外務省革新派(戸部良一、2010年)
1938年7月、「皇道外交」を主張し、ソ連との戦争、中国の蒋介石政権打倒、独伊との防共枢軸強化、中国からのアングロサクソン勢力の排除、外務省の人事刷新を唱えて大磯の宇垣外相に乗り込んだ入省わずか数年の8名の外務官僚、東光武三、三原英次郎、牛場信彦、青木盛夫、中川融、甲斐文比古、高瀬侍郎、高木廣一。本来、彼らは敗戦後に外務省という組織の中で戦前戦中の行動を非難されたり、戦後の日米基軸外交の中で非主流派として扱われても不思議ではなかった。だが、現実は異なった。彼らは、若くして亡くなった二人を除き、全員が大使にまで昇進した。牛場は次官、アメリカ大使を務めた。戦後の外務省で栄達を極めたのだ。
少壮外交官たちが「上総が生める快男児、姓は白鳥、名は敏夫」と歌った白鳥敏夫はその高い英語力で語学力を重視する幣原喜重郎から高い評価を得ており、もともとは「幣原外交の寵児」ともいわれていた。だが、満州事変に際し外務省情報局長として陸軍と多く接触しなければならない立場にいたことが、彼を対米英協調路線を基軸とする幣原外交から大きく引き離すこととなった。「彼の本質は歴史の表面に現れたような『ファシスト』ではなかった。彼の本質は霞ヶ関の伝統に育まれた明治的な自由主義者であったのである。よく宴会などでみられた様な豪快な面は付焼刃で、実に小心な人間であった。軍が独裁化へと歩武したとき、彼はたまたま軍とより多く接触しなければならぬ立場にいたことが、彼の不幸を招いたのである。臆病なる彼は自由主義的な思想を持っていたが故に、そのために殊更に観念的な右翼的な扮装をしなければならなかったのである。しかるにその扮装は彼の立身を約束した。人間的に弱い彼は、そのことに引かれて扮装から次第にそれが彼の本質のような錯覚に陥り、ついに『ファシスト』になってしまったのであった。わたしのこの観察は誤っているであろうか。戦争中神がかり的になっていた観念右翼の連中の敗戦後における末路を凝視するとき、わたしの白鳥に対する観察の正しきことを読者は肯定せざるを得ないと思う。」
満州事変当時、白鳥は「アジアに帰れ」と述べていた。「外務省の白鳥情報部長の外国語は板についたものだが、この頃は横文字の本は見向きもせず、四書五経あるいは法華経など古いものばかりに眼をさらしている、『宗旨替えだね』というと白鳥君『今の日の日本のスローガンは、アジアにかえれ、ということでなければならん、それにはまず東洋の経典を読破して東洋哲学をしっかりと腹にいれて』とお腹をポンポンたたいてみせた。」
白鳥を含む革新派は、日ソ戦が不可避であり、しかも切迫していると考えていた。彼らは、陸軍が対ソ戦を不可避と見ていることを大前提として、それを「翼賛」あるいは善導する外交を進めようとした。陸軍の関心がドイツとの関係強化に移ると、日本とドイツの同盟を強力に主張した。「今日の世界は最早旧来の自由主義や民主主義では間に合わなくなったのである。今や世界は二つに一つを選ばねばならぬ。共産主義かファシズム的全体主義か、あるいは少なくともその何れかとの妥協を必然的に求められている。」1939年の防共協定強化問題の際にイタリア大使として赴任していた白鳥はドイツ大使となっていた大島とともに日本からの訓令を無視し、日本政府の方針から離れて日独伊同盟締結を進展させようとした。
独ソ不可侵条約の締結によりいったん日独伊同盟問題が頓挫すると、白鳥は独ソ提携を承認し、日ソ提携さえ主張するようになった。「現在のソ連はボルシェビキから脱却して独伊に近い政治形態になっているので、独ソ不可侵条約の如きも、ヨーロッパにおいては『ソ連が防共協定に参加した』といわれている位で、日独ソが接近したところで聊かも不思議はないのである。ドイツが防共の道義を無視してソ連と結んだのではなく、ソ連を防共協定に引き入れたのだ。」「我々は思想を駆使すべきであるが思想に駆使されて自縄自縛になってはならない。防共も、そしてまた対ソ不可侵条約も共に具体的国際情勢が命じる『生きた外交』の顕現である。」
欧州戦でフランスがドイツに降伏し、イギリスの運命も風前の灯火となった。ドイツが欧州を席巻すると、白鳥は南進論に転回した。「イタリア大使になる前、白鳥は次のように語ったという。『君、南方なんてペンペン草の大きいのが生えているだけだよ。それより北だ。満州からシベリアにかけては沃野千里だよ。日本が生命力を発散さすのはこの地域だ。』ところが、イタリアから帰って来た後に会ってみると、白鳥は『君、北方なんてツンドラだ。あんなツンドラいくら持っていたって何の役にもたたんよ。それよりも南方だ。海の資源、山の資源、帝国の生命線は南方に置き換えるべきだね』と述べ、あまりの変わり身の早さに、この記者を唖然とさせた。」
「新しき世界を生み出すためには、従来の天賦人権とか、民族自決とか国家主権という観念に相当の修正を加えねばならぬ。従来の世界は六十余の国々に分かれ何れも主権の絶対を主張して、人類社会の向上発展はかえってそのために阻止せられてきた。全体主義諸国のなさむとする所は、大雑把に、この不合理を矯正せんとするところにあるといえる。即ち世界を比較的少数のグループまたはブロックに分かってその圏内におおて各民族は円満なる共同生活を営み各々その所を得るという仕組みである。」「日本当面の問題は、もはや支那から白人の勢力を駆逐するということだけではない。今や更に南方へと進んで、従来白人の領土として壟断され、搾取されていたこの地方から、その不当な勢力を駆逐せねばならぬ。」
白鳥のアジア民族解放論は、日本盟主論とセットになっていた。アジアにおいては「他の民族に比して最も優れたる日本民族がその盟主」でなければならず、しかも「アジアの独立、アジア諸民族の解放という聖業に従事して現に大きな犠牲を払い、絶大な努力をしている」日本民族が「アジア諸民族のうちの最も恵まれたる民族、富裕なる民族となることは極めて至当」であり、「絶大の犠牲に対する当然の報酬である」と主張していたのである。
外務省は、威勢のいい「枢軸派」と長いものには巻かれろ、流れに身をまかせろと動く「灰色組」で要所要所を占められていた。軍部と通じている者も少なくないと考えられていた。省内は疑心暗鬼の状態となり、ごく少数の者による省内の秘密外交が横行した。
外務省革新派は、総力戦、普通選挙、マスコミの発達を背景とする外交大衆化を背景として、外交の理念や哲学を世論に訴えかけた。軍部と協力または結託することもあった。世論が変化し過激化すると、革新派の議論も揺れ動き、過激になっていった。
革新派の政策決定への影響力は限定的であった。彼らがその力によって何らかの具体的な政策を決定した例はほとんどない。革新派の影響力はポジティブな方向には発揮されなかった。むしろ彼らの影響力はネガティブな方向に作用した。防共協定強化問題や戦争回避のための日米交渉時に典型的に示されたように、革新派は外務省内の強力なプレッシャーグループとなり、政府や外務省の決定や行動を妨げた。革新派の圧力や行動により、日本外交が立ち往生したり、外務省首脳部の方針がスムーズに実行されなかったりするケースがしばしばあり、長期的に日本外交の選択の幅を狭めていくこととなった。