労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

恐慌(パニック)に陥っているマルクス主義同志会

2008-01-28 01:36:31 | Weblog
 マルクス主義同志会が、彼らの機関紙『海つばめ』で、“マルクス経済学者”たちに向かって吠えている。
 
 「例えば、“労働力商品”を売る労働者と、それを買う資本家の交換の場合はどうなのか。結果として、両者の総計の価値額が同じと言えるのか。もし同じと言えるというなら、彼は労働者と資本家の間の交換の意味を理解していない(つまり搾取の根底について何も知らない)ということを暴露するのであり、もし違うというなら、彼の理論は簡単に破綻するのである。
 
 “労働力商品”の場合だけでなく、一般に、商品の売り手とその買い手がどんな価格で買っても、二人の価値の合計は同じだから、社会全体としても、買い手と売り手の『価値総額』は売買前と後で変わらないと言っていいのか。
 
 もし、すべての商品が必ずしも売れないで、一方の手に商品の過剰が、他方に『購買力』の不足が現れるなら、つまり一般的過剰生産の場合のときなどに、売りは買いであり、買いは売りだから、その前後の社会全体の『価値総額』は変わらないなどと言って、マルクスの時代の『調和論者』たち(ブルジョア的俗物のバスチァン・セーなど)と同様にすまし顔をしていることができるだろうか。こうした場合、一体どんな意味で、社会全体の『価値総額』は変わらないと主張するのか。」(『海つばめ』1060号)
 
 しかし、この場合の不幸というのは、叱られている方(“マルクス経済学者”たち)が叱っている方(マルクス主義同志会)のことを理解していないために、何を叱られているのかさっぱり分からないということにある。
 
 もっともこれはマルクス主義同志会の内部でも同様であり、口から泡を飛ばして吠えている当人以外の会員も、実は、何を言っているのか分からない状態である。
 
 そこでわれわれが言葉が足りない“ご本家”さまに代わって、“マルクス経済学者”たちのどこがいけないか解説する必要があろうというものである。
 
 第一に、“マルクス経済学者”が理解しなければならないのは、「古典派経済学の欠陥はここではただ次の点にあるだけである。すなわち、第一には、このようなより多くの生きている労働とより少ない対象化された労働(貨幣のこと)との交換が、どのようにして商品交換の法則に、つまり労働時間による商品価値の規定に、合致するのかということを論証することができなかったということであり、したがってまた、第二には、流通過程における一定量の対象化された労働(貨幣のこと)と労働能力との交換と、生産過程で行われるところの生産手段の姿で存在する対象化された労働による生きている労働の吸収とを、直接に混同していることである。可変資本と労働能力との交換過程を、古典派経済学は不変資本による生きている労働の吸収過程(価値増殖過程のこと)と混同しているのである。」(『直接的生産過程の諸結果』、国民文庫、P62)というマルクスの言葉である。
 
 マルクス主義同志会は、組織の名前にマルクスの名前が入っているので、人々に大きな誤解を与えているが、正しくは「古典派経済学に依ってマルクス経済学の間違いを正す会」なのである。だからここではマルクス主義同志会は、古典派経済学の立場から、資本と労働者の交換は不等価交換であることを知らないのかとマルクス主義者にお説教をたれているのである。
 
 “マルクス経済学者”が理解しなければならない第二の点は、マルクス主義同志会は、組織の名前にマルクスの名前が入っているので、人々に大きな誤解を与えているが、正しくは「プルードン主義同志会」でもあるということである。プルードンの経済理論はマルクスの『哲学の貧困』でも明らかにされているように、古典派経済学をそのまま取り入れて通俗化したものであるのだから、これは第一の点とまったく矛盾するものではない。
 
 同じ『直接的生産過程の諸結果』にはマルクスはプルードンについて次のように述べている。
 
 「プルードンを困惑させるのも、やはりこれ(労働の生産性の増大は個々の商品の価格を低下させるにもかかわらず全体の剰余価値量は増大すること)に似たパズルである。というのは、彼はただ個々の独立な商品の価格を見るだけで、総資本の生産物としての商品を見ず、したがってまた、総生産物がその各個の成分の価格によって概念的に分けられる割合を考察しないからである。
 
 『商品の価格を構成するために、商業において労働者の賃金に資本の利子(これは剰余価値中の特別に命名された一部分でしかない)がつけ加えられるので、労働者が自分の生産したものを買いもどしうるということはありえない。労働によって生活するということは、利子制度のもとでは、矛盾を含んでいる原則である。」(『信用の無償性。フレデリック・バスティア氏とプルードン氏との論争』、パリ、1850年、P105)
 
 それはまったく正しい。事柄を明確にするために、問題の労働者が全労働者階級だと仮定しよう。労働者が受け取って次にはそれで生活手段を買わなければならない週賃金などは、ある量の諸商品に投ぜられるが、その価格は、各個に見ても全部ひっくるめて見ても、労賃に等しい部分のほかに、剰余価値に等しい部分を含んでいるのであって、プルードンが言っている利子は、この剰余価値のただ一部分を、しかもおそらく相対的に小さい割合の一部分を、なしているだけである。では、労働者階級が、ただ賃金に等しいだけの週間収入をもって、賃金・プラス・剰余価値に等しい商品量を買うということは、いったいどうして可能なのであろうか?週賃金は、この階級全体としてみれば、生活手段の一週間分の総額でしかないのだから、労働者は受け取った貨幣額で必要生活手段を買うことはできないということはまったく明らかである。なぜなら、彼の受け取った貨幣額は、週賃金に、つまり彼に支払われる労働の週価格に、等しいのであるが、他方、一週間分の必要生活手段の価格は、それに含まれている労働の週価格に不払い労働をあらわす価格を加えたものに等しいからである。それゆえ、『・・・・労働者が自分の生産したものを買いもどしうるということは、ありえないのである。』それゆえ、『労働によって生活するということは』、この前提のもとでは、『矛盾』を含んでいるのである。プルードンは外観に関するかぎりでは、まったく正しい。だが、彼が商品を独立に考察しないで、資本の生産物として考察するならば、彼は次のことを発見するであろう。すなわち、週生産物は二つの部分に分かれるのであり、一方の部分の価格は、労賃に、すなわち一週間に投下された可変資本に等しく、剰余価値を含んでいないが、他方の部分の価格はただ剰余価値だけに等しい、ということがそれである。商品の価格はすべてこれらの要素を含んでいるのであるが、しかし、労働者が買いもどすのは、まさにただかの一部分だけなのである。(その場合、彼がこの買いもどしにさいしてごまかされることがありえ、また実際に食料品屋などにごまかされるというようなことは、当面の目的にとってはどうでもよいことである。)
 
 プルードンの一見深淵で解決できないように見える経済学的逆説は、概してこんなぐあいのものである。この逆説は、いろいろな経済現象が彼の頭のなかに生みだす混乱を彼が現象の法則として述べたてるということにあるのである。
 
 (実際には彼の命題はもっとわるい。というのは、それは次のような前提を含んでいるからである。すなわち、商品の真の価格は商品に含まれている賃金に等しく、すなわち商品に含まれている支払労働量に等しく、剰余価値、すなわち利子などは、このような、商品の真の価格を越える、えてかってな付加物でしかない、という前提を含んでいるからである。)
 
 ・・・・・・・
 
 (注意、このプルードンに関する箇所は、全体を第2部第三章かまたはもっとあとのほうに置くほうがよいであろう。)」(『直接的生産過程の諸結果』、P189~191)
 
 
 プルードンこそ真の“マルクス主義者”であると信じて疑わないマルクス主義同志会はこのプルードンの命題をすべて受け入れることから始める。
 
 だから、剰余価値が商品の真の価格を超える、えてかってな付加物でしかないとすれば、「商品の売り手とその買い手がどんな価格で買っても、二人の価値の合計は同じだから、社会全体としても、買い手と売り手の『価値総額』は売買前と後で変わらないと言っていいのか」、流通過程で剰余価値という付加物が商品の真の価格につけ加えられなければならないとするなら、当然、買い手と売り手の『価値総額』は売買前と後で変わらなければならないのではないか?安く買って高く売るのがブルジョアの仕事であるなら、買い手と売り手の『価値総額』は売買前と後で変わらなければならないだろう、云々という話になるのである。
 
 また、マルクスがわざわざこのプルードンの部分は第2巻の、「社会的総資本の再生産と流通」のところか、そのもっとあとのところに置いたほうがいいという「注意」を書き残しているのは、この部分はけっして社会的総資本の再生産について述べているわけではないからである。
 
 ところがマルクス主義同志会は、プルードンがそうであるように、『・・・・労働者が自分の生産したものを買いもどしうるということは、ありえないのである。』という言葉を生活必需品を生産する労働者が生産した商品を労働者はすべて買えない、すなわち、「需要と供給は一致しない」というように理解している。
 
 だから次のようにいうのである。
 
 「かくして、資本主義的生産関係、階級関係のもとでは、一見して生産と消費の一致という命題は不合理なものとして現れる。というのは、労働者階級は自ら生産したものをすべて『買う』こともないし、したがってまた『消費』もしないからである。労働者はただ剰余価値を生産する限りで、つまり自らのために生産する以上のものを生産する限りで、生産をするにすぎない。つまり、自らが消費する以上のものを生産する限りで、つまり資本のために剰余価値を生産する限りで、生産をおこない、したがってまた消費するにすぎない。労働者が単に自分の消費するだけのために生産するなら、つまり資本のために不払い労働を行わないなら、剰余価値を生産しないなら、労働者はけっして労働しないだろう。労働者は資本のために剰余価値を生産しないなら、自分のためにも生産しない(できない)のである。そして労働者は生産する限り、資本のために剰余価値を生産する、つまり自らの消費のため以上の労働を行うのであり、かくして彼らは賃金労働者である。この意味では、労働者はつねに『過剰に』生産するのであり、消費する以上を生産するのである。生産と消費の一致、供給と需要の一致というセーの単純な命題は、労働者の場合には、つまり資本と賃労働の関係の場合には、一見して間違った命題として現れる。産業的に消費される商品については言うまでもないが、個人的に消費される商品、自分の労働が価値として対象化されている商品についても、労働者は決してそのすべてを買わないし、買うことができないだろう。生産と消費はそれぞれ別のものとして、別個の契機として、相互に無関心な、独立した契機として現れる。ここでは両者の『内的な統一』は一見して無意味である。」(『プロメテウス』第29号、P41)
 
 マルクス主義同志会がいうように、生産された総生活必需品のうち総労働者が「買いもどす」ことができるのは総賃金分だけであり、総剰余価値分は誰によっても買われることがなければ、資本は剰余価値をどのようにして実現すればいいのであろうか?
 
 これに対してマルクス主義同志会は答える。これこそが生産と消費の不一致、供給と需要の不一致の原因であると。
 
 しかし、これは恐慌ではないか?毎年、剰余価値分の生活必需品が売れないとするなら、生活必需品の生産部門は毎年、恐慌であろう。
 
 もっともこの場合の「恐慌」というのは、マルクス主義同志会の諸君たちの頭のなかだけで発生する現象にすぎない。というのは、マルクスがいうようにプルードンの理論というのが「いろいろな経済現象が彼(プルードンとそのお仲間のマルクス主義同志会)の頭のなかに生みだす混乱を彼が現象の法則として述べたてるということにあるのである」というようなものであれば、『・・・・労働者が自分の生産したものを買いもどしうるということは、ありえないのである。』(剰余価値は労働者のところには帰ってこない)という単純な経済現象が、解くことのできない経済学上の難問として、マルクス主義同志会の諸君たちの脳のなかを駆けめぐり、恐慌という現象の法則として定立されることになるのである。

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