候風土に合った銘柄米、地域ブランドの野菜、果樹、花卉などの多様な特産品を産み出します。
 これらは、単品で見ますと、普通の商品のように消費されて消えてしまいますが、銘柄やブランド、特産品として、集合的に把握しますと、生産者と商人、顧客の信頼関係を通じて持続的に供給され常に在庫や蓄積された「集合的な商品」として三者の間で保管され、語り伝えれて次世代の消費行動にまで影響を与えます。このような「在庫・蓄積された商品の集合体」は、「目に観える文化資本」なのです。生産者は生産物が消費されても「素晴らしい味や品格のあるブランドを創りだす職人能力」は、人々に間で物語のように語り継がれてゆきます。このような物語が単品のように見える消費財を「目に観える文化資本」に変換してゆくのです*。」
*ここで示されている「食における目に観える文化資本」は、従来の、文化資本論では研究の対象外に
置かれていました。例えば、普及している、D.スロスビーの文化資本概念では、「目に観える文化資本」には、耐久消費財のように見える絵画や彫刻、工芸品などと、建築物が中心である文化財などを含みますが、食に関わるものはありません。「第一のものは‘有形’で、建物や様々な規模・単位の土地、絵画や彫刻のような芸術品、工芸品などの形で成立している。」( D. Throsby、Economics and Culture,Cambridge:Cambridge University Press,2001,(中谷武雄,後藤和子監訳『文化経済学入門 創造性の探求から都市再生まで』日本経済新聞出版社,2009年,81ページ)
「衣」の文化資本とは、どのようなものでしょうか。

{衣の文化における‘目に観える文化資本}

 衣の文化の原点は、藤、麻などの繊維、蚕の繭など、自然素材から「衣」類を織物として、つくりだす職人の技です。伝統の技と文化が織りなす地域ブランドでした。
 ここにも、食文化と同様に、地域ブランドとして持続的に世代を超えて継承される「衣」の‘目に観える’文化資本があります。
 先日、デザイン・ユニオンの衣装デザインや伝統産地の起業や事業展開のデザインをコーディネイトしておられる方からのお薦めで「丹後の宝」展示会を訪問しました。都心の百貨店での特設会場で、丹後の「衣」と「食(酒・ワインなどを含む)」の総合的な展示と販売の場でした。運悪く、九州の食文化を集めた特売場と隣り合わせでしたが、それにもかかわらず熱意のある訪問客が多く、「本物」への関心が高まっていることを示していました。
 私がご説明を、まだ、若手の職人からお伺いしたのは、貝殻を織り込んだ黒地の豪華な織物と、藤の繊維を生かした、絹とのあわせ織、麻や絹を生かしたショールなどでした。折角来たのだからと、マフラーにもなる立派な作品を頂戴しましたが、色調と言い、手触り、風合いなど、本物のよさが伝わってくる銘品揃いでした。
 丹後は、海で、中国や朝鮮とつながっていて、古代から徐福が上陸して農業や織物、金属加工や造船の技術を伝えたと云われてきました。徐福は村の長にも選ばれて、いまは、神社に神として尊敬されています。
 この地の伝統文化が、「衣」の技となって、現代にも継承され、優れたデザイナーの指導を得て、パリ・コレなど、世界の舞台にも一部は出品されていて、現代にも通じる国際派でした。織物は、着物などの衣料品だけでなく、多様な小物、ハンドバッグや財布、風呂敷、壁飾りなど、多様な用途に展開され、気品のある雰囲気を演出していました。
 この地では、若手の職人が名人から技と文化を継承し、現代のデザインを学んで、日本と世界の生活の中に、「本物」を根付かせていること。勿論、海外からコストが安くてファッション性のあるデザインが怒涛のように流入する中で、苦戦しながらの大奮闘でした。 
 ここでも、職人は地域固有の伝統の技、職人技能を継承しながら、体得された熟練・独創・技巧などを発揮し、コミュニティの智慧を集めて原材料を確保し、機械織りの可能な部分は機械を導入しつつ、最も核心のところは熟達した手仕事で創意工夫を凝らし、卓越した技巧を発揮されています。丹後は、「結=ゆい」の伝統が継承され、困ったときには、互いに、助け合い、同時に、かつて、中国からの文化を受け入れたように、日本の都市やフランス、フィンランドなどの職人技やデザイン、技術を受け入れてきました。
 よき風土が、異文化交流のなかで、伝統を生かす習慣を産み出して、地域ブランドを産み出しました。
 これらは、単品で見ますと、普通の商品のように消費されて消えてしまいますが、銘柄やブランド、特産品として、集合的に把握しますと、生産者、デザイナーと商人・経営者、顧客の信頼関係を通じて持続的に供給されます。そして、常に在庫や蓄積された「集合的な商品」として関係者の間で保管され、語り伝えられて次世代の消費行動にまで影響を与えます。このような「在庫・蓄積された商品の集合体」は、食文化の場合と同じく、「目に観える文化資本」なのです。生産者は生産物が消費されても「かけがえのない品質・デザイン、品格のあるブランドを創りだす職人能力」は、人々に間で物語のように語り継がれてゆきます。このような物語が単品のように見える消費財を「目に観える文化資本」に変換してゆくのです*。
©Jun Ikegami

今日の話題「いま、地域再生を実践するー創造産業地域論事始め」(8)2014年10月11日

2014-10-11 22:01:00 | 市民大学院全般
「文化資本が生み出すもの=食の文化資本」池上惇

{文化資本が生み出す無体財産と、有体財産(目に観える文化資本)}

 これまでのご説明で次のことをあきらかにしてきました。
「文化資本の本質は目に観えない無体財産であり、人間が自然や社会から学習する中で体得した‘心・智慧・技・術など職人能力’である。」と。
 この貴重な職人能力は、コミュニティにおける技・文化的伝統の市民による共有を土壌として、個々人の人生における経験と学習を通じて個性的に体得されました。
 この「無体財産」は、無体財産を持つ個人が「心・知・技」を働かせることによって自然の資源を生かし、他人との文化的伝統の共有・相互尊重を基礎とした‘信頼関係と協働’によって「目に観える文化資本」を産み出します。
 では、食、衣、住それぞれについて、無体財産としての目に観えない文化資本が、有体財産としての「目に観える文化資本」を産み出す過程を研究しましょう。

{食文化における‘目に観える文化資本}

 例えば、農民は、地域固有の有機農法を継承しながら、体得された熟練・独創・技巧などを発揮して、コミュニティの智慧を集めて水を制御しつつ、よき土壌を産み出し、気候風土に合った銘柄米、地域ブランドの野菜、果樹、花卉などの多様な特産品を産み出します。
 これらは、単品で見ますと、普通の商品のように消費されて消えてしまいますが、銘柄やブランド、特産品として、集合的に把握しますと、生産者と商人、顧客の信頼関係を通じて持続的に供給され常に在庫や蓄積された「集合的な商品」として三者の間で保管され、語り伝えれて次世代の消費行動にまで影響を与えます。このような「在庫・蓄積された商品の集合体」は、「目に観える文化資本」なのです。生産者は生産物が消費されても「素晴らしい味や品格のあるブランドを創りだす職人能力」は、人々に間で物語のように語り継がれてゆきます。このような物語が単品のように見える消費財を「目に観える文化資本」に変換してゆくのです*。
 産地の調査やヒアリングをしていますと、生産者の中の‘名人’‘師匠’‘親方’などとの継承で呼ばれておられる各位にお目にかかれる光栄な機会があります。この方々の「物語」は、単品のように見える商品を、集合的な銘品、逸品、ブランド品などのイメージに転換し、新たな文化的伝統として、地域文化から、「地域間の交流を呼び起こす‘生産者・商人=経営者、顧客’のネットワークで共有する文化」へと発展してゆきます。
 農産物や海産物は食文化の基軸です。この領域における「目に観える文化資本」は、食事の場での対話や雰囲気を通じて、銘品やブランド品、特産のさかな、海藻などを目の当たりにして食卓を囲む人々のもつ「目に観えない文化資本」に強い影響を与えます。食事の話題に、銘柄米をつくる職人や、、それを世に出した米商人や道の駅の経営者たち。かれらの生き様や生活文化は、美味しい食事によって人々に栄養やエネルギー源を供給するだけでなくて、「目に観える文化資本(例えばお茶碗に盛られた艶の良い白米)」がもたらす物語を通じての「生活者学習」が生まれるのです。この学習は、人々の心を耕して、貴重な体験談を受け入れる素地を産み出し、誠実で労働の尊厳を重んじる高い倫理性や、職人技の持つ智慧からの学習や、手業への関心、農業や、農業と学習の両立を目指す生活への関心を呼び起こします。学校教育の中で、これらの職人の物語が教えられていますと、食文化を通じての文化資本獲得への道は大きく開かれることでしょう。食育、共食などの習慣が生み出す効果は測り知れません。

*ここで示されている「食における目に観える文化資本」は、従来の、文化資本論では研究の対象外に置かれていました。例えば、普及している、D.スロスビーの文化資本概念では、「目に観える文化資本」には、耐久消費財のように見える絵画や彫刻、工芸品などと、建築物が中心である文化財などを含みますが、食に関わるものはありません。「第一のものは‘有形’で、建物や様々な規模・単位の土地、絵画や彫刻のような芸術品、工芸品などの形で成立している。」( D. Throsby、Economics and Culture,Cambridge:Cambridge University Press,2001,(中谷武雄,後藤和子監訳『文化経済学入門 創造性の探求から都市再生まで』日本経済新聞出版社,2009年,81ページ)
©Jun Ikegami

今日の話題「いま、地域再生を実践するー創造産業地域論事始め」(7)2014年10月9日

2014-10-09 18:38:15 | 市民大学院全般
「デカンショの歌:無体財産=文化資本の本質と現象」池上惇

{目に観えない本質が現象となって目に観えるようになる}
 これまでのご説明で、文化資本は目に観えない無体財産であること。
それが、人から人へと仕事や生活を共にする中で、学びあいを通じて継承され、育ちあいの中で体得されてゆくこと。これらを研究してきました。
 文化資本を体得した人は、知識を実践に生かし、自然や人々と共生しながら敬意と心をこめてものをつくる。そして、このことを通じて、ものの形を取った「目に観える文化資本」を産み出すことが出来ます。
 つまり、形がなくて目に観えないものが、文化資本の本質であり、この本質から、目に観えるもの、つまり、「現象」が生み出されます。
 本質と現象という術語は、今どきの若い世代には、「なに、それ?」でやり過ごされそうですが、私どもの世代(超高齢期)にとっては、「おや、懐かしい術語が久しぶりに出てきたな」という印象でした。
 その理由は、私どもが、が若いころに学習していたのは、日本語では「本性が現われる」にあたる学術用語で、本性は本質。現れる=現象だという常識が通用した時代だったからです。日本語では、「本性が現われる」という言葉は、賢い人間は観ただけではわからないが行いを見れば、本性が分かる。また、ウソつきの人間は、そのひとの行為をみれば、バレテしまう、という意味につかわれていました。キツネが美人に化けて皇帝を惑わし、人の行動や行為の意味をよく知っている占い師や高僧によって本性を見破られる、などのストーリーも広く普及していました。本質は観えなくても、現象である、実践の結果を見れば、本質を理解できる。このように考えられていました。この「本質を発見し見破れる人」は、高僧などの例からもわかるように、人の過去についての考察力を持っていて、同時に、実践の結果についても公正な評価のできる人なのでしょう。
 当時、学生に、本質と現象という術語を普及させたのは、日本の昔話ではなくて、西欧の哲学でした。明治維新で西欧からの科学技術導入と、おいつき、追い越せ、の時代を象徴していたのが、「科学的にものを考える習慣」の必要性でした。
 高等教育において、主観ではなく、客観的にものを見て、考える習慣を身につけるには、どうするのか。当時は、人間の本質という「目に観えないもの」がどのように人間の外に現れてくるのか。これを知ることが、科学的にものを考える人間を育てると考えたのでしょう。
 当時、もてはやされていたのは、デカルト(1596-1650;物心二元論)、カント(1724-1804;批判的な理性の力で観えない本質を探究する)やヘーゲル(1770-1831;目に観えない絶対的な本質が現象として現実のなかに現れる)、そして、ショーペンハウエル(1788-1860;現象の背後にある美と倫理を発見するなかでの本質の追求)の哲学でした。
 なぜ、そうなっていたのかは、旧制高校時代の教育の伝統が1950年代にまで残っていたからだと思います。
旧制高校では、多くの学生が「デカンショの歌」をコンパのたびに歌っていたようで、その文化的伝統?が私どもに影響を与えたのです。その歌詞は不正確でしょうが「デカンショ・デカンショで半年暮らす。あとの半年は寝て暮らす。ヨーイ。ヨーイ。デッカンショ」でした。先輩によりますと、「デカンショ」とは、デカルト、カント、ショーペンハウエルという大哲学者の略称だったそうです。
 どうして、このお三方に歌詞が絞られたのかは、先輩も知りませんでした。でも、この歌詞には、「真理の探究のために難解な哲学を教えてもらうのもよいが、人間らしく寝て暮らすのも悪くないなあ」とも、とれるところがあります。学生たちの批判と皮肉の精神でしょうか。
 当時の哲学では、目に観えない本質の背後に神や絶対精神などがあるとか、いや、神はなく人間の満たされぬ欲望があるとか、「目に観えない人間の本質」については、諸説がありました。ここで、学生たちが、思考を止めて寝てしまわないで、現象の中に、人間の仕事や生活の歴史や実践を見て、ここから本質を考える習慣を身につけてほしかったなあと感じるのは、私だけでしょうか。
 無体財産としての文化資本が生み出すものとは何か。これを次の課題とします。
©Jun Ikegami

今日の話題「いま、地域再生を実践するー創造産業地域論事始め」(6)2014年10月6日

2014-10-07 00:55:29 | 市民大学院全般
「無体財産の共有・個性化そして継承から創生へ」池上惇

{無体財産を個人から個人へと伝達するには}
 前回に述べたように、目に観えない文化資本は、まず、第一に、地域などの文化的伝統を共有する人々のもつ共同資産である。そして、第二には、文化資本は、この共同資産から地域コミュニティを構成する個々人が学びつつ、同時に、並行して、自分の実践知を蓄積し‘職人の技や心として体得した個人の無体財産’でもあります。これを「文化資本の重層性」と呼んでおきましょう。このような文化資本を、誰かが、発見して、地域再生のために生かそうとする。
 このような情景に出会ったことがあります。いまから、数年前に、「葉っぱビジネス」で有名になった上勝町にヒアリング調査に出かけた時のこと。このビジネスを提起し、町の人々に起業を促したのは、横石知二先生であった。先生は農協の職員として、この町に赴任され、男性が昼間から酒を飲んで役所に陳情に来るのに対し、女性は、稲作やミカン栽培、花卉の生産に励んでいるという現実に直面された。日本の各地にみられる農林業の担い手の高齢化・女性化である。
 さらに、先生は、高齢女性農民が身に着けている高い職人技や、誠実で勤勉な働き方に注目された。文化経済学によれば、技(熟練・独創)と仕事の文化(誠実・勤勉)は、職人能力ともいうべき文化資本である(この考え方は、P. ブルデユーによる)。
 先生は、文化経済学とは、無縁でいらしたようであったが、わたくしの目から見ると、先生は、高齢女性の文化資本に注目されて、その可能性を引き出し、「葉っぱビジネス」という起業の場を苦労の末に開発された。彼女らは、全国の中央卸売市場を通じて「つまもの=葉っぱ」の需要が高いときに、その情報を、横石先生から情報システムを通じて提供を受け、1時間以内に、必要な葉っぱを採集して供給することができる。年収も相当な金額になって、家が建て替えられ、子供たちが戻ってきたそうだ。
 彼女たちの文化資本が、この町の産業の歴史のなかで発見され、葉っぱという商品を創造的な成果として生み出したのである。このように、過去の歴史と、未来へのビジネスに立ち会ってもらって、高齢女性の文化資本という「目に観えない資産」が見えるようになったのだ。
 そして、ミカン生産が気候の変化で続かなくなり、農産物の出荷が困難になり、このビジネスがなかったならば、後継者不在で、継承されなかった高齢女性の文化資本が、子供たちが帰ってきたり、多くの若者がアイターンとして、この地に住み着き、農家に定住する中で、継承され始めたのである。
 この継承過程においては、若者が身に着けている情報機器活用技術が高齢女性にも伝えられ、彼女らの職人能力の重層化がすすむ。情報伝達への応答力が高まれば、より多様な樹木を栽培して、より多様な葉っぱを供給しうる潜在能力が高まる。創意工夫や独創の余地が大きくなり技巧が高まる。これらは、持続的な産業発展の基礎となる。
 ある地の文化資本が人から人へと継承されて、次世代が職人能力を引き継ぎ、科学や技術の成果を加味して、より質の高いイノベーションを呼び起こしながら、産業が持続的に発展する。この基盤があれば、緑が再生し、美しい景観が生まれ、ゴミゼロ運動が始まり、コミュニティが再生する。「日本一美しい村」の魅力と、多様な農産物や渓流の魚などの味覚が人を呼び込む。横石先生の実践から学ぼうと、多くの研修生が訪問する。グリーンツーリズムと、研修コンベンションのもたらす人流が交流人口を増加させる。交流人口が、また、後継者を、この町に呼び込む土壌となる。
 いま、過疎や人口減少で消滅すると言われている。しかし、この経験は、よく考えてみれば、日本各地に現実に存在する「文化資本」の発見によって再生やはっての道がありうることを示唆する。
 いま、遠野ツーリズムの研究にとりかかっているが、ここでも、就業人口に占める第一産業比率は20%もある。農林業の文化資本が継承・発展してこなければ、このような数字が残ることはないであろう。そして、この農業や林業の営みが大きな魅力となって、遠野で、学び、研修する人流が持続している。
 地元の文化資本が発見され、文化資本を生かす仕事が起こされ、仕事の成果を享受する、ツーリズムが成り立つところ。ここに、地域再生の活路がある。
 同時に、この活路を予め封鎖して、農地を集約し、撤退や、大規模化を企画する動きも後を絶たない。上勝でも、遠野でも、活路の拡充を担ったのは、ツーリズムとともに来訪した都市の人々である。これらの動きを、都市の企業活動がCSRやCSVのかたちで、推進したならば、さらに、大きな流れが生み出せるであろう。西の上勝と、東の遠野が、このような動きの先駆を生み出されたことに対して、心より、敬意を表したい。
 このような動きは、被災地をはじめ、産業再生、アイターンの増加、訪問人口増加を通じて、全国に広がりつつある。しかし、多くは評価されず、支援されず、孤立化して自信を失うケースも少なくはない。いまこそ、地域固有の文化資本と、個人の資産としての文化資本に注目し、その潜在能力を開花させために、場を開くときである。©Jun Ikegami

当面の予定
10月7日(火)17時半 京都まちづくり学(山田先生)
10月8日(水)14時 現代観光政策(近藤先生)
       16時 文化経済学(中谷先生)
10月9日(木)16時 中山間マネジメント論(古畑先生)
10月15日(水)16時 ラスキン学(内藤先生)
       17時半 文化政策・文化経営学(池上先生)
10月17日(火)16時 地域生態計画と住民運動(シャピロ先生)
       17時半 都市未来学(シャピロ先生)



今日の話題「いま、地域再生を実践するー創造産業地域論事始め」(5)2014年10月3日

2014-10-04 00:52:20 | 市民大学院全般
「地域再生は‘文化資本=無形資産’の客観的評価から(続)」

{高度な科学技術を仕事や生活に応用するとき、慎重さを欠けば不安と不確実性が生まれる}
 前回のブログでは、農業を大量生産方式に改革しようとする人々のご主張をご紹介した。
 ご主張は、科学技術の進歩による生産や経済の無限ともいえるほどの発展の可能性に期待しておられる。また、ここにいう科学や技術は、単に、生産物の質と量を改善するというだけでなくて、遺伝子の組み換えによって、温度差に強い米・トマト、害虫に強い品種など、自然環境に適応して食料の供給を安定させるものが含まれている。
 これだけを聞けば、有機農業など、伝統文化にこだわった人手のかかる農法は諦めて手間のかからない量産体制に依存し、労働期間を短縮して、余暇を楽しむ生活を選択したほうが合理的であるように見える。
 しかし、遺伝子組み換え食品が本当に安全なのか。もしも、安全ではなくて、遺伝す組み換え食品を購入して調理して消費した人々や、それらの人々の子孫が健康で持続的な市民生活が送れるのか。このように問い詰めた時の答えは、そのようなものであろうか。対話再開。  

池上「あなたが科学技術の可能性に期待しておられる。このご期待は、‘慎重さ’を欠いていると私は思います。」
批判者「そうかもしれません。しかし、慎重なだけでは進歩はありませんよ。不確実性やリスクがあっても敢えて挑戦するからこそ、挑戦された方の所得も増えるし、経済も発展するのではありませんか。あなたのように慎重を重んじて、過去の古い文化的伝統を優先する考え方は社会進歩を妨げる保守反動の考え方です。所得が低くても我慢して自然を守り文化財のような家に住めというのですか。多少の犠牲は覚悟してでも挑戦する気持ちが必要です。」
池上「いや、決して我慢せよなどとは申しません。科学技術を研究することは大賛成。所得を増やすために、創意工夫するのは大賛成、自然を守り文化財のような家に住むのも大賛成。不確実性やリスクをなくする研究や努力も大賛成。生活の質を上げるのも大賛成。ただ、科学技術の成果を仕事や生活に応用するには慎重さが必要なのです。むしろ、慎重さのおかげで、健康で生きがいのある生活と、経済の発展が双方ともに実現するのです。」
批判者「それは、夢のような話ですね。」
池上「そうではありません。現実の話です。ただ、この現実を見るには、流行の通説というメガネをかけないで、公正な眼で見る必要があります。」
批判者「これは聞き捨てならないですね。私には公正な眼が備わっていないといわれるのですか。」
池上「いや、決して、そのようなことを言っているのではありません。みなさん、公正な眼をお持ちなのですが、たまたま、メガネをかけられているので、メガネをはずしてみていただけないかと申し上げているだけです。」
批判者「わかりました。では、はずしましょう。どうすればはずせますか。」
池上「‘人手をかける仕事は人件費が高い。だから効率よく仕事をする機械に人を置き換えれば、コストが削減されて企業の競争力が高まる’。この通念を忘れてください。機械の導入や科学技術の応用は人件費削減のためではなく、人々の仕事を支援するためだと単純にお考えください。」
批判者「忘れてみましょう。機械導入などの動機も素直に人々の立場にあって考えましょう。では、何が観えるのですか。」
池上「人手をかける人の持つ職人技や伝統文化という‘無体財産’が観えてきますよ。職人技を持つ人は、貴重な無体財産を持っているのです。本人たちは必至で自己評して自分たちを解雇しないように訴えるのですが、でも、機械と競争させられますと、その貴重な財産は無視されて単なるコスト要因にされてしまうのです。」
批判者「そうかもしれませんが、無体財産といわれても実際に見えないと意味がない。無体財産を観るにはどうすればよいのですか」
池上「その‘無体財産を持つ人’の生い立ち・職人技や伝統文化を身につけるための人生をかたってもらうか、そのひとの友人に聞くか、そのひとの先生に聞けばよいのです。この聞き取りの成果を文字にすれば、観ることができます。その人の過去の実践に目を向ける。これがひとつ。
 もう一つの方法は、その職人が生み出した、作品(工芸品、商品など)を観て機能性の高さや芸術性の高さを評価すればよいのです。また、その職人の著作物を観れば、文字、映像、音声などの言語を通じて観ることができますね。」
 批判者「それは、職人の歴史と、作品をみて、そこから、‘観えない財産の意味や価値を知るということ’ですね。どこかで聞いたような気がするなあ。イタリアの思想家、ヴィーコらが言っていた「古代人の神話を読み解く方法」とか。あれと同じですか。
 池上「そうです。コスト要因として削除しないで、職人の持つ文化資本を公正に、客観的に評価しませんか。これが私の提案です。そうすれば、無体財産の意味が読み解けるのです。文化資本は、創意工夫や熟練、技巧、自然との共生・人間尊重などのモラルを生み出す‘元手’といってよいのです。それが観える。そして、よめるのです。」
批判者「なるほど、コストとみなければ、たとえ、機械を導入しても、あるいは、科学技術の応用を実行しても、職人を解雇する必要はない。職人が、機械のそばにいて働いてくれれば、彼らの文化資本によって、さらに、積極的な研究開発ができる。また、誤った判断によって導入された科学技術応用の負の側面をも認識し是正できる。あるいは、機械・技術の導入を早期に撤回することもできる。これによって、時代に遅れることなく、より豊かな人生、健康と生きがいの人生が実現するというわけですね。保守反動どころか、最も進歩的な思想だと思います。対話の機会に感謝。」
©Jun Ikegami