田中角栄は米国の虎の尾を踏んだのか:秘密解除 ロッキード事件

2016-07-23 15:11:11 | 日記

「秘密解除 ロッキード事件」(奥山俊宏、2016年)

1972年7月、田中角栄は自民党総裁選に勝利し、総理大臣に就任した。田中内閣の喫緊の課題は日米貿易不均衡の是正と中国との国交正常化であり、両方とも米国との協議が必要だった。
8月31日、ニクソン大統領と田中首相はハワイで首脳会談を行った。首脳会談の中でニクソンがロッキードを売り込んだという直接の証拠はない。だが、ニクソンがロッキードの採用を迫ったのではないかと思われる状況証拠は少なくない。首脳会談後の9月20日にマグダネル・ダグラス社の副社長が東京の米国大使館を訪ね、経済担当参事官に「ハイレベルの米政府の圧力のため、日本の航空会社はダグラスのDC10とロッキードのL1011を分担してを購入しなければならない」との苦情を申し立てた。同日付けの国務省宛の公電によれば「三井物産の上席副社長が9月19日、中曽根通産相のオフィスに呼び出され」たのだ。ロッキード事件発生直後の1976年2月8日の国務省宛公電にも当時の中曽根自民党幹事長が「ロッキードに有利な取引はニクソン大統領と田中前首相の間で結論が出ていた」と語ったと書かれている。当時の米国は大統領選挙の真っただ中にあり、ニクソン政権内では再選を支持する企業からの要望を実現しようと躍起になっていた。その一環として、グラマン社の早期警戒システムE2の日本への売り込みも日米首脳会談の前後に強力に推進されていた。首脳会談で民間航空機の話題が個別に取り上げられても不思議でない雰囲気にあった。

ニクソン政権では、国務省を経由せずにホワイトハウスの情報分析室と現地を直接結ぶ経路、いわゆる裏チャンネルを使って重要な外国の指導者とやり取りすることが常態になっていた。この時代、対中国、対ソ連など重要な外交交渉については国務省を無視してホワイトハウスが直接担当していた。対日外交も例外ではなかった。田中の前任の佐藤栄作との間では京都産業大学教授の若林敬が密使となり、偽名を使ってキッシンジャーと連絡を取り合ったし、田中の後任の三木武夫は外交評論家の平岩和重を密使としてワシントンに派遣し、ロッキード事件の対処方法を話し合った。

ニクソン・キッシンジャーは田中内閣とも国務省を通さずに首相官邸とホワイトハウスを直結するルートを作ろうとした。キッシンジャーは、国務省を通さずにインソガル大使から大統領に直に連絡することもできるし、密使をワシントンに寄越してもらえれば喜んで会う、と説明した。田中が「インソガルにみずから直接連絡する」と答えたことに対し、キッシンジャーも「できるだけ早くお願いしたい」、「あなたが家族の一員として大統領に暖かく迎えられるのは間違いない」と述べている。ニクソンもハワイでの首脳会談で、佐藤内閣と同じように密使を通じて連絡を取り合おうと提案した。だが、田中はホワイトハウスとの直結ルートを用いたニクソン政権との調整を積極的に進めようとはしなかった。9月25日、田中は北京を訪問し、9月29日には中華人民共和国と国交を回復した。田中は米国と細かく調整を行うことなく中国との国交回復と台湾との断交に向かって最短コースを一直線に突き進んだ。1973年秋に起きた第四次中東戦争ではアラブ諸国がイスラエルとの友好国に対して石油の禁輸を発動し、日本はアラブ寄りの政策を発動して石油を確保しようとした。ニクソンとキッシンジャーは米国と慎重に外交政策を認識合わせしようとしない田中の手法にいらだちを強め、度重なる一方的な情報リークにも激怒していた。

ニクソンは再選されたが、再選運動中の1972年6月17日未明、ワシントンのウォーターゲートビルにあった野党・民主党の事務所に盗聴器を仕掛けようとした五人の男が現行犯逮捕されていた。ウォーターゲート事件ともみ消し工作は政権中枢の違法行為として追及され、最終的に1974年8月9日のニクソン辞任へとつながっていった。後任には副大統領のフォードが就任した。

米国政府は、他の諸国と同じように、国家安全保障の名の下で外国における自国政府機関の活動や兵器の売却にかかわる事項を非公表にしてきた。国務省の高官や国家安全保障担当の大統領補佐官が外交委員長に会い「これを公の場で議論するのは国益にならない」と申し立てれば情報を非公表にすることができた。しかし、ウォーターゲート事件によって、このような仲間内の対応が非常に難しくなった。ニクソンは国家安全保障を理由に持ち出して、国家安全保障とは何の関係もないウォーターゲート事件をもみ消そうとして、大統領辞任にまで追い込まれた。当時、国家安全保障を理由に公表を差し止めるのは、政府が再び何かをもみ消そうとしているかとも見られかねない雰囲気だった。ウォーターゲート事件によって米国国民の政府への信頼が失われ、秘密とその濫用に対する激しい反動が起きた。

1976年2月4日、上院外交委員会の多国籍企業小委員会(チャーチ小委員会)がロッキード社の問題を公表したのは米国国内で情報公開の圧力を受けたものだった。ロッキード社は日本、イタリア、トルコ、フランスなどの各国にて多額の違法な政治献金を行っていた。但し、チャーチ小委員会の調査範囲にも限界があった。「民間機、軍用機の日本への売り込み全体を調査したわけではありません。ロッキードの対潜哨戒機P3Cの売り込みについても資料はありましたが、もしそれを調査したとすれば、私たちはまったく新しい分野、兵器売り込みの話に踏み込まなければならなかったでしょう。私たちは調査を絞ろうと決めました。私たちができる限りのことをやろうと決めました。」

同年4月、三木首相は密使の平沢和重を通じてキッシンジャーにメッセージを送った。「首相は断固たる政治行動をとる前に、元首相、現職閣僚、与党幹事長のだれかが未だ秘密とされているロッキード疑惑に連座しているかどうか、前もって知らなければならず、このことを緊急に国務長官に伝えるように私に依頼しました。」元首相は田中角栄、現職閣僚は建設相の竹下登ら、与党幹事長は中曽根康弘のことだった。「これらの質問の回答次第では、首相は、政治の危機を乗り越え、党を超えて民主主義を強め、日米の友好協力関係を守るために、無党派の改革案を掲げ、内閣からも党執行部からも独立して国民の信を問うという、前例のない選択肢を実行に移すと決断するでしょう。国務長官が、日本の民主主義への脅威をよく認識し、首相の緊急・極秘の要請に応じるのが可能であると判断されることが首相の心からの希望です。」

三木は、自民党の反三木グループだけでなく、中曽根らも切って捨て、無党派や中道野党を味方に付けて、衆院解散・総選挙打って出ようとした。だが、4月10日、キッシンジャーから来たのは拒絶の回答だった。「我々は、日本政府と最近合意した手続きによらなければならず、そこでは、米国司法省と日本法務省の間ですべての情報を伝達しあうと定められています。」
三木が決断すれば、刃向かう閣僚15名を罷免し、代わりに、河野洋平、西岡武夫、小渕恵三ら若手議員を入閣させ、総選挙に打って出ることも考えられていた。しかし、結局、三木は決断せず、解散には踏み切らなかった。海部は「どうしてやらないんですか」と三木に聞いたという。三木は「独裁者じゃないから」と答えた。海部は「よいことならばやればいいじゃないですか。独裁者でもいいじゃないですか」と食い下がったが、三木の回答は「俺は独裁者じゃない」だった。

7月27日、三木政権下の検察によって田中は逮捕された。三木は解散権を行使できず、四年の任期満了に伴って行われた12月5日の総選挙では自民党はその議席数を大幅に減らし、その責任を取って辞任した。
米国では11月の大統領選挙では民主党のジミー・カーターが現職のフォードを破って当選した。

田中角栄が米国を怒らせたのは事実だが、その原因は田中政権の資源外交ではなかった。公開が進んでいる米国政府資料にはそのような記載は一切見られない。ロッキード社の資料がチャーチ小委員会に「誤配」されたことがそもそもロッキード事件の性格を示すという謀略説も事実に反している。日中国交正常化を推し進めたから田中は米政府に嫌われたという説もある。確かに台湾との性急な断交やそれに伴う日米安保条約の再解釈について田中がキッシンジャーら米政府に反感をもられたのは事実だが、それはその政策そのものが原因であるというよりも、田中のふるまいと言動が原因だった。田中とともに日中国交正常化に政治生命を賭した外相の大平正芳への米政府の評価は高い。当時の共和党政権で外交を仕切っていたキッシンジャーを怒らせたのは、特使を使った外交を行わなかったことにみられるように、ホワイトハウスとの細かな情報共有を行おうとしないその姿勢と、田中が政治的に微妙な問題を含め、あることないことを織り交ぜて報道機関に情報を流すことだった。

キッシンジャーは田中を人格面から蛇蝎のごとく嫌っていたが、田中の政策が「米国の虎の尾」を踏んだわけではなかった。だが、今も「米国の虎の尾」説は強い影響を与え続けている。田中の失脚と逮捕を「米国の虎の尾」と結びつける考え方が日本政府上層部に浸透した結果、日本政府は「米国の虎の尾」を踏まないように米国の意向を慎重に忖度して政権運営を続けることとなった。
被害妄想的な「米国の虎の尾」説が打ち消されないため、米国の「支配」に対する不必要な反発もその反作用として生まれてきてしまう。

本書は、ロッキード事件が「謀略」ではなく、また、田中角栄が「米国の虎の尾」を踏んだために起きたものでもないことを実証した。

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