どうぶつのこころ

動物の心について。サルとか類人猿とかにかたよる。個人的にフサオマキザルびいき。

ナキガオオマキザル

2009-05-03 23:23:54 | 霊長類
前回の記事ではシロガオオマキザルでしたが、今回はナキガオオマキザルです。

中日新聞の記事「珍種『ナキガオオマキザル』仲間入り 大内山動物園」を見て、大内山動物園に行ってきました。


ナキガオオマキザル(Cebus olivaceus)のコボちゃんです。性別は訊ねるのを忘れていました。4ヶ月齢。この個体は、鼻筋に黒い線が下りているのが非常に特徴的でした。上の中日新聞の記事によると。森のウォーキングサファリのナキガオオマキザルの写真は、こちらのブログで見られます。


毛の色。シロガオオマキザルよりも暗く、ところどころ赤めの色が混じっています。毛並みの感じもシロガオオマキザルとはちがいます。



動画です。かわいいですね。でも私は断然フサオマキザル派です。

房毛なしオマキザル

2009-05-02 04:10:51 | 霊長類
こちらのブログで房毛なしオマキザルについて話題にあがっていることを知人に教えていただいたので、とりあえず2009年4月25日に日本モンキーセンターに行ってきました。

房毛なしオマキザルの前に房毛ありオマキザル(フサオマキザル)の写真を。

相変わらずフサオマキザルはかわいいとしかいいようがない。毛がちょっと変なのは雨天のせいです。


房毛なしオマキザルのシロガオオマキザル(white-fronted capuchin, Cebus albifrons)。この写真のように何度か怒られたのですが、どうやらすべて同じ個体だったようです。


このように黒い帽子の先が伸びている個体もいました。全体的な体色は、白と赤みのかかった褐色です。


排水管に頭を突っこんでいる子。もっと頭をズボッと差しこんでもいました。何がしたいのか。



シロガオオマキザルのケージのなかにいたのですが、顔が白くありません。ナキガオオマキザル(wedge-capped capuchin, Cebus olivaceus)のようにも見えました。飼育の方に訊ねたら、以前にはナキガオオマキザルとされていて、途中からシロガオオマキザルに直されたとのこと。シロガオオマキザルとの雑種である可能性はどうなのだろうか。この個体は、PINのナキガオオマキザルの写真に似ています。この毛のバッサバッサした感じもナキガオオマキザルの特徴です。種小名olivaceusはオリーヴ色という意味で、全体的な体色はほかの房毛なしオマキザルと比べても暗い褐色です。


翌26日も立ち寄ったのですが、クルミ(カリフォルニア産)をもらっていました。写真は、いっしょうけんめい割っているところ。その上の写真の私がナキガオオマキザルかもしれないと思ったのと同じ個体です。なお、クモザルも隣のケージにいたのですが、クルミをもらえませんでした。ちょっと悲しい。クモザルの手は、親指が退化して指が4本しかないという特徴があります。

最初にあげたブログや中日新聞の記事「珍種『ナキガオオマキザル』仲間入り 大内山動物園」(この記事も同じ知人に教えていただいたものです)にあるナキガオオマキザルをみると、上であげたナキガオオマキザルの写真とちがっているように見えますが、形態的にも種内変異が大きい種であるようです。現在は別種であるカアポルオマキザル(Ka'apor capuchin, Cebus kaapori)も、以前はナキガオオマキザルの亜種とされた種です。


2009-05-03追記
次回の記事ではナキガオオマキザルを見にいきました。

中村美知夫『チンパンジー』

2009-05-02 02:12:44 | 書籍
中村美知夫 (2009). チンパンジー: ことばのない彼らが語ること. 中公新書, 1997. 東京: 中央公論新社.
ISBN4121019970

著者は京都大学野生動物研究センターの中村美知夫。野生チンパンジーの社会交渉に関する行動学的野外研究。ざっと読んだので感想です。

京都大学のチンパンジー研究は有名で、新書の体裁だけでも4冊出されている。野生チンパンジーの野外研究については、杉山幸丸『野生チンパンジーの社会:人類進化への道すじ』(講談社現代新書)と西田利貞『野生チンパンジー観察記』(中公新書)がある。野生チンパンジーの野外研究と飼育チンパンジーの行動的研究については、松沢哲郎『チンパンジーはちんぱんじん:アイとアフリカのなかまたち』(岩波ジュニア新書)、『進化の隣人:ヒトとチンパンジー』(岩波新書)がある。すべて絶版となっているので(悲しすぎる)、チンパンジーの野外研究のみについて書かれた新書は、久しぶりのものとなる。

まず、調査地(タンザニアのマハレ山塊国立公園)と研究方法、チンパンジーの生態学(一生の流れや食物など)について要約して紹介している(第2章)。ただの研究方法の紹介ではなく、実際に野生チンパンジーをどう見ているのか、リアルな筆致で書かれている。この箇所だけでなく、全体としてまるでその研究拠点にいるかのような気分を味わわせてもらえる。

次に、音声や対角毛づくろいなどの行動を、相互行為という観点から記述している(第3章)。相互行為とは、個体に帰せられる行動のことではなく、間個体的なやりとりのことを指している。これほど多様な相互行為があることは、チンパンジーを知らない人にとっては驚くべきことかもしれない。が、とくにおもしろいのは、最後のエピソードである。ギニアのボッソウという調査地にいる個体が、自分の左足をまるで他個体のようにして遊んでいたというのである。そのとき笑い顔と笑い声が観察された。笑い声は、他個体と相当楽しく活発に遊んでいるときに出るものである。チンパンジーが何かを別のものに見たてることができるのは以前から知られているが、このエピソードがとくにおもしろいのは、相互行為にかかわる2者の役割をともに同一の個体が演じている点である。これらの相互行為に関する知見から、チンパンジーの社会については(そしてヒトの社会についても)、個体がまずあって個体どうしがやりとりしていると考えるよりは、もっと個体間が分離していない状況を想定すべきではないかと示唆される。間個体的な相互行為を念頭に置こうとしていることは、この章のエピグラフがメルロ=ポンティであることからも推しはかられる。

今西錦司が生物社会学を提案した動機を簡単に述べてから、チンパンジーの社会について記述している(第4章)。前章では行動にフォーカスを当てていたが、この章では社会のほうに重点が置かれている。決して単純でない順位の仕組みやメスの移籍など、チンパンジーの本であればかならず書かれている事柄であり、ともすれば平凡な章になってしまいそうなのだが、いや非常におもしろいのである。それは、この章においては、一貫してチンパンジーの「社会」がどのような意味で社会であるのかを突きつめようとしていて、話に芯が通っているからだろうと思う。

文化について(第5章)。チンパンジーの文化といえば、アンドリュー・ホワイトゥンらの概説(この本でも引かれている)にあるように、道具使用などの技術的な文化がとりあげられることが多かった。一方この本では、ソーシャル・スクラッチや対角毛づくろいなど、相互行為がとりあげられている。次に、子殺しや「戦争」といったチンパンジーの「闇」というべき側面をとりあげる(第6章)。そこからマキャヴェッリ的知性への議論に接続している。最後の「事実と価値」の節は、読者のなかには気になる人もいるかもしれないので、こうやってフォローされていてよい。ただ、「そもそも絶対的な『悪』など存在しない」の段落と次の段落は不要だろうと思う。せっかく全体的に極論に走らない調子で書かれているのに、ここだけ妙にズバッと断じている。この2段落がなくてもじゅうぶん前後はつながっている。

以下、雑感。

霊長類学者のなかでトップを占めているような人たちは、割りと好き勝手述べていることが多いようだが、この本はそれぞれに配慮した形で、ちょうどよいあたりに落としこんでいる。こういうアクのない書き方は個人的に好きである。

写真について。チンパンジーは黒いので、2個体以上が重なっているとよくわからないことがある。とくに図3-6、図3-9など、チンパンジーがどう動くのかあまり知らない人が見たら、誰が何をしているのかよくわからないのではないだろうか。

心理学に興味のある自分にとっては、マイケル・トマセロの文化に関する説明がとりあげられているところがおもしろかった。模倣や教示のような心理学者の好みそうな観点について、わずかではあるが野生の例を引いたりもしている。なお、著者の書き方だと、まるでトマセロがチンパンジーに文化を認めていないようにも読めてしまうが、もしそう読んでしまうなら誤解である。トマセロは、チンパンジーもヒトと同じく文化伝統をもつが、それにかかわる社会的認知や学習過程が異なるといっている。トマセロによれば、チンパンジーの文化と異なり、ヒトの文化には、積極的教示の結果として、ラチェット効果ないし累進的な文化進化という特徴がある。要するに「歴史」があるということである。著者は、文化の継承性に触れているが、明示的にチンパンジーにおけるラチェット効果の有無について触れてはいない(はず。見落としていたらごめんなさい)。

最初のほうにも述べたが、研究者がどのようにチンパンジーを見ているのかが、ありありと伝わってくる。このような参与的ともいうべき観察アプローチがあってこそ、日本の霊長類学者が霊長類学に寄与できたのだと、読者は感じるかもしれない。論文では、ちゃんと客観的な方法があって、ちゃんとデータをとり統計的検定にかけられているわけだが、観察の現場では、もっとチンパンジーとの関係に引きこまれているのだとわかる。「自然科学では、観察という営為が客観的であることが第一に求められる。しかし、相手が他者である限りにおいては、観察は客観的にはいかない。私の観察はつねに対象である他者の行為によってぶれ、その都度修正を余儀なくされるからだ」(203-204ページ)と著者は述懐している。チンパンジーの社会は、個体がまずあって単独の個体どうしが作用しあっているという観点で捉えるべきではなく、著者は、まず間個体的な相互行為があってそのなかに個体が位置づけられるという逆転した観点を呈示している。これは、チンパンジーどうしだけでなく、チンパンジーと研究者のあいだもそうであって、読者はこの本でそれを追体験することができる。著者はチンパンジーをどう見たらよいか、ひとつの現象学的な視点を呈示している。

これと併せて参考にしたい対照的な立場は、新宮一成の述べていることである。新宮は、『ラカンの精神分析』(講談社現代新書)のなかでチンパンジーのテレビ番組について触れている。石器使用をおこなっている群れのなかで、ある母親のチンパンジーが亡くなった我が子をミイラになっても抱きつづけていた。新宮はどの番組か明示していないが、石器使用をおこなう群れということで割と研究拠点を限定でき、1992年1-2月のギニアのボッソウでの出来事のようである。母親の名前はジレ(Jire)、亡くなった娘の名前はジョクロ(Jokro)という。このエピソードに関しては、京都大学のウェブサイトで克明に撮影した映像をみることができる([link])。また松沢哲郎がリーフレットを作成しており、詳細を知ることができる([link])。

新宮は、そこで自然の欲望というものを想定している。自然の欲望とは、自然がどのように人間を欲望するのか、自然にとって人間とはどういうものであるのか、人間が自然のどのような一部であるのかということである。最終的に自然を言語としての他者と同一視している。新宮は、ここでは、研究者やテレビ番組制作者が自然の欲望を知るために(道具使用だけで十分のはずなのに、わざわざそれに加えて)このエピソードを記録したのだと、その動機づけを解釈している。つまり、自然という大きな他者が自分をどう見ているのか知るために、自分が一歩引いたところに移動するのだが、自分が元いたところにジョクロが滑りこんでいるということだろう。中村は、「『他者』としてチンパンジーを見ることとは、自分が望むような人格をチンパンジーに投影することではない」(204ページ)と述べているが、これに倣っていえば、「自分と身体的にその場を共有する『他者』としてチンパンジーを見ることとは、自然という見えない大きな他者が自分に望むような人格をチンパンジーに投影することである」ということになるだろうか。新宮は、道具使用で終わらずそれに追加したものがどうしてほかならぬ死にゆくチンパンジーであるのかに興味をもっており、人間が自然のどのような一部であるのかという疑問に対して、「人間は、自然の死にゆく病としてしか、自然の一部になることはできない」(140ページ)という回答を出している。この場面では、チンパンジーは精神分析家なのである。(偉そうに書きましたが、私はあまりラカン派の精神分析を理解できていないので、適当な本を参考にしてください。そういえば、新宮は山極寿一と『大航海』で対談していました。山極寿一, & 新宮一成 (2004). 人類の起源と幼児期. 大航海, 52, 28-51.)

中村は、「『他者』としてチンパンジーを見ることとは、自分が望むような人格をチンパンジーに投影することではない」(204ページ)と述べながら、「自然界から何を読み取るか、動物の行動に何を見るか。そこにはつねに自分自身の価値観が反映されているということを忘れてはならないだろう」(198ページ)と書いている。動物を観察するときにもちこんでしまう価値観に自己批判を加えることは重要であり、一方で新宮のようにそこに潜む動機づけを解釈することもおもしろいと思う。

……と、いろいろ書きましたが、とにかくお勧めです。ヒトであれ動物であれ、社会というものに興味がある人にはとくに。

杉山幸丸 (1981). 野生チンパンジーの社会: 人類進化への道すじ. 講談社現代新書, 602. 東京: 講談社.
ASINB000J81EPS
西田利貞 (1981). 野生チンパンジー観察記. 中公新書, 618. 東京: 中央公論社.
ISBN4121006186
松沢哲郎 (1995). チンパンジーはちんぱんじん: アイとアフリカのなかまたち. 岩波ジュニア新書, 258. 東京: 岩波書店.
ISBN4005002587
松沢哲郎 (2002). 進化の隣人: ヒトとチンパンジー. 岩波新書, 新赤版, 819. 東京: 岩波書店.
ISBN4004308194
Tomasello, M. (1999). The cultural origins of human cognition. Cambridge, MA: Harvard Univerisity Press.
ISBN0674005821[paperback][hardcover]
トマセロ, M. (2006). 心ところばの起源を探る: 文化と認知 (大堀壽夫, 中澤恒子, 西村義樹, & 本田啓, 訳). 東京: 勁草書房.
ISBN4326199407
新宮一成 (1995). ラカンの精神分析. 講談社現代新書, 1278. 東京: 講談社.
ISBN4061492780