竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

今日は何の日3月2日 戦艦「武蔵」発見

2017年03月02日 | 日本の歴史
2015年(平成27年) 3月2日 マイクロソフト共同創業者であるポール・アレンが、戦艦「武蔵」をシブヤン海の水深1000mの海底で発見したと発表した。
武蔵の艦体は沈没から約70年にわたって確認されていなかったが、大和ミュージアム館長にして海軍史研究家でもある戸高一成によれば「ほぼ間違いなく武蔵」と指摘している。

武蔵」の艦首部分とされる画像


武蔵(むさし)は、第二次世界大戦中に建造された大日本帝国海軍の大和型戦艦の二番艦である。当時は武藏と表記された。この名を持つ大日本帝国海軍の艦船としては3隻目にあたる。また、武蔵は大日本帝国海軍が建造した最後の戦艦でもあった。


1942年6-7月、徳山-呉間で公試運転中の武蔵艦橋


アメリカ軍艦載機の攻撃後、沈みつつある武蔵。第一主砲塔前の甲板は波に洗われているが、煙突の排煙から機関は無事であることが判る。(駆逐艦磯風から撮影)


黒煙を上げている武蔵。左に旋回行動中の大和と、妙高型重巡洋艦、右側に高雄型重巡洋艦と金剛型戦艦が確認できる。


猛煙をあげる武蔵。魚雷による水柱が艦橋の高さを超えている。


被弾しながらも前進する武蔵。後方に陽炎型駆逐艦が見える。

武蔵の沈没の直接原因は、多数の魚雷命中による大浸水である。
特に1番主砲塔より前の非防御区画は、魚雷が4-5本命中したために全部浸水してしまった。
一方後部区画には魚雷の命中は右舷後部に5本のみと比較的少なく、浸水は殆どなかったようである。またバイタルパート内部においては、左舷外側主機室や第12缶室への浸水・水没が確認されている。
外側右舷外側缶室の1室は魚雷攻撃により隔壁からの漏水が発生し、防水処置をしたものの、その後の魚雷命中の衝撃で、打ち込んだ楔などが全て吹き飛ぶなどしたために、最終的に乗員は腰まで海水に漬かった。
もう1室についても緩徐な浸水に見舞われたが、隣室への防水扉を駆動する電気回路が故障したため、彼らは脱出不能となった。天井に穴をあける作業が行われたが、非常に厚い装甲板(200ミリ)だったため全員溺死した。内側の6室の缶室(1、2、5、6、9)には浸水はなかった。
右側外側の缶室は別記したように戦闘終了後に傾斜復旧のため、注水命令が下令されている。
4室ある機械室(タービン室)も最終的に3室まで浸水が確認されている。甲板二層にわたる巨大な空間が満水になることで、艦の浮力とバランスが失われた。
4列ある機関区の外側の区画も、度重なる同一部位への魚雷命中により、バルジや水面下装甲板を破壊され大浸水をきたした。隔壁の破壊を逃れた区画も、船体の沈下に伴い通気孔などからの緩徐な浸水に見舞われた。
アメリカ軍は、主要防御区画を守る20度傾斜410ミリVH甲鈑と下端のNVNC甲鈑との接合部分に構造的問題があり、主要防御区画への浸水遮蔽が不十分だったと指摘している。
一方で魚雷1本の被雷で深刻なダメージを受けた巡洋艦に比べ、戦艦が極めてタフであり、容易に撃破できぬ艦種であることも明らかにした。
「戦艦武蔵建造記録」では「よくぞここまで耐えた」と記している。

1943年5月武蔵と大和
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