労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

落日のなかの縁談話

2009-10-25 23:00:10 | Weblog
 言わなくてもいいことを言って、物議をかもし出す(英語で言えばメイク・トラブルだそうです)のは、われわれのもっとも得意とするところなのですが、言い出した以上、きちんと展開しなければならないだろう。

 なぜならば、この場合、われわれに対する誹謗中傷の山を築き上げている人々の方が、腹に一物をもってこういうことをやっている場合が多いからである。

 つまり、ある人々の目論見とわれわれが何気なく言ったことが、するどく対立しているので、彼らは思わず知らず、「いいかげんな人間の言うことなど信用できない」という議論以前の話を持ち出して攻撃してくるのである。

 最初は、たかが白井朗氏からメールをもらったと言うことぐらいが、なぜこれほどの騒動になるのかは理解できなかったが、考えてみると、この問題は日本の社会主義運動にとって決して意味のないことではないと考えたので、もう一時当時を振り返ってみたい。

 もちろん、われわれ(社労党)にとって、ことの起こりは2002年に林紘義氏が病気で倒れて入院したということから始まる。

 しばらくして、もっと驚いたのは、社労党(社会主義労働者党)を解党して、『資本論』の原理主義運動をやるということだった。

 そして、横井が林紘義氏から清水丈夫氏の『提案』を聞いたのは、社労党最後の中央委員会が終わって、帰る時だった。

 横井が聞いたところによると、実は、清水丈夫氏の『提案』はもっと包括的なものだった。

 要約すれば、

 ① (林紘義氏に)綱領の作成に協力してほしい

 ② (林紘義氏に)中核派の指導を引き受けてほしい

 ③ 必要があれば、中核派を解党して、第3の党(革共同中核派と社労党を解党して作られる新しい労働者党)をつくってもいい

 というものでした。

 もちろんこれは非現実的ということで、林紘義氏は全部、断った(はずだ)。

 しかも、林紘義氏が“天敵”であるはずの横井にそういう話をしたということ自体、「どうせ社労党はもうすぐなくなるし、アンタはもう用済みなのだから、階級闘争にそこまで固執するというのだったら、中核派にでも行ったら」ということを言外に臭わせていた。

 実際、この話は誰が聞いても、非現実的だ。

 そもそもが林紘義氏と清水丈夫氏が再会したこと自体、二人とも病気(しかも決して軽くはない病気)で同じ病院に入院したことから始まっているのだから、どちらが急に健康体を取り戻す、ということは考えにくいだろう。

 それに、失礼ながら、この頃の林紘義氏は生物学的な病気プラスもう一つのビョーキを患っており、そうだからこそマルクス主義の古典派経済学化(マルクス主義を古典派経済学まで引き戻す)という見果てぬ夢を追いかけていたのだった。

 つまり清水丈夫氏は、不幸なことに、林紘義氏が昔の林紘義氏ではなく、もう政治運動に対する関心も、社会主義への情熱も持ちあわせていないことを知らなかったのである。

 だから、この一つの時代を画した二人の“革命家”の“老いらくの恋”ははじめから片思いに終わる宿命にあったのだが、ここに見えるのは清水丈夫氏の労働者党建設にかける執念のようなものだろう。

 それで清水丈夫氏は、客観的に見れば、無謀でしかない『提案』をしたのだろうが、こういう歴史的なエピソード自体が、当時、左翼運動が追い込まれていた沈滞と解体的状況を示している。

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