朝日新聞が反軍・反米を掲げる理由:「朝日新聞 日本型組織の崩壊」

2015-08-16 20:13:52 | 日記

「朝日新聞社の病巣はイデオロギーではなく、官僚的な企業構造にこそ隠されている」とする朝日新聞記者有志による朝日新聞論(2015年)。

新聞記者の場合、ある記者が書いたあの記事によってこれだけ売り上げが伸びた、といった客観的な人事評価基準は設定しにくい。その結果、他の企業と同じく、人事は直属の上司との相性、好き嫌いの話に行き着いてしまう。朝日新聞の記者の人材配置は「ドラフト」と呼ばれるシステムで決まることが多い。各部の部長クラス以上が「Aは出来るやつだから手元においておきたい」「Bは気に入らないからよそに出す」「Cは本当は優秀なのに、よその部で腐っているからウチに呼ぶか」といった具合に希望を出し、そのサークル内の評価だけで配置が決まっていく。いくらさぼっていても上司の受けが良ければ評価は上がるし、いくら特ダネを量産しても上司に直言するようなタイプの記者の評価は低くなる。

このような人事評価体系の中で、致命傷となってしまうマイナスが誤報の訂正だ。訂正は記者自身の失点になるだけでなく、記事のチェック役であるデスクのキャリアにも傷を負わせる。訂正を出す際には、記者とデスクの連名で始末書を提出しなければならない。さらには校閲部が出している「訂正週報」に載るという不名誉もある。取材先や第三者から記事の誤りを指摘された場合、記者はまず、菓子折りを持って先方を訪ね、頭を下げながら、何とか訂正を出さずに済ませられないか、穏便な対応を求めることになる。

人名や年齢の間違いなどの単純ミスではなく、慰安婦報道のように記事の内容自体が誤っている場合、訂正はいよいよ関係者の人事評価に致命的な傷を付けることになる。「慰安婦を強制連行した」との吉田証言の誤報を長年訂正しなかったのも、誤報を認めれば記事を書いた記者だけでなく、その記事の関係者である幹部にまでその影響が及ぶからだ。

それでは、朝日新聞記者が誤報と訂正のリスクを回避して高い人事評価を受け、昇進を果たすにはどうすればよいか。

一つの方法は、役所の記者クラブや警察の発表をそのまま記事にすることだ。面倒な仕事に手を出さず、記者クラブや警察の発表だけを報じていればミスや摩擦は減り、出世の妨げとなるようなキャリアの傷はつきにくい。だが、この減点を避ける消極的な方法では、ミスをした者が淘汰されるだけで、他の記者よりも高い人事評価を得て昇進する決め手は得られない。また、この方法を取っていると紙面はどうでもいい役所発表だけで埋め尽くされ、朝日新聞の購読者は減っていくことだろう。

朝日新聞記者にはもっと良い伝統的な方法があった。それは、何を書いても誤報の誹りを受けず、反論してこないターゲットを大所高所から批判することだ。朝日新聞は戦前の日本軍を叩き続けたが、それはいくら叩いても反論を受けることのない安全な対象であり、誤報と訂正のリスクを取らずに人事上の実績を挙げることができたからだ。歴史認識が政治問題化するまでは、第二次大戦に関するいわゆる平和報道の際、研究者や平和運動活動家から提供される資料を裏取りせずに記事にすることは自然に行われていた。東京大空襲や広島・長崎など、日本人の被害に関する記事では、体験者の証言をそのまま掲載しても、その正確性を問われることはまずなかった。

国際面でも同じ手法が使われた。中国を批判すれば中国政府と対立し、取材が難しくなるだけでなく、記者が追放される危険性もあった。ソ連についても同じだった。これに対し、自由な報道を認めるアメリカはいかに批判しようとも問題が起きることはなかった。中国・韓国における日本軍の加害責任の報道についても、両国がそれを外交カードとして使うようになるまでは、記者たちの認識は被害報道の延長線上にある感覚でしかなかった。

国全体を兵営化しようとした日本軍に対する怒りと憎しみは戦後長年にわたって国民のコンセンサスとして存在していた。だが、日本軍の暴虐を直接知る世代が減少するにつれ、朝日新聞の日本軍叩きは日本叩き、反日記事とみなされるようになった。中国や韓国との外交上の対立関係が激化すると、中国や韓国の視点から日本を批判する方法も支持を受けなくなった。そもそも戦争が遠い記憶となってしまい、反軍の記事を打ち出しても読者の強い支持は得られない状況となった。

本書にて朝日新聞記者有志が主張するように、朝日新聞の病巣は左翼イデオロギーではなかった。
自分自身と自社のリスク無く高踏的な主張を掲げるための叩きやすい対象が戦前日本とアメリカであったに過ぎなかった。

朝日新聞は、ともすれば仲間内の独善的な論理で動きがちな自民党政治と官庁に対する批判勢力として、日本の社会に不可欠な存在である。
戦前日本を叩くこともアメリカを叩くことも読者からの支持を受けなくなった現在、朝日新聞の価値観とリスクを取る姿勢が試されている。
朝日新聞が批判精神を失って政治や官庁と癒着する方向に進むとすれば、日本の将来にとって大きな損失となるだろう。

国際金融の現場から見た戦争への道:「横浜正金銀行全史第四巻」

2015-08-15 23:37:24 | 日記

戦前日本において外国為替・貿易金融を中心業務とする特殊銀行であった横浜正金銀行の社史。第四巻では1933年から1941年の期間を記述している(1982年)。

1936年の二・二六事件は海外において日本財閥に対する軍部の攻撃ともとらえられ、日本の対外的信用を甚だしく損なった。国際金融の現場は日本の政情不安に敏感に反応した。英米市場では日本公債が暴落した。日本の銀行商社に対する信用供与も警戒されるようになった。事件が落ち着きを見せるまでの期間、ロンドンでは横浜正金ロンドン支店の預託先5行のうち3行が同店引受手形、同店裏書の三井物産・三菱商事引受手形の再割引を拒否した。

1937年に盧溝橋事件が発生し、日華事変が進行するとロンドンにおける三井・三菱引受手形の再割引は不可能となった。日本公債担保による借入金の取決めも取り消され、一時はイギリス公債担保の借入も危ぶまれる情勢となり、横浜正金ロンドン支店が他行からの受信枠として保有していた950万ポンドのファシリティは一時期780万ポンドにまで減少し、ロンドン支店の資金繰りに支障を与えるまでに至った。

欧州戦争が開始されるとイギリスは戦時体制を確立して国土防衛を最優先し、為替管理を極度に強化した。この結果、ポンドは世界通貨としての機能を全く喪失した。

アメリカの対日貿易牽制強化は1939年12月、日本に対して道徳的禁輸の対象範囲を拡大し、工作機械の輸出許可制を実施した時に始まった。1940年7月にはルーズベルト大統領が軍需品関係物資の輸出統制条項を含む法案を裁可し、武器・弾薬・その他の直接的戦争資材だけでなく、アルミニウム・マンガン・マグネシウム・亜麻・皮革・生ゴム・錫その他広範囲にわたる資材に対して許可制を敷き、ついで石油製品・鉄・金属屑をこれに加え、10月には屑鉄の対日輸出を禁止した。1941年に入り要許可品目は銅・真鍮・青銅・亜鉛・ニッケル・カリなどに及び、3月にはカドミウム・コプラ・ジュート・鉛・ラード・パルプが追加され、これら広範囲にわたる物資を日本が輸入することは事実上困難ないし不可能の実情となった。表面上は許可制となっていても、対日輸出に関する限り、許可制とは禁輸とほぼ変わりない運用となっていたからだ。

輸送についても、アメリカ政府は日本向けの油類に米国籍タンカーの使用を禁止し、アメリカの港湾で積み替えられる荷物に対してアメリカの輸出許可制の適用を主張した。第三国籍船がアメリカによる抑留を警戒して日本の傭船を忌避する動きも起きていた。

1941年7月、日本軍が南部仏印に進駐するとアメリカは日本資産の凍結を発令した。イギリス・カナダ・蘭領東インドも相次いでアメリカの方針に倣った。
アメリカの資産凍結令は極めて広範に資産と資金の凍結を規定し、一般許可の範囲内においてのみ自由取引を認めていた。その運用は極めて厳しく、横浜正金ニューヨーク支店には銀行検査官が常駐し、厳重な監督を行うだけでなく、一般許可または特別許可のあった取引でも、いちいち銀行検査官の承認がないと実行できない状態になった。対日貿易は表面上輸出入とも許可制ではあったが、凍結後許可された取引は一件もなかった。送金関係でも、外交官送金について11月末に互恵的取扱いが開始されただけで、他にはほとんど許可されなかった。第三国間貿易による金融、ニューヨーク支店とアメリカ領内各店との間の回金も許可されなかった。

アメリカ・イギリスの主敵であるナチスドイツと友好関係を続け、同盟を結んだ日本は国際貿易・国際金融の分野でも次々と圧迫を加えられた。
通商制限と金融制裁により敵国を追い詰めるアメリカの国防政策は現在も引き続き行われている。

幣原親中外交の失敗:「陰謀・暗殺・軍刀」

2015-08-14 23:43:53 | 日記

外交官として奉天総領事代理、東亜局長を務め、戦後は社会党衆議院議員となった森島守人の回想録(1950年)。

1920年代の幣原外交は英米との協調を基本路線としながら中国の合理的要求を認める立場を取っていたが、理想に走る余り現実を軽視する傾向にあった。北京関税会議では英米との事前のすりあわせなく中国の関税自主権を承認する意向を表明した。国民革命軍が上海に迫りイギリスから上海共同出兵の相談を受けた際にも協調軍事介入を拒否している。
幣原外相は壮年時代に釜山に赴任したことがある以外に極東での現地勤務をしたことがなく、事務次官、亜細亜局長も極東在勤の経験を持たなかった。極東外交を主管する亜細亜局は課長以下事務官に至るまですべて欧米派が独占していた。これらのエリート外交官は省内では日本の外交は自分たちの双肩にあるとして他の部局を軽視しながら、海外転勤となると面倒な中国を避けてパリ、ロンドン、ワシントン等の任地を我先にと占めていた。省内での欧米派エリートに対する非難は極度に達していた。

中国経験者が極東問題の処理にあたっていた陸軍部内で外務省の対中国外交を電信外交と非難しこれを軽視する傾向が強かったのも、外務省の陣容からみてやむを得ないことだった。

世論は中国で続発する排日事件に対して毅然たる対応を求めていた。1927年に成立した田中義一政友会内閣は幣原の対中政策を消極軟弱外交と批判し、山東出兵を実施して国民革命軍の北伐を阻止したが、結果として中国全土に抗日運動を激化させることとなった。

もともと満州独立の思想は前々から日本の一部に存在していた。盧溝橋事件の際に北京を訪れた松岡洋右は「満州の独立は自分らのかねてから宿望で、夙に中国第一革命の際、北京の伊集院公使をして満州独立論を建言させたのも自分だ」と語っている。さらに大隈内閣時代には袁世凱の帝政宣言の際に満州各地で大陸浪人によって馬賊を蜂起させ、一挙に満州の独立を実現しようとする計画もあった。政府の承認の下で外務省政務局長が中心となって進めていたこの計画は、袁世凱の急死により中止となっている(宗社党事件)。

1928年には関東軍の河本大作大佐による張作霖爆殺事件が発生した。列車の爆破のほか、日本人居留民会など数か所に爆弾が投げられた。治安の紊乱に乗じて出兵を断行し大規模な武力衝突を発生させようとしたが、総領事館の要請を受けて出兵を行おうとしたため、その計画は頓挫してしまった。

田中内閣に次いで成立した浜口雄幸内閣では幣原が再度外務大臣に就任したが、関東軍は武力で一挙に満州問題の解決を図ろうとする姿勢を強めていた。大陸浪人の策動も含め不穏な事件が次々と起きた。関東庁の長官は「霞ヶ関の電信文学に帝国の外交を托し得ず」と公言した。

1931年9月18日夜、特務機関から奉天総領事館に対し、柳条溝にて中国軍が満鉄線を爆破し、関東軍は既に出動中であるとの連絡があった。著者が外交交渉による平和的解決を提案したところ、板垣大佐は「既に統帥権の発動を見たのに、総領事館は統帥権に容喙、干渉せんとするのか」と反問し、同席していた花谷少佐は面前で軍刀を引き抜き「統帥権に容喙する者は容赦しない」と威嚇した。板垣大佐、石原莞爾中佐、花谷少佐、片倉大尉などが関東軍を支配し、本庄司令官や三宅参謀長は全くの傀儡に過ぎなかった。本庄司令官の与えた確約が後に至って取り消されることはあっても、一大尉片倉の一言は関東軍の確定的意思として必ず実行されたのが、当時における関東軍の真の姿だった。

幣原外相は日清戦争における陸奥、日露戦争における小村と面目を異にし、あまりにも内政に無関心で、また性格上あまりにも形式論理にとらわれ過ぎていた。満州における幣原外交の挫折は要するに内政における失敗の結果で、当時世上には春秋の筆法をもってすれば、幣原が柳条溝を惹起したのだと酷評する者もあった。

欧米派は日本の現実から遊離した仲間内のエリート社会を作り上げ、権力を独占していた。だが、その権力基盤は日本社会に根ざしてないだけに脆弱なものだった。
排日事件に怒り、不況に苦しむ国民世論の支持を受けたのは陸軍の対中強硬方針だった。
内政と外交、政治と統帥の目的統合は実現せず、各組織はそれぞれの原理で動き続けた。