キメラ・満洲国の肖像

2016-01-24 21:05:37 | 日記

キメラ・満洲国の肖像(山室信一、1993年)

満洲国建国直後の1932年3月12日、日本政府は「満蒙問題処理方針要綱」を閣議決定し、満洲国経営を実施していくにあたっては「九ヵ国条約などの関係上できうる限り新国家側の自主的発意に基くが如き形式に依る」こととし、国家としての実質を備えるように「誘導」していくために日本人を「指導的根幹たらしむ」こととした。

満洲国では、日満定位、日満比率、総務庁中心主義、内面指導の四つの概念によって、中国人の自主的発意に基いて政治的決定がなされているかのような形式を採りながら、関東軍の統制の下で日本人が実権を掌握していた。

日満定位とは、満洲国の中央、地方の双方について機関官庁の科長以上の各職位に関する日系と満系のポスト配分の規律であり、関東軍の専管決定事項となっていた。満系定位は国務総理大臣、各部総長(大臣)や民政部、軍政部、財政部の次長など、日系定位には総務長官、総務庁次長、満系定位以外の各部次長などと定められていた。日満比率は、日系官吏と満系官吏の定員数の比率であり、これも関東軍の専管決定事項だった。日本語の使用と日本型の行政処理の下では、日系が実権を握り、満系が飾り物になっていくことは避けられなかった。また、満洲国建国後、関東軍も日系比率の上昇を押しとどめることはできなかった。

国務院の総務庁は、官制上からいえば国務総理大臣の下で部内の機密、人事、主計及び需要に関する事項を処理するために設けられた補佐機関に過ぎなかったが、実際には総務長官が国政上の機密や人事、財政を掌握し、総務庁を中心として各処に配置された日系官吏が重要事項を決定し遂行していた。総務庁は日満定位、日満比率という二つの人事規律の例外として扱われていた。総務長官以下、次長、処長、科長などはすべて日系定位で、日満比率も日七対満三が一応の基準とされていたものの、常に日系が八割以上の占有率をもって推移していた。特に主計処、人事処、企画処などの枢要業務においては日系だけで独占するのが常態となっていた。総務長官主宰の下で総務庁次長、日系の各部総務司長ないし次長、処長などが参加して開かれる正式名称のない週次の定例事務連絡会議において国務院会議に上程する議案の審議と決定が行われていた。「この日系官吏で固めた総務庁を活用するならば、関東軍が直接満洲国に干渉し、圧迫することなしにその反日政策ないし行動を防ぐことができる。なぜならば、満洲国の重要政策、法案は総て国務院会議の審議決定により、更に参議府の審議・意見答申を経て、執政の裁可により決定されるのであり、総務庁は国法上、国策決定に何等の権限を持たないが事前チェックできるからである。」

関東軍の内面指導権は本庄関東軍司令官と溥儀による協定を根拠とするもので、関東軍は関東軍司令官の日本人官吏に対する任免権をもって在職時の業務遂行についても指導権が付随すると解釈していた。政治、行政上の重要事項に関しては総務庁が関東軍参謀部第三課(のち第四課)に連絡し、その審査を経て関東軍参謀長名で総務長官あてに「何々の件、承認ありたるに付、命により通知す」という承諾状または内諾を得なければならないこととなっていた。第三課は関東憲兵司令部、軍政部顧問部はじめ在満の日本人軍人の人事権も握り、治安工作や軍事政策に関する指導も行っており、満洲国経営全般の司令塔的存在となっていた。

満州国に対する日本の国策の遂行については「専ら関東軍をしてこれに任せしめ、その実行は新国家が独立国たるの体面保持上努めて満洲国の名を以てし、日系官吏特に総務長官を通じてこれが実現を期す」ことを目指していた。

日本人の思考が変わっていない以上、満洲国の経営と今日の日本企業の海外拠点の運営方針が似通っているのは当然のことかもしれない。

本来、謀略で満洲事変を引き起こした本庄関東軍司令官以下、関東軍参謀たちは陸軍刑法に則り軍法会議にかけられるべであった。だが、本庄は大将に進級しただけでなく男爵を授けられたうえに侍従武官長の重職につき、石原莞爾らの関東軍参謀は進級叙勲の論功行賞に与ることとなった。この結果、規律や命令系統を無視しても結果さえ良ければ恩賞を受けられるという風潮が軍部幕僚の間に蔓延していくこととなった。そして、出先軍人たちの功名心は内蒙工作や華北への政治的・軍事的進出を引き起こし、遂には1937年7月7日に盧溝橋事件を発生させた。石原は不拡大方針を採ったが、武藤章や田中新一らの拡大派を制御することができず、日本は中国との全面戦争にのめりこんでいった。

満洲国は決して日本の傀儡国家ではなく日満関係を西洋の政治学の概念を用いて説明することはできないという考え方は満洲国建国直後から表明されていた。
「元来、日満両国の関係は欧米には類のない関係である。満洲国の王道政治が欧米の政治学で説明できないものである通りに、皇道国と王道国との提携は欧米の国際法で律することもできなければ、その必要もない。我々は欧米の政治学では分らぬ王道政治を行う国を扶助するのである。その関係も王道的であって、必ずしも法律的ではない。欧米の国際法では律しうべき関係ではない。」

確かに、欧米の論理であらゆる社会のあらゆる事象を説明できるわけではないが、満洲国が新たな理念の下に独自の政治体制を生み出したのであれば、その新しい概念を日本人以外の人々にも納得させるためのロジックと説明が必要となる。

満洲国は軍閥と匪賊が跋扈していた土地の治安を安定させ、経済発展を生み出した。
その成果にもかかわらず、残念ながら、日本人にしか理解できない論理で組み立てられた満州国は、その国民から支持を受けることができなかった。
「満洲国の現状は一つとして非ならざるはない。たとえば、本庄将軍当時、中央政府の管理は満洲人六に対し日本人四であった。しかるに現在は日本人九、満洲人一の割合である(注:実際は日本人七割二分、満洲人二割八分)。その満洲人官吏もへつらい者、学力無き者を採用し、これを無能呼ばわりしている。公文書その他役所の仕事は皆日本流である。まるで彼らは満洲国政府を乗っ取る腹でいるとしか考えられない。俸給にしても一般の満洲人官吏は百七十円以上取れず、しかもこれだけ取る者は数える程しかない。日本人はそれに加俸が八割も付く。一体この国の主人が誰なのかわからない。」「国幣統一のみがたった一つ日本の行った改善ともいえようが、その他は何事も張学良時代よりも悪くなった。こんな状態でもし日露戦争でも勃発すれば、全満洲人は日本に反抗して起つであろう。」

日本に必要なのは、戦前も現在も、世界から共感と支持を受けることができる論理構成である。だが、世界に通用するロジックを構築すると日本人の特権的地位は失われてしまう。
日本の組織が日本人の特権的地位の維持を選択する限り、今後とも真の国際化、すなわち自分たちの発展のために世界各国の人々の活力を結集し活用することは難しいだろう。
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