前の記事で述べたように『大型類人猿の権利宣言』を読んでみる。
大型類人猿をテーマにした動物の権利(アニマル・ライツ、animal rights)についての書籍であり、パオラ・カヴァリエリ(Paola Cavalieri)とピーター・アルバート・デイヴィド・シンガー(Peter Albert David Singer)との共編纂である以下の本の内容をまとめてみる。シンガーは、リチャード・マーヴィン・ヘア(Richard Mervyn Hare)の弟子で、大型類人猿プロジェクト(Great Ape Project、GAP)の発起人のひとり。思想的な背景を著したものとしては『動物の解放』が有名だが、霊長類の研究をしている人にとっては、この本のほうが馴染み深い。
また、『ル・デバ』(Le Débat)108、109号(2000年)がこれの特集を組んでいるとのこと。
上の本の邦題にもなっている「大型類人猿の権利宣言」(Declaration on great apes)は、道徳共同体である平等なものの共同体(community of equals)を、法的に大型類人猿(great apes)全体(ヒト、チンパンジー、ボノボ、ゴリラ、オランウータン)に拡張することを目的とし、種差別(speciesism)を批判するものである。
ただ、シンガーの立場が功利主義(utilitarianism。利己主義egoismではない)ということもあって、その「平等なものの」の意味は一般とはちょっとずれていそうである。平等とは、ヒトがもっている権利のすべてを大型類人猿に与えるということではなく、それぞれの種の利益(関心)に見あう権利を与えるということを指している。たとえば、宣言では、ヒトと同じ政治体制に利益をもたない非ヒト大型類人猿に参政権を認めよとは主張していない。主張しているのは、
の3つである。
邦訳しか読んでいないが、生物研究からのアプローチと、倫理研究、法研究からのアプローチとに大きく分けられるようである。
(1) 生物研究からのアプローチ。
デイム・ヴァレリー・ジェイン・グドール(Dame Valerie Jane Goodall、霊長類学);ダグラス・ノエル・アダムズ(Douglas Noël Adams、作家)、マーク・カワーディン(Mark Carwardine、動物学);西田利貞(霊長類学);ロジャー・S・ファウツ(Roger S. Fouts、心理学)、デボラ・H・ファウツ(Deborah H. Fouts、心理学);H・リン・ホワイト・マイルズ(H Lyn White Miles、霊長類学);フランシーヌ・パターソン(Francine Patterson、心理学)、ウェンディ・ゴードン(Wendy Gordon);加納隆至(霊長類学)、リンゴモ・ボンゴリ(Lingomo Bongoli)、伊谷原一(霊長類学)、橋本千絵(霊長類学)のような野外研究や実験的研究に携わっている人たちは、ヒトと非ヒト大型類人猿との行動的な類似性を強調している。非ヒト大型類人猿を(とくに動いているところを)あまり見たことがない人にとっては、非ヒト大型類人猿が活動しているところを見るだけで衝撃的であるのは確かだろう。そのなかで、マイルズは、オランウータンに人工言語を教えた、つまりオランウータンを「文化化」(enculturate)した経験から、ヒト幼児と非ヒト大型類人猿との類似性を強調する。どちらもヒトとしての十分な能力を潜在的にもっているため、そう強調している。なお、本書で述べられているものではないが、「霊長類学者や飼育員のような日々類人猿に携わる仕事をしている人々は、かならず類人猿の知性および能力を高く評価する意見をもっている。類人猿の言語能力や認知技能を軽視しようとするものは、かならずほとんどないしまったく類人猿とじかに触れあったことのない人々である」というのを、ドゥ・ヴァールの法則(de Waal's law)というらしい。このような諸議論が交わされるべきトピックでも、「百聞は一見にしかず」は通用しそうである。それ以前に、非ヒト大型類人猿をよく見たことがないのに非ヒト大型類人猿について(ましてその倫理的身分について)議論するのは、難しいことだと思うのだが。
一方、クリントン・リチャード・ドーキンス(Clinton Richard Dawkins、動物行動学、進化生物学);ジャレド・メイソン・ダイアモンド(Jared Mason Diamond、進化生物学)は分子生物学的な研究をとりあげ、ヒトと非ヒト大型類人猿との遺伝的な近縁性や連続性を強調している。ドーキンスは、非ヒト大型類人猿との中間種がいないことや、遠く離れた種に情動を発達させた種がいないことは、進化の歴史上、偶然でしかないと指摘し、ヒトと非ヒト動物との断絶を主張することを批判する。そのような断絶の伝統のなかで「大型類人猿の権利宣言」が実現されたとしても、断絶をずらしたにすぎず、根本的な解決ではないと考えている。一方、ダイアモンドは、そのような断絶はヒトの利己心にもとづいており、それ以上の根拠はないとしている。ヒトの近縁種である非ヒト大型類人猿にヒトに次ぐ権利を与えることすら、そのような利己心の顕われである可能性に触れつつ、知能などの客観的な基準にもとづいて非ヒト大型類人猿がバクテリアなどよりよい倫理的待遇を受けるべきだと主張できると考えている。
ファウツ夫妻が動物性について述べているので、その点をメモ。ルネ・デカルト(René Descartes)に典型的な動物機械論を傲慢と断罪する。そこで、動物性の概念が、非ヒト動物ではなく、ヒトに由来すると指摘している。たとえば、ヒトは思考するものであるのにたいし、非ヒト動物は思考しないものであるというように、ヒトは非ヒト動物を、ヒトではないものとして定義したがるということである。学問が積極的に非ヒト動物(ファウツ夫妻の章ではチンパンジー)がどのような性質をもっているのかを問うようになって、ヒトの否定としての動物という考え方は揺らいできており、ヒトがヒトという存在であるのと同様にチンパンジーがチンパンジーという存在であることが重要になってきていると述べている。「ヒトの」(human)というのは、ヒトとそれ以外とを分割する特別な形容詞ではなく、たんにヒトの動物性を記述するものでしかないとしている。
次の記事に続く。
大型類人猿をテーマにした動物の権利(アニマル・ライツ、animal rights)についての書籍であり、パオラ・カヴァリエリ(Paola Cavalieri)とピーター・アルバート・デイヴィド・シンガー(Peter Albert David Singer)との共編纂である以下の本の内容をまとめてみる。シンガーは、リチャード・マーヴィン・ヘア(Richard Mervyn Hare)の弟子で、大型類人猿プロジェクト(Great Ape Project、GAP)の発起人のひとり。思想的な背景を著したものとしては『動物の解放』が有名だが、霊長類の研究をしている人にとっては、この本のほうが馴染み深い。
上の本の邦題にもなっている「大型類人猿の権利宣言」(Declaration on great apes)は、道徳共同体である平等なものの共同体(community of equals)を、法的に大型類人猿(great apes)全体(ヒト、チンパンジー、ボノボ、ゴリラ、オランウータン)に拡張することを目的とし、種差別(speciesism)を批判するものである。
ただ、シンガーの立場が功利主義(utilitarianism。利己主義egoismではない)ということもあって、その「平等なものの」の意味は一般とはちょっとずれていそうである。平等とは、ヒトがもっている権利のすべてを大型類人猿に与えるということではなく、それぞれの種の利益(関心)に見あう権利を与えるということを指している。たとえば、宣言では、ヒトと同じ政治体制に利益をもたない非ヒト大型類人猿に参政権を認めよとは主張していない。主張しているのは、
(1) 生存への権利(the right to life)
(2) 個体の自由の保護(the protection of individual liberty)
(3) 拷問の禁止(the prohibition of torture)
(2) 個体の自由の保護(the protection of individual liberty)
(3) 拷問の禁止(the prohibition of torture)
邦訳しか読んでいないが、生物研究からのアプローチと、倫理研究、法研究からのアプローチとに大きく分けられるようである。
(1) 生物研究からのアプローチ。
デイム・ヴァレリー・ジェイン・グドール(Dame Valerie Jane Goodall、霊長類学);ダグラス・ノエル・アダムズ(Douglas Noël Adams、作家)、マーク・カワーディン(Mark Carwardine、動物学);西田利貞(霊長類学);ロジャー・S・ファウツ(Roger S. Fouts、心理学)、デボラ・H・ファウツ(Deborah H. Fouts、心理学);H・リン・ホワイト・マイルズ(H Lyn White Miles、霊長類学);フランシーヌ・パターソン(Francine Patterson、心理学)、ウェンディ・ゴードン(Wendy Gordon);加納隆至(霊長類学)、リンゴモ・ボンゴリ(Lingomo Bongoli)、伊谷原一(霊長類学)、橋本千絵(霊長類学)のような野外研究や実験的研究に携わっている人たちは、ヒトと非ヒト大型類人猿との行動的な類似性を強調している。非ヒト大型類人猿を(とくに動いているところを)あまり見たことがない人にとっては、非ヒト大型類人猿が活動しているところを見るだけで衝撃的であるのは確かだろう。そのなかで、マイルズは、オランウータンに人工言語を教えた、つまりオランウータンを「文化化」(enculturate)した経験から、ヒト幼児と非ヒト大型類人猿との類似性を強調する。どちらもヒトとしての十分な能力を潜在的にもっているため、そう強調している。なお、本書で述べられているものではないが、「霊長類学者や飼育員のような日々類人猿に携わる仕事をしている人々は、かならず類人猿の知性および能力を高く評価する意見をもっている。類人猿の言語能力や認知技能を軽視しようとするものは、かならずほとんどないしまったく類人猿とじかに触れあったことのない人々である」というのを、ドゥ・ヴァールの法則(de Waal's law)というらしい。このような諸議論が交わされるべきトピックでも、「百聞は一見にしかず」は通用しそうである。それ以前に、非ヒト大型類人猿をよく見たことがないのに非ヒト大型類人猿について(ましてその倫理的身分について)議論するのは、難しいことだと思うのだが。
一方、クリントン・リチャード・ドーキンス(Clinton Richard Dawkins、動物行動学、進化生物学);ジャレド・メイソン・ダイアモンド(Jared Mason Diamond、進化生物学)は分子生物学的な研究をとりあげ、ヒトと非ヒト大型類人猿との遺伝的な近縁性や連続性を強調している。ドーキンスは、非ヒト大型類人猿との中間種がいないことや、遠く離れた種に情動を発達させた種がいないことは、進化の歴史上、偶然でしかないと指摘し、ヒトと非ヒト動物との断絶を主張することを批判する。そのような断絶の伝統のなかで「大型類人猿の権利宣言」が実現されたとしても、断絶をずらしたにすぎず、根本的な解決ではないと考えている。一方、ダイアモンドは、そのような断絶はヒトの利己心にもとづいており、それ以上の根拠はないとしている。ヒトの近縁種である非ヒト大型類人猿にヒトに次ぐ権利を与えることすら、そのような利己心の顕われである可能性に触れつつ、知能などの客観的な基準にもとづいて非ヒト大型類人猿がバクテリアなどよりよい倫理的待遇を受けるべきだと主張できると考えている。
ファウツ夫妻が動物性について述べているので、その点をメモ。ルネ・デカルト(René Descartes)に典型的な動物機械論を傲慢と断罪する。そこで、動物性の概念が、非ヒト動物ではなく、ヒトに由来すると指摘している。たとえば、ヒトは思考するものであるのにたいし、非ヒト動物は思考しないものであるというように、ヒトは非ヒト動物を、ヒトではないものとして定義したがるということである。学問が積極的に非ヒト動物(ファウツ夫妻の章ではチンパンジー)がどのような性質をもっているのかを問うようになって、ヒトの否定としての動物という考え方は揺らいできており、ヒトがヒトという存在であるのと同様にチンパンジーがチンパンジーという存在であることが重要になってきていると述べている。「ヒトの」(human)というのは、ヒトとそれ以外とを分割する特別な形容詞ではなく、たんにヒトの動物性を記述するものでしかないとしている。
次の記事に続く。