労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

“青年マルクス”の狡知

2009-08-20 06:02:58 | Weblog
“青年マルクス”の狡知
     ※狡知=こうち:ずるがしこい考え。悪知恵。奸知 (かんち) 。

 「シュトラウスとフォイエルバッハの審判者としてのルター」(1841年1月執筆を読む)

  あまり知られていないが、“青年マルクス”(マルクス主義者になる前のマルクス)はプロテスタントに改宗した父親の影響もあって、子どもの頃にプロテスタントの洗礼を受けている。

 1816年、ライン州がプロイセンに併合された時、キリスト教に改宗して弁護士を続けるか、弁護士を廃業してユダヤ教を信仰し続けるかという人生の岐路に立たされたマルクスの父は弁護士を続けるためにキリスト教に改宗したが、ライン州のキリスト教徒の多数派を占めていたカトリックにではなく、プロテスタントに改宗したことにマルクス家の意地のようなものがあった。

 そういう点では、厳密な意味でマルクス父子はユダヤ人ではないし、このことが青年マルクスをして、“青年ヘーゲル派”というバスに乗り遅れさせた(というよりも自分の意思であえて乗らなかった)原因の一つになっていた。

 1831年のヘーゲル死後、ヘーゲル派は分裂していくが、その端緒となったのは、1835年に出版されたシュトラウスの『イエスの生涯』だった。彼はこの本の中で、イエスの生涯を、逐一、実証的に検討して、『福音書』の物語が信徒たちが作り上げた作り話であると主張した。

 シュトラウスがヘーゲル哲学の信奉者であったことから、神をどのように考えるのかという点でヘーゲル派の亀裂は深まっていく。

 一般的には、この時、無神論的な傾向を強めていったグループが“青年ヘーゲル派”または“ヘーゲル左派”と呼ばれており、シュトラウス、ブルーノ・バウアー、ルーゲ、シュティルナー、フォイエルバッハ、ヘスの名前があげられている。

 故広松渉氏は、マルクス主義=青年ヘーゲル派という前提から出発し、“青年マルクス”を何も描かれていない白いキャンバスに見立てて、マルクス主義を青年ヘーゲル派のブルーノ・バウアー、フォイエルバッハ、ルーゲ、ルドルフ・ヘスがつぎつぎに自分たちの色をつけていった絵と考えていた。つまり、マルクス主義=ブルーノ・バウアー+フォイエルバッハ+ルーゲ+モーゼス・ヘス+エンゲルス主義なのだそうだが、広松渉氏の描いたマルクスの絵はどぎつい原色のおどろおどろしい奇怪な絵でしかなかった。おそらく、自分が描いた“マルクス主義”という不細工な絵を一番気に入らなかったのは広松渉氏自身であったろうが、どうしてこういうことになってしまったのか答えを出せないままこの世を去ってしまった。

 それで、われわれも若きマルクスの歩んだ道を歩き直す必要があると考えたのだが、最初は、ブルーノ・バウアーである。

 これも一般的にではあるが、ブルーノ・バウアーは“青年マルクス”の「友人」とも「同志」とも言われているが、実際には、ブルーノ・バウアーは、マルクスが通っていたベルリン大学の神学部の講師であり、卒論(卒業論文)の指導教官であった。

 大学を卒業した人なら、卒業を直前に控えた学生と卒論の指導教官の関係が、どういうものか理解できると思うが、“青年マルクス”の場合も、マルクスの卒論のテーマ(デモクリトスとエピクロス)をマルクスに“推奨した”のもブルーノ・バウアーであった。

 そのブルーノ・バウアーはシュトラウスの著書が出た当時は、彼のキリスト教批判に対して、キリスト教とヘーゲル主義を擁護する立場から反論をしていた。

 ところが1841年になると、ブルーノ・バウアーは突如として、何を血迷ったのか、『無神論者にして反キリストたるヘーゲルを裁く最後の審判ラッパ』というパンフレットを書いて、ヘーゲルが無神論者であることを論証しようとする。(もちろん、ヘーゲルはどういう意味でも無神論者ではなかったのだが・・・)

 ブルーノ・バウアーの急進的無神論への転換はプロイセン政府を激怒させ、彼はボン大学を追放されてしまう。(1842年)

 このドイツ哲学界の激動の1841年(この年にはフォイエルバッハの『キリスト教の本質』も発行されている)は、“青年マルクス”にとっても大学卒業し社会に出るという人生の重要な時期であった。彼は卒論を4月にイエナ大学に提出し、博士の学位を受け、秋には、ボン大学で教職に就くはずだった。

 ところが、その41年の秋にブルーノ・バウアーの処分問題が起こり、“青年マルクス”の大学就職問題はすべてが水泡に帰すことになる。早い話、マルクスは大学を出て、大学教員になるつもりでいたが、突然、再就職の見込みがまったくない無職渡世人になってしまったのである。

 このブルーノ・バウアーの急進的無神論への転換は、浅野内匠頭が江戸城の松の廊下で吉良上野介に斬りかかったようなもので、“ブルーノ・バウアー藩”の家臣たちは“殿ご乱心”の責めを負って、すべてのすべての俸禄を取り上げられてしまったのである。

 切腹をおおせつかったブルーノ・バウアーは、“青年マルクス”を大石内蔵助のように考えており、広松渉氏もそのように考えているが、はたしてそうであったのか?というのがここでのテーマである。

 1842年1月に書かれた『シュトラウスとフォイエルバッハとの審判者としてのルッター』はこの時期に書かれた数少ない短文の一つである。しかし、この短文はその年には公表されず、1843年にルーゲの編集した『アネクドータ』(『ドイツ年誌』)に掲載されている。

 まず署名であるが、「非ベルリン人」となっている。これは3通りに解釈できる。一つはシュトラウスが宗教批判を「ベルリン人」の名で行っていたことにたいする当てこすり、もう一つはブルーノ・バウアーらの「青年ヘーゲル派」が「自由なベルリン人」の名で活動していたことに対する当てこすり、3つ目は1と2の両方である。

 そのどれかは分からないが、ここで「非ベルリン人」は最初に、フォイエルバッハとシュタインを対立させている。

 「まだ神学者としてその対象にむかい、そのためとらわれているシュトラウスか、それとも非神学者として対象にむかい、そのために自由に考察するフォイエルバッハか?」

 「思弁神学の目に見えるのと同じように事物を見るシュトラウスか、それとも事物をあるがままに見るフォイエルバッハか?」

 これだけ読むとどちらがすぐれているかは一目瞭然なような気がするが、それでも“青年マルクス”はその審判を、「宗教を直接的真理と考え、いわば自然と考える」ルターにゆだねるべきであるという。

 それは“青年マルクス”がもう一つの対比、すなわち、「奇蹟についての決定的判断をなんらもたらすことなく、また願望とは区別された、精神の特殊な力を、奇蹟を通じて予見するシュトラウス――願望がまさにこの彼の予見する、精神ないし人間の力でないかのように、たとえば自由になりたいという願望が自由の最初の行為ではないかのようにシュトラウスか、それともというフォイエルバッハか?」をもちだしてくるからである。

 「簡単明瞭に、奇蹟とは超自然的な方法による自然的ないし人間的な願望の実現である」のであれば、簡単明瞭に、「この世には超自然的なものは存在しない」と答えるべきなのであろうが、シュトラウスもフォイエルバッハも“青年マルクス”もそういうものは存在すると考えていた。

 だから、「死者は復活するか?」という自分のたてた設問に対して、“青年マルクス”は、「神を信じて大胆であるべきであり、絶望してはならない。なぜなら、私も他人もなしえず、する能力がないことも、神にはでき可能であるからである。私も他の人々ももはや助けることができない場合に、神は私を助け、私を死からさえすくいたもう。」というルターの答えをもってくることができるのである。

 そして「おお、、自らを恥じよ、キリスト教徒諸君、すぐれたそして平凡な、学識あるそして無学なキリスト教徒諸君よ恥じよ、一人の反キリスト者がキリスト教の本質をその真実の赤裸の姿においてしめさねばならなかったことを!そして思弁的神学者および哲学者諸君に私は忠告する。もしあるがままの事物にすなわち真理に改めていたろうと欲するならば、従来の思弁哲学の概念と偏見から諸君を解放せよ、と。そして諸君にとって真理と自由とへの道は、火の川(フォイエルバッハ)を通る以外にはないのである。フォイエルバッハこそ現代の浄罪界(煉獄)なのだ。」という。

 従来の思弁哲学の概念と偏見から解放されなければならないのは誰なのか?と言うつもりはないが、これは“青年マルクス”が「フォイエルバッハやシュトラウスが非難されたのは、彼らがキリスト教の教義を理性の教義ではないと言明したというより、むしろカトリックの教義をキリスト教の教義とみなしたためであった(つまり、悪いのはカトリックでありプロテスタントは悪くない)」と考えているからである。

 そうするとこの当時の“青年マルクス”の限界ということになるのだが、そういう面は確かにあり、否定すべきものでもないのだろうが、それだけではない点もあることを留意すべきである。

 当時の“青年マルクス”は大学を出たばかりの青年であり、しかも無職渡世人になろうとしていた。この短文が書かれた1842年の1月というのは、ライン州の自由主義的ブルジョアがカトリック的な『ケルン新聞』に対抗するために『ライン新聞』を創刊しようとしており、マルクスもそれに関わりをもちはじめていたからである。

 したがって、当然、この時期の“青年マルクス”の親プロテスタント的な態度は、もともとそうであったものプラス『ライン新聞』の“営業活動”(『ライン新聞』を継続的に発行し続けるには現実とある程度妥協しなければならない)という面もあるからだ。

 今回改めて読み直して、そういう後者の側面は見逃すべきではないと思った。

 例えば、“青年マルクス”は、最後に、浄罪界(煉獄)について触れているが、エルサレムの反対側、南半球のとある場所に煉獄島があって、と見てきたようなことをダンテが書いているのはダンテがカトリック教徒であったからである。

 天国と地獄の中間にあり、罪を清める場所としての浄罪界(煉獄)は325年のニケーア宗教会議で始めて認められたもので、それ以前に分裂したギリシア正教にはこの概念はないし、宗教改革ではプロテスタントたちはルターを先頭にこの概念、教会が死者の魂を救済するという概念に一貫して反対してきた。

 当然、“青年マルクス”はカトリックの教義とプロテスタントの教義は違うのだというのであるから、プロテスタントの教義にはない浄罪界(煉獄)という概念を持ち出すこと自体がおかしいのだが、ここでは煉獄なるものがあって、そこでの審判者がルターであるというのであるから、どういうことでしょうか?という話になる。


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