圧倒的な情報と軍事力を持つ陸軍が中国に勝利できなかった理由:日本陸軍と中国

2016-01-16 23:22:26 | 日記

日本陸軍と中国(戸部良一、1999年)

戦前の日本で中国に関する情報を最も広くかつ組織的に収集し、その情報の質と量の面で圧倒的優位を誇っていたのは陸軍だった。中国情報については外務省を圧倒しているという自信が陸軍を二重外交、外交介入に走らせた。

陸軍は中国情報を収集・分析する「支那通」軍人を養成した。だが、組織の中で「支那通」の地位は相対的にみて高くはなかった。軍人の本来的な職務は部隊の指揮・運用にあり、作戦畑が主流であるのに対して情報畑は傍流に過ぎなかった。中国の軍事能力に学ぶところはなく、陸大の成績優秀者は卒業すると独仏露などのヨーロッパ諸国に派遣された。情報収集の対象国としても、中国のプライオリティは低かった。陸軍の仮想敵国は一貫してロシア・ソ連であり、ソ連情報のほうが中国情報よりも重視された。このような状況の下、「支那通」となる道を選んだ軍人には中国の改革に対する思い入れの強い者が多かった。そして、中国の厳しい現実の中で改革が挫折すると、多くの者が思い入れの反作用として対中強硬政策に加担することになっていった。

陸軍軍人は中国の有力者や各地の軍閥に軍事顧問として迎えられていた。このため、日本陸軍は中国の政治・軍事情勢に強い影響力を持つこととなった。

日清戦争に敗れた後、清国政府はようやく近代化の必要に目覚め、日本をモデルとした改革を推進しようとした。清国の教育界全般にわたって日本から教官が招聘された。軍事教育の分野においても清国各地の軍学校にて多くの陸軍軍人が教官となった。有力政治家の軍事顧問となる軍人も現れた。李鴻章の死後に直隷総督兼北洋大臣となった袁世凱も日本陸軍の軍事顧問を招聘した。彼らは北洋陸軍の教育訓練にあたり、袁世凱の幕僚たちと親密な関係を持つこととなった。1911年に辛亥革命が起き、清朝が滅亡した後、中国国内は分裂し、各地に軍閥が割拠する状況となった。中国の政治は袁世凱を中心として動いたが、袁は日本陸軍からの軍事顧問であった坂西利八郎を信頼し重用した。坂西の住居は坂西公館と呼ばれ、公使館付武官室とは別の情報収集と政策運営のための陸軍の拠点となった。袁の死後も彼の幕僚だった者が北洋軍閥の実権を握ったことから、袁の下で軍事顧問を務めた軍人の影響力が衰えることはなかった。

日本は奉天省の実力者であった張作霖と関係を強化することによって満蒙の権益を維持拡大しようとしていたが、日本陸軍から派遣された軍事顧問もその中で大きな役割を果たした。

また、中国には日本陸軍の部隊が駐留し、有事に直接の実力行使が可能となっていた。軍事力を行使しない場合であっても現地に実力部隊を置いていること自体が日本陸軍に強い政治力を与えていた。

支那駐屯軍は、清国政府が北清事変最終議定書で日本を含む11カ国に対して北京の公使館区域および北京と海浜間の鉄道を保護するために12カ所に駐兵権を認めたことを根拠として、天津に軍司令部を置いていた。また、日露戦争によってロシアから譲渡された関東州租借地と南満州鉄道を守ることを目的として、関東軍が駐留していた。漢口、青島にも陸軍部隊を置いていた。

さらに、陸軍は合法・非合法の情報収集と謀略活動に従事する特務機関を中国に置いた。

陸軍にとって中国は多くのポストと権益に直結する地域となっていた。そこに国民革命軍の北伐が始まった。

孫文が1925年に死去した後、蒋介石は北方軍閥を打倒して中国全土を統一するために1926年7月に広東を出発した。国民党の国民革命軍は、9月に漢口を占領、1927年3月には南京・上海を占領したが、4月に党内の共産党員を粛清する上海クーデターが起きたため、北上はいったん停滞した。3月に南京で北伐軍による日本居留民暴行事件が発生したこともあって日本国内では中国に対する強硬論が強まり、4月に成立した田中義一内閣は居留民保護を名目として5月に青島に出兵を決定、6月に東方会議を開いて満州における権益維持を決定した。翌1928年に再開された北伐に対しては済南で日本陸軍と国民革命軍との衝突が起きたが、北伐軍は日本との本格的な軍事対決を避けつつ北上して6月には北京に入城した。

陸軍は国民党とその国民革命軍を蒋介石一派による権力私有の組織であり、軍閥の一種とみなしていた。中国人には近代国家建設の能力が欠けているという認識の下、中国民衆のために無能な軍閥を打倒するとともに、排日運動を抑えて日本の権益を維持するためには日本軍の積極的な介入が必要との考え方が支持された。そして、排日運動を抑えて日本の権益を守るために張作霖を排除すべきとの主張が強まった。1928年6月4日、関東軍参謀の河本大作は奉天近郊の南満州鉄道で張作霖を爆殺した。この事件は1931年9月の満州事変につながっていく。陸軍は満州国の成立後も、支那駐屯軍が梅津・何應欽協定で中央軍を河北省から撤退させ、関東軍も土肥原・秦徳純協定で国民党二十九軍を撤退に追い込んだ。

日本陸軍は過去の分断された中国と醜悪な軍閥抗争を知り過ぎていたが故に、中国政府の正統性を軽視し、中国軍の抗戦意志を軽侮する姿勢を取り取り続けた。1937年7月7日、盧溝橋で支那駐屯軍と紛争となり、日中全面戦争の契機となったのは、国民党二十九軍だった。陸軍は「対支一撃論」の下、北支、そして中支に戦線を拡大し、1938年には第一次近衛内閣が「爾後国民政府を対手とせず」との声明を発表したが、中国での戦争を解決することはできなかった。蒋介石はもともと日本軍との戦闘よりも共産軍の壊滅を優先しようとしていた。冷静な利益衡量、合理性の観点から言えば、国民政府は徹底抗戦するメリットはなかったのだ。だが、日本陸軍から極端な軽侮と強要を受け続け、蒋介石は中国民衆の支持を取り付ける観点からも戦争を続けざるを得なかった。中国に対する感情的な軽侮は相手政府と民衆の反発を招き、日本陸軍は交渉を行うことができなくなり、国民政府は首都を重慶に移転して抗戦を続けることとなった。

利益衡量と打算によって命を懸けることはできない。
軽侮に対する強い反発が中国政府と中国軍の強い抗戦意志となり、日本に跳ね返ってきたのだ。

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