市民大学院ブログ

京都大学名誉教授池上惇が代表となって、地域の固有価値を発見し、交流する場である市民大学院の活動を発信していきます。

智恵のクロスロード第37回「熟年や成熟に含まれる“秘められた強さ”」近藤太一

2015-04-22 12:58:49 | 市民大学院全般
 熟年や成熟という言葉は、ややもすればマイナスのイメージが付きまとう。熟年という言葉がある時には「濡れ落ち葉」のようにとられるところから最近はシニアで表現される場合が多い。また成熟社会とは低成長・停滞の代名詞だ。だがそれは海外の人が見れば競争力の源泉だという。これを機に、成熟を活かすにはどう考えたら良いだろう。
 第一に、短気と気長(きなが)のバランスである。時間をかけたくないモノには徹知的に削ぎ落とす。一方で、楽しみたいモノにはじっくり取り組む。例えば早く移動したいならば新幹線「のぞみ」が良い。しかし、沿線の景色や駅名の移ろいを楽しむなら東海道線の情緒も棄て難い。特に江戸時代に東海道53次と決められた。この53次は、宿泊し、53人以上の人々から教えを請う『華厳経』終章「入法界品」の部分で善財童子が文殊菩薩の指南により善知識を求める部分である。53人とは海師・長者・賢者・バラモン・外道(仏教以外の宗教を信じる人)・王・道場地神・天・夜神・仙人・比丘尼・女性などであり、女性の中には娼婦まで入っている。かえって著名な仏弟子などは訪ねていない。人間の価値は地位・身分・職業・性別・その他出家・在家、宗派の違いなど一切の区別を認めないという華厳思想の反映である。江戸時代は、江戸から京都までの53人の人々から学べ!という文殊菩薩を引き出してきている。従って東海道ローカル線に乗って景観・地名・駅名から酒類の好きな人はちょびちょび・・・飲みながら楽しむのである。帰りは東名高速バスでもまた新しい景観が体験できる。
 ローカル線地域にも経済の価値が創造できる。
 第二は、異文化との融和である。世界を震撼させている宗教対立も、日本は千年以上かけて「八百万の神」的発想で融和の道を歩んできた。融和には「他を認める」「自分も主張する」「周りも喜ぶ」といった視点が欠かせない。これは石田梅岩の心学での「三方よし」である。商道徳の基本として明治維新から今日まで経過して来た。
 他にも成熟を活かす方法は、侘び・さびにも隠されている。「効率」「合理化」「資産価値」という資本主義利益思想の中にこの成熟の競争力が垣間見られる世界の湧出であろう。
               (ハルカス近鉄文化サロン講師:近藤太一)

智恵のクロスロード第36回「世阿弥「班女」の扇物狂い~楽劇舞台考証と女の祈りについて~②後篇」西端和美

2015-04-13 19:44:24 | 市民大学院全般
 編著者未詳とされる宇治拾遺語は、全197話から成る説話集です。その内容は、四方山話や教訓めいたもの、滑稽な顛末やインドや中国の故事に因むものまで様々ですが、その中の数編には京都の実際の地名が登場し、話の舞台となった場所を特定出来るものがあります。巻第三・十五「長門前司の女葬送の時本所に帰る事」はその一つです。
 詳細な読み解きについては、またの機会を設ける事としますが、話のあらすじは、若くして亡くなった貴族の娘が鳥辺野へ向かう葬送の時に屋敷に戻ってしまい、仕方なく元の場所に埋葬することになるというもので、その位置が現繁昌神社境外飛び地の「はんにょ塚」に符合します。
 遺体が勝手に帰る顛末の信憑性は別にしても、高辻室町の西という現実の住所が示されている点は重要です。特には、宇治拾遺物語が「今は昔」と呼ぶ時代から今に至るまで、同じ神座を保ち続けた地域史を裏付けている証と考えて間違いは無さそうです。
 京都市や下京区の歴史資料などの公の文章にも、神社の起こりをこの説話の通りとするものも少なくありません。ところが、肝心の繁昌宮に創立の資料は無く、創立後の沿革も天明の大火(※1788年)、元治の兵火(※1864年)によって宝物・書物の殆どを喪失したという綴りがあるばかりです。昭和に入ってからの神社由緒書の中には、宇治拾遺物語と当社起源に関係は無いと正した文書もありましたが、信仰の対象、謂わば、聖地を大衆読み物の舞台と口伝された神社側としては当然のスタンスでありましょう。
 殆どを喪失した神社由緒の「殆ど」以外の存在が気になっていた私が、「繁昌社實傳記」という和綴じの冊子に出逢ったのは、去年の夏のことでした。神輿巡幸に先掛けて改修した神輿蔵から一昨年に取り出した古文書類の中に埋まっていたのです。ここにあった藤原何某の娘の話は面白く、前後関係のはっきりしない長門前司の女の唐突なミステリーよりも読み応えのある伝説でした。「当町藤原家に残る写本は凡そ壱千年に渡って書き写しながら今に至る(※最も新しい写しは大正3年の冊子)」と注釈された経緯からは、おそらく、災害をさけて氏子が持ち出したり安全な場所に保管したりしながら後世に残そうとした努力が見てとれます。これは近隣の山鉾町にも見られることで、ご神体や装飾品が洛外で被害を免れた例も多く、町衆が個人の家財よりも地域共有の宝の保全を優先させた話は山鉾町の常識のように沢山残っているのです。
 實傳記に記された「姫」は琴の名手で、宮中に仕えた身でしたが、天皇から受けた寵愛を妬まれて隠遁生活を余儀無くされます。己の身を唐土の「班女」に重ねて、「繁女」と名乗ったと言います。悲しみの内に暮す或る夜、夢枕に現れた天人から桃の花を授かり、煩悩から解放された後は、男女の道を祈る天女と変わっていくのです。祈りの道を拓いた彼女を次に襲ったのは死に至る急な病でした。この先の「本所に帰る」不思議な話は拾遺に繋がりますが、この地を去り難かった訳が、民衆の祈りを受け止める神格性あるいは神と人とを取り持つ巫女の役割を持っていたからだとすれば、動かぬ遺体をこの場に葬って祠を立てる事は信仰者の純粋な願いであったかもしれません。たとえどのような身分であっても、余程の理由が無い限り、故人を洛中に葬る行いは固く禁止されていた時代の出来事です。運命に翻弄されながらも、自分という核を取り戻す有り様が救いのようにも思えます。これは、狂う程の苦悩の中に居ても、実は正気であった花子の強さに通じます。一つの仮説に過ぎませんが、女性の立場特有の切なさではなく、思いのままにならない人生の中に希望や信念、信仰を見失わない生き方に焦点を当てれば、個の苦悩から解放されて、世の男女の和合を祈る身となった姫の生き様・死に様が、そのまま神格化された可能性も浮かんできます。繁昌宮が怨念や祟りを鎮める為の鎮座ではなく、暫く前までの町内では、「おはんにょさん」とも「おはんにょ大明神」とも呼ばれていたところが、私が、生前の姫の神性をイメージして憚らない理由でもあるのです。
 都の夏の真夜中に、裸の男達に担がれる神輿渡御は奇祭として永く語り継がれたようです。神輿を担げば、下の病気に掛からない利益があるとして若者達が担ぎ手を志願し、勇ましい男衆の姿を見ようと若い娘が繰り出したと言います。自利を捨てて、睦まじき男女の縁を願った「はんにょ」の神徳は、具体的な子孫繁栄を促す為の出逢いの場を構築したことになります。ものごとの始まりと終わりをどこに置くかは、読み手の感性によるものでしょうが、繁昌祭りの継承に見る女神の存在を数百年のスケールで感じれば、単純な悲運物語ばかりとは呼べなくなります。そして今は昔、繁昌社實傳記を元にした伝説が語られたかもしれないことを重ねると、宮の風景は一気に情感を帯びてくるのです。
 どのくらい前だったでしょう。宇治拾遺物語と繁昌宮の関係を研究していると云う青年がやって来て、この辺りに祟りや怪奇現象はありますかと質問されたことがありました。勿論、そんな話は聞いたこともありませんでしたのでそのままに答えますと、随分残念そうでした。今でも時々、彼の失意のリアクションを思い出して笑ってしまいますが、どうやら神様のイメージは、時代時代の流行や好みの影響を受けるもののようです。金運・財運の利益があると噂されればそのような関心が高まり、怪奇や妖怪がブームになればその筋のマニアのメッカになることもあるでしょう。個人的には、目的は兎も角、誰も来ないよりは参拝が多い方が楽しいとは思うのですが、日常を過ごす場所が不気味と伝わるのは心地の良いものではありません。守る者にとっては、穢れを祓いながら人と神が繋がる宮を聖地として清らかに保つことこそが、奉仕の大きな目的であるからです。謡曲班女の恨みの舞台が当地にならなかったことと、先達の神職や住職が姫命の神格伝承に努めたことは、まんざら無関係ではないようにも思えて参ります。
 怨みと言えば、「葵上」や「道成寺」(※観世小次郎信光作といわれる能で、後の歌舞伎や浄瑠璃や現代演劇の元となる。) の悲哀は、最上級と言えるでしょう。生き霊となって光源氏の正妻・葵の上を夜毎苦しめる六条御息所も切ないですが、心変わりした安珍を白蛇になって追いかけ、ついには恋人を焼き殺してしまう清姫に至っては、哀れを通り越しています。迷える六条の君も白拍子の姿を借りた清姫も老女ではありませんが、華やぐ女性としては登場しません。対して、遊女花子が初々しい面差しを湛えているのは、薄幸な姿に情けを寄せる観客の心理を反映しているからなのでしょうか。世阿弥が人の世の理を描き続けた能舞台と云う縮図は、いつも祈りの所作と神仏の眼差しを伴って、今日に至ります。完。
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今月の予定
4月16日(木)13時半~15時半 未来学(シャピロ先生)
       16時~18時 環太平洋地域(シャピロ先生)
4月17日(金)16時~18時 中山間生存経営論(古畑先生)
4月18日(土)14時 伝統産業学(岩田先生)
4月21日(火)17時半~19時 京都まちづくり学(山田先生)
4月22日(水)13時半~15時半 観光立国&地方創生論入門(近藤先生)
       16時~18時 文化経済学(中谷先生)
4月23日(木)16時~18時 市民と経済学(阿部先生)
4月24日(金)16時~18時 国家論(阿部先生)
4月28日(火)16時~18時 地域観光の経済・経営手法学(金井先生)
4月30日(木)13時半~15時半 未来学(シャピロ先生)
       16時~18時 環太平洋地域(シャピロ先生)
今期から通信制もございます。ご関心のある方は事務局までお問い合わせください。
info@bunkaseisaku.jp


智恵のクロスロード第35回「明治時代の外交官の道筋:新橋停車場=桜田通り=桜田門=皇居」近藤太一

2015-04-08 13:26:25 | 市民大学院全般
 明治維新後の日本の不平等条約改正外交は、駐日大使の天皇陛下への面会の機会を高めていった。駐日大・公使のルートは、横浜から蒸気機関車の鉄道に乗り新橋停車場で下車、馬車に乗り、桜田通りを通って、桜田門から皇居に入った。桜田通りは、日清戦争の勝利をした後1896年(明治29年)ネオバロック様式の3階建ての赤煉瓦棟が完成した。桜田門から近いところに司法省・その隣には大審院(最高裁判所)、次いで海軍省の3棟である。日比谷が原から望む様は美麗荘厳、威風堂々たる景観を備えた欧州を彷彿するものがあったという。新政府がなけなしの資金をつぎ込んで、司法省と大審院を建てたのは、我が国の司法権が如何に尊重されているかを外国の大公使の眼に焼き付かせようとしたからに他ならない。
 明治19年以降、外務大臣井上(いのうえ)馨(かおる)は、治外法権の条約改正の進展をもくろみ、鹿鳴館外交と呼ばれる新政府にふさわしい壮大な首都官庁集中計画を構想し、ドイツ宰相ビスマルクの提言を入れ、ドイツ建築家を招聘した。ベックマン、ヘルマン・エンデである。日本側も錚々たる若手外国留学経験を持つ帝国ホテル建設にたすざわった渡辺(わたなべ)譲(ゆずる)、横浜正金銀行本店(神奈川県立博物館)の施設計建築を担当した妻木頼(つまきより)黄(なか)、河合(かわい)浩蔵(こうぞう)らが対応した。これらの新進気鋭の建築家は、工部大学校の教授をしていたイギリス人お雇い外国人ジョウサイア・コンドルの教え子達である。首都官庁集中計画の建築施工時に大きく貢献した。これらの司法省・大審院・海軍省も時代の経過で、残っているのは、司法省本館だけである。もう一つ文部省の本館も残っている。この道を歩き体験するのも、大いに興味をそそる。文部省旧本館は、広報センターとして見学者に見応えある情報館として見せてくれる。周囲にレストランも充実している。司法省本館も資料展示室として、だれでも見学することができる。司法省の前には、警視庁本部も見学できる。この桜田通りは、昔のメーンロードで、徳川家康も明治天皇も籠や馬車に乗って通った。幕末、井伊直弼は、この桜田門桜田堀わきで暗殺されたのである。大審院は、場所を変え、近くの隼町(はやぶさちょう)に移転され、最高裁判所として茨城県笠間周辺で産出の御影石を使った建造物として桜田門から観る事もできる。この一日散歩は、首都圏都市集中計画の一端を提唱した日本人建築家を育てたコンドルである。日本の明治維新から今日までの歴史を凝縮している。この日の最後はこの日比谷公園の鑑賞でもあろう。   (ハルカス近鉄阿倍野百貨店文化サロン講師 近藤太一)